ヒトは不安の扉を開ける

古 散太

ヒトは不安の扉を開ける

 草原の真ん中に、木製のシンプルなデザインのドアが立っている。ぼくはその前で立ち尽くしている。

 知らない場所のドアを開ける。知らない番号の電話にでる。苦手な上司に呼び出される。道に迷う。知らない人に声をかけられる。知人の死、自分の死。

 ヒトはいつでも不安になれる。そこに不安という物体はなく、ほとんどの場合、今すぐここで不安が現実になることもないのに、だ。

 そうなのだ。ヒトは不安な生き物なのだ。何事もない空間、時間の中でも不安になれる才能を持っている。

 元々は、ヒトが「自分の所有」という考えを持つようになってからではないだろうか。自分の物、相手の物という考えになれば、いつか奪われるかもしれないという考えが生まれても不思議ではない。

 ヒトはいつも不安を抱えている。そして、その不安に実体はない。

 なぜなら、不安はかならず未来のことだから。もし現在進行形であれば、それは不安ではなく困ったこと、不都合なことになっているはずだ。

 つまりヒトはいつでも未来のことを考えて生きている、と言える。

 この世で起こるすべてのことについて、未来はいつも不確実であり、何も決まっていない。それは誰でもわかるだろう。

 占いは傾向を示すものだし、予言は当たりはずれが大きい。

 たとえば明朝八時、ぼくが会社に行っていることが、通常で考えれば決定しているとしても、明日の朝までにぼくの身に何が起こるかは誰にもわからない。ぼくにもわからない。単純に寝坊するかもしれない。今晩食べたもので食あたりを起こすかもしれない。親族に不幸があれば忌引きになるかもしれない。最悪、夜中に強盗に入られるかもしれないし、出勤途中に交通事故に遭うかもしれない。結果、次の日の午前八時、ぼくは会社にいない、ということになる。

 決まっていると信じていることは、「通常であれば」という信仰心にも似たものであり、現実に体験することは未知数で、予測はできない、ということになる。

 それでもヒトは明日もいつもどおりに通学したり通勤したりすると信じている。まるで間違いのないことのように信じている。これは強力な信仰と言える。

 「たぶんそうである」、「きっとそうなる」というのは、希望的観測と呼ばれるものだ。また、「かならずそうなる」というのは、発言者の願望が多く含まれている。

 良くも悪くも、未来に絶対ということはないのだ。

 それなのに、ヒトは良くない未来を想像して、それまでこの世に存在しなかったはずの新たな不安を生みだして、嫌悪や苦痛を感じている。不思議なことだ。


 ぼくは目の前にあるドアを開けようとして、不安な気持ちになっている。

 まだドアを開けていないのに、頭の中では様々な苦痛を感じることや面倒なこと、あるいは単純に嫌なことを想像して、なんとか回避できないものかと考える。

 この状況を客観的に見てみると、まだドアは開いていないのだから、その先に何があるのかなど誰にもわからない。しかし否定的な想像が、頭の中のほとんどを占めてしまっている。

 未来はわからない。それが不安の元凶だろう。

 それでもヒトは生きている。生きているということは時間を消費しているということ。何もしていなくても、何もしていないという体験をしているということになる。自分の意図したとおりであろうと、そうでなかろうと、つねに体験をし続けていて、それはいつか不安に思っていた未来も含んでいる。

 そう考えれば、ぼくがドアを開けることに不安を感じようが感じまいが、いつの日にか、ぼくはドアを開けるだろう。それ以外に今ここという瞬間から抜け出す方法がないからだ。

 このまま立ち尽くしていても何も変わらない。自分から動こうとしなければ、人生も物事も、勝手に動いてくれるわけではない。自分が動くから世界が動く。

 きっとこれからも不安がなくなることはないだろう。どれだけ覚悟していても、本能的に不安を感じることがあるだろうし、自分にとって都合の悪い未来を想像してしまうこともあるだろう。

 それでもぼくは、ドアを開け続けるだろう。そうしなければ、ただただ不安を感じる時間が長引くだけだ。

 やり直しのきかない失敗もあるかもしれない。それでもたかだか百年程度の人生でしかない。

 ひとまず、すべてはうまくいく、人生は順調であると信じて、不安を押しつぶしながら生きていくしかない。

 ノブを回し、扉をゆっくりと手前に引く。ぼくはドアの向こうへ、歩きだした。

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