【創作百合SF】今夜、記憶を溶かす踊りを、あなたと。

雨伽詩音

第1話今夜、記憶を溶かす踊りを、あなたと。

 このおののきをなぐさめるすべもなく、夜の闇の中で膝を抱えてミネラルウォーターを流し込む。重い腰を浮かせて台所から攫ってきたクラッカーは尽きかけ、そこに塗ったチーズの塩気をむさぼって、また水で喉をうるおす。不毛な行為ばかりを繰り返すわたしたちに朝など訪れない。

 かつて傷があった。癒え難い離別を、彼の残したキーボードを叩いて、記事に編むための文章を書き、それを換金するだけの日々を、あなたはわたしに許した。

 彼とかつて歩いた電気街の面影はとうに消え去り、今となっては娼館ばかりが立ち並ぶ街へと変わった、という記事を目にしたのも数年前のことで、そのデータさえもこのルーネティアに蓄積した無数のゴミの一部と成り果てて、そうした記事の断片をいくつもコピー&ペーストして、メモアプリに保存するだけの日々に意味などなかった。

 それらの幾つかは回り回って記事のネタになり、私の食糧を買う代金に消え、あるいはあなたへと贈る髪飾りやネックレスへと変わった。

「もうちょっとまともな食事を摂ったらどうなの」

 あなたは荒れ果てた床の上から、一冊の埃をかぶった雑誌をつまみ上げ、そこに載っているアフォガードのレシピを指差す。とうに失われた紙媒体の雑誌というメディアは、私が愛してやまないもののひとつだった。

 今となっては手に入らない材料は、代替食品で置き換えて、あなたは器用に料理をした。

「こんなものじゃどうしようもないでしょうけれど、あなたときたら、まともに固形物を食べようとしないんですもの。代替乳を利用したラクトアイスなら冷凍庫に眠っているでしょうし、コーヒーはあなたの好物でカプセルが山積みになっているでしょう。まだ開封していない箱がどれだけあるか、数えたことはあって?」

 あなたはわたしをその美しい紫色の瞳で睨みつけ、絹のような金の巻毛をかき上げて、手早くエプロンを纏う。

 その服の型紙もまた雑誌に掲載されていたもので、あなたが手ずから作ったものだった。3Dプリンターにデータを送ればすぐさまにでも生成されるものを、あなたはリネンのエプロンでないとと言って憚らなかった。

 この化繊の廉価な服ばかりが氾濫する世の中にあって、あなたは古風な意匠の服を好み、手先の器用さを活かして、ジャンクとなって久しいミシンをかつての電気街で購ったと聞いた。

「覚えていて? その時ミアン、あなたを見かけたのよ。メイドとして雇われようとしたところを助けてくれたわね」

 あなたはその繊細な指先で消費期限の切れていないコーヒーカプセルを摘み上げ、眉をひそめる。

「ドリップしたコーヒーの美味しさなんて、あなたはご存知ないのでしょうけれど、こうして機械で手軽に淹れて飲むものばかりがコーヒーではないわ」

 今日は一段とお小言が多い。

「機械に任せれば最適解の味になるのに?」

「ミアンの悪い癖ね」

 あなたはカプセルを一つゴミ箱に放り込み、どこからかコーヒー豆の入った小瓶を取り出して挽きはじめる。ミルで豆を挽く音なんて、彼と暮らしていた頃以来久しく聞いてはいなかった。

 わたしは片膝を立ててそこに頬をうずめ、ダークモードに設定した画面を見つめる。そこに無数に並ぶログを眺めているうちに、一枚の写真に行き当たる。いつか魚拓を取っておいた、ルーネティア上のメディアの写真の一部だった。

 複数人の男たちがオフィスの室内に並ぶ中に、彼の顔がある。眼鏡の奥のその瞳は冴えて、その瞳に抱かれた夜がよみがえり、わたしは写真を画面上のダストボックスに投げ込んだ。

 香りの記憶はいつも雄弁だ。時に危ういトリガーを備えてわたしの前に迫ってくる。わたしはさらに水を煽ろうとして、もうボトルに一滴も残っていないことに気づく。

「水毒症の悪癖は治らないようね」

 あなたはわたしに背を向けたまま独りごちて、箱詰めになったラクトアイスをサーバースプーンで掬い、ヴィンテージのガラス器に盛って、香り立つコーヒーをそれにかけた。

 記憶の氾濫が止まらない。いつかの夏の日、朝まで体を重ねてだるさの残る身を起こして飲んだコーヒーの味が頭の中にわだかまる。

「あ、ああ」

 わたしは両手で顔を覆い、そこに伸び切った赤毛がかかる。その奥の蒼い瞳から、静かに涙がこぼれはじめるのもそのままに、わたしは声を発することなく顔を歪めた。

「ミアン、どうしたの。これがお気に召さなくて?」

 あなたはアフォガードが入ったガラス器をしずかに傍によけて、わたしの両手を白く細い指先で包みこむ。それからゆっくりとした手つきでわたしの指先を顔から払い、あらわになったくちびるに、ゆっくりとキスをする。

「泣いているのね。アフォガードは私が食べましょう」

「いや、いいんだ。ちょっと古い馴染みの怨霊に出会ってしまっただけで」

「都市伝説の類は、私、信じないわよ」

「このルーネティアには時々いるのさ、そうした連中がね」

 わたしはあなたが銀のスプーンで一口掬ったアフォガードをくちびるに受ける。馥郁としたコーヒーの香りと絶妙な酸味と苦味、それにバニラアイスの甘味が口の中で溶けて広がり、わたしは電子端末を閉じてあなたの指先に指をからめる。

「踊ろう、レアナ。言葉も、文字も、わたしたちには今はいらない。ただ昔に戻って、愉楽のままに音楽に身をゆだねていた人間にかえろう」

「私、今時のステップは知らなくてよ」

「それでいい」

 わたしはあなたのしなやかな腰に手を回し、それから沈黙のうちに踊りはじめる。あなたはわたしの聞き慣れない音楽を口ずさみはじめ、踊りは少しずつ熱を帯びて、アフォガードを溶かすのだった。

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【創作百合SF】今夜、記憶を溶かす踊りを、あなたと。 雨伽詩音 @rain_sion

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