おやすみ
衣純糖度
おやすみ
「生まれてきた時のこと、わかる?」と、父さんが僕に聞いた。だから、僕は「わかんない」と言った。
「生まれた時のことなんて覚えているわけないじゃん」
隣に立つ父さんを見上げれば父さんはグレーの瞳で僕を見下ろしていた。
「そうだよな」と呟き、父さんはフライパンの柄を掴んで野菜炒めを作る作業に戻った。父さんの口がほころんでいたので、変なのと思いつつ僕は隣でまな板の上のトマトを切る作業に戻った。
料理が完成してキッチンの横にある二人がけのダイニングテーブルで向かい合い、野菜炒めとトマトと卵のスープと白米というなんてことない日に食べる一生思い出さないはずだった晩御飯を僕と父さんは向かい合って食べ始めた。
僕は食べる前に「いただきます」と言った。父さんは「いただきます」と言わなかった。父さんは挨拶が苦手だった。「おはよう」も「おやすみ」も「ごちそうさま」も言わない。けど、僕には挨拶という文化があり、人間は逐一、それを発する必要があるのだと教えてくれた。教えられた当初、「なんで、父さんは言わないの?」と聞けば「挨拶は、真人間がするもんだ」と言った。
「父さんは真人間じゃないの」
「うん、父さんはおかしいから」
「どこがおかしいの?」
「全部が」
「いつからおかしいの?」
「生まれた時から」
父さんがまともな返答をしなくなれば、それは「質問をするな」という意図だと、僕は理解していたから、それ以上質問しないで、心にあるノートに書き加えた。
父さんは挨拶が嫌い。
いつかの記憶を思い出していれば、いただきますを言わない父さんは無言でトマトと卵のスープを飲みはじめて、その後に野菜炒めを一口入れて、キャベツの音を立てながら噛んでいた。砕かれたキャベツを飲み込んで水を飲もうとコップに手を伸ばしたところで、父さんは僕がじっと見ていることに気がついたらしい。
高い鼻と色素の薄い瞳と髪を持つ父さんは、正反対の一重で真っ暗な瞳と髪を持つ僕を見た。
手に持ったコップに口をつけて水を飲み込んだ後に「なに?」と父さんは言った。
「なんで、さっき、あんなこと聞いたの」
「あんなことって?」
「生まれてきた時のことわかる?って言った」
「…いや、忘れていいよ」
「生まれてきた時のこと、覚えていた方が良かった?」
「それより、昨日やった計算式を覚えてる方がいいよ」
「父さんは、はぐらかす、のが上手だね」
「どこでそんな言葉、覚えたの」
「学校で覚えてきたんだ」
そう言えば父さんは笑みを浮かべて、「早く食べな」と食事を促した。
その日の夜、僕は布団に横になりながらは生まれてきた時の記憶を思い出そうとしていた。けど、僕の記憶は父さんと出会った7歳からしかない。父さんが僕の手を引いていて、家に帰っている最中の場面だった。僕は腕をひかれながら、あれ?と思っていた。確かに昨日まで、生きていた実感があるのに、父さんと手を繋ぐ前のことが何ひとつ思い出せなかった。けど、今日出会ったばかりの父さんにそんなことは言えなくて、僕はただ手を引かれて歩くしかできない。不安だったけど、父さんは僕に食事と温かい布団を与えてくれた。僕はそれで、もうそれがあればどうでもいいと思えた。どうして、父さんとの会う前の記憶がないのか、そんなこと知れなくてもいい、と。
僕もちょっとおかしいのかもしれない、父さんと同じように。
これが、僕が11歳で父さんが35歳の頃の出来事。
そして父さんが死んだのが僕が15歳で、父さんが40歳の頃。父さんの身体に見つかった病気はみるみるうちに父さんを蝕んでしまった。
「君が20歳になるまでは生きているつもりだったのに、ごめんね」と言い残して、父さんは死んでしまった。
これからどうなるのか不安を抱える前に、父さんはその人を僕に会わせた。僕を育ててくれると、父さんの知り合いを僕の前に連れてきた。その人は時折見かける父さんの友達だった。その人のことを“父さん”と呼ぶようにと言ったから、僕はその人のことも父さんと呼んで一緒に暮らした。父さんと同じ国の出身だというその人はニコリともしない硬い表情で僕を見てきて、これからこの人と暮らせるのかという不安が大きかった。死んでしまった父さんと一緒で、挨拶が嫌いらしく「おはよう」も「おやすみ」も言わない。一緒に食事をして僕が話しかけても短い返答ばかりで干渉されない。けど、彼は僕の生活が一定水準以上になるように金銭の尽力を惜しまなかった。高校と大学と、僕は何も不自由しなかったし、むしろ過剰だと思うくらいだった。僕が感謝の言葉を発しても受け取ってもらえなかった。「君じゃない、頼まれたからやっている」と、父さんは冷たく言った。家を出たのは大学を卒業した後で、僕は一人で暮らしていた。父さんとは時折一緒の食事に行くけど、それ以外の連絡をとることは少なかった。
それから15年の月日が流れて、僕は30歳になった。
職場の付き合っている女性と結婚することになったのはその女性の妊娠が発覚したからだった。順番が逆になったねと言いながら結婚することを約束した後に、父さんへ報告をしに実家へ顔を出した。
死んでしまった父さんとも使っていたダイニングテーブルで向かいあって結婚すること、その人が妊娠していることを告げる。どんな反応をするのか、僕はもうわかっていた。「そうか」と端的に告げられて終わりだろう。
そう、思っていたのに。
父さんが涙を流し始めたので、僕は本当に驚いてしまった。口元を抑えて父さんは泣いた。
僕はその涙の根源がわからなかった。なんでそんな顔するんだろう。父さんは僕にそっけなかった。会話もあまりなかった。重要なことは相談に乗ってくれたけど、くだらないことは聞いてくれなかった。褒めても、怒ってもくれなかった。なのに、なんで?
「僕は父さんに感謝をしている、俺を引き取って育ててくれたことも、大学まで行かせてくれたことも全部全部、本当に感謝してる。けど、父さんを家族だと思えたことが、ないんだ」
ずっと感じてきたこれを口に出さない方がいいとわかっていたけど、まぎれもない本心だった。
「父さんは窓ガラスの向こうにいるみたいだ」
そう言えば父さんは僕の顔をじっと見た後にテーブルに視線を下に下ろし、微かに呟くように言った。
「君は、僕の大切な人の器になる予定だったんだ」
普段の父から発せられることのない単語だった。それから、父さんは口を開いて何かを語ろうとした。
全ての名前をいつまでも覚えておくとこんがらがってくるからイニシャルだけ覚えていた。だから、もう、その時の名前を思い出せない。けど、俺がTで、彼がRとだけ、覚えていた。
日本じゃない、具体的な地名は避ける。日本から飛行機で十二時間かかる外国で、今から140年前程前の経済の転換が始まったばかりの不安定な時代だった。
俺とRが出会ったのは大学だった。俺は学生で、物理学を専攻しており一人の師の元で学んでいる最中だった。
ある日、俺は渡り廊下に設置されたベンチに座って昼食のパンを齧りながら今にも雨が降り出しそうな空模様を見ていた。そこへ同じ研究室の二人通りがかり“おはよう、T”と俺へ声をかけた。“あぁ”とだけ返答すれば、二人は通り過ぎながら“おはよう”“あぁ”と今のやりとりを再現し合って笑った。“挨拶嫌いもほどほどにしておけよ”と片方が投げかけ、二人は去っていった。
俺は怒りの沸点が湧き上がる感覚があったが、すぐに冷静になった。だって奴らの言う通り、笑われるのは挨拶ができない俺のせいだった。
“挨拶が嫌いなの?”と、尋ねたのはRだった。彼は俺の座るベンチの後ろに立っており、手にはゴミ袋を手にしていた。清掃員の制服を着た見知らぬ人物に俺が驚いていれば“ああ、すいません。ベンチの裏のゴミを拾っていたらたまたま声が聞こえて”と言って彼は手にしていた、ゴミをゴミ袋に放り投げた。俺は、男の瞳が青いなと思った後にその疑問に答えてやった。
「おはよう。こんにちは。こんばんわ。おやすみなさい。よろしくお願いします。ありがとうございます。愛してる。さよなら。全部、全部、嫌いだ」
「なんで?」
「あんたに関係ないだろう」
「僕も嫌いなんだ。挨拶が。特におはようとおやすみが、一番最悪だね。おはようとおやすみが言えるのは、赤ん坊の頃からそう声をかけてくれる人がいて、自分が発せば答えてくれる相手がいるから。そう教わってこなかったのに、突然、マナーとしてできないことを指摘されることは屈辱的だったな。だから、僕は必要に迫られた最低限の場面でしか、言わないことにしてる」
男がスラスラと俺の心を見透かして代弁するかのように話をしたのでこの男なら本心を話をしてもいいのかもしれないと思った。Rは微笑んだ後に“優秀な学生さんと同意見なんて嬉しいな”なんて笑った。
その出来事をきっかけにRと話をするようになった。ベンチで話を共にするようになれば、食堂で食事を共にするようになって、俺の所属する寮で休日を共にするようになった。挨拶が嫌いという他者からみたら意味不明な意見を共有していただけなのに彼はどんどんと俺の内側に入り込んできた。
酒を飲んだ後、Rが空に向かって恨み辛みを高々に叫ぶ姿が好きだった。それは俺が憎んでいるものと同じだった。尊敬できる父、清廉な母親、頼れる兄貴、優しい姉、手料理、団欒、くだらない会話。“好きなものが同じよりも嫌いなものが同じ方がいいのよ。二人でいれば好きなものは二倍になる、嫌いなものは二人で分け合うから半分になるのよ”といつぞや養母が言っていためちゃくちゃな計算式を解けた気がした。
俺は対話をすることは喜びなのだと、知った。自分の言葉を受け止めてくれて、返答してくれる人間がいること。対話は、互いに持っているスプーンを相手の口に捧げあっているみたいなものだ。俺は記憶を言葉にしてスプーンで掬い上げて彼の口へ差し出せば、彼はそれを口に含んで飲み込んで、もっと話してと言う。
彼が望むのであれば、と思って俺は何杯ものスプーンを彼に差し出した。自分を曝け出しすぎることは危険だと、わかっていたけど止められなかった。人に対する感情でこんなことになるのは初めてだった。理性が利かないで、自分の損得を考えないで、彼の表情の変化を見たいと思ってしまう。彼が俺の与えた物で肥え太って動けなくなればいいと思ってしまう。
俺はつまらない身の上話をした。父は本妻のいる権力者で、母はその愛人だった。父も母も俺の誕生を祝福しなかった。だって俺は二人の関係を具現化してしまう邪魔な存在だったから。幼少期は母と二人で暮らしていたけど、母親は俺が邪魔で仕方なかった様子で話をした記憶は少なかったし、いつもどこかへ出かけていた。その母親が亡くなった時、俺は手遅れで挨拶が嫌いな無作法な人間になっていた。父親の温情で俺は子供のいない夫妻にあてがわれてた。夫妻は良い人で俺に勉学を与えてくれたけど、良い人の傍ほど、当時の俺は辛い環境はなかった。自分の捻くれは浮き彫りになるから。
そんな話でも彼は聞いてくれて、“君が挨拶嫌いでよかったよ、こんな風に出会えなかったからね”と言ってくれた。
彼も俺にスプーンを差し出した。
彼から与えられた身の上の話を繋げていけば、彼のこれまでの人生をたどることができた。
彼が生まれた年に父親がしていた造船業の会社を畳む事になり莫大な借金を抱えることになり一家は極貧生活を強いられるようになった。父親は出稼ぎに、母親も日銭を稼ぐために毎日働きに出ており、彼を構う者はおらず、しかも、兄姉は裕福だった生活の転落を彼が原因だと考え、疫病神だと彼のことを無視した。それは精神を病んだ母親にも伝染して彼の居場所は家には存在しなかった。彼は学校に通わずに働き家計を支えたが家族からの扱いが変わることがなく、彼は十六歳となった。そんな時に彼は「家の借金をぜーんぶ返してもお釣りがでる額の仕事」を紹介されたのだと言う。内容を何度、聞いても教えてくれなかった。
「守秘義務があるんだ。今も仕事は終わっていない」
「まさか清掃の仕事が?」
「清掃の仕事も、まあ、含まれてるのかな」
「なんだそれ」
曖昧な返答でこの話はいつも終わった。とにかく彼はその仕事のおかげで家族への借金を返し終えることができたのだと言った。
スプーンを与え合うことにも限界がきて、一度だけ肉体を重ねようとしてみたことがある。僕らはそれが犯罪にあたることも知ってた、けど、二人とも抵抗なく自然な流れでそうなった。でも、湧き上がる肉欲からじゃなかった。心をスプーンで与え合うだけじゃ足りなくなったからだった。けど、途中で二人とも違うことに気が付いてやめた。そうじゃなかったんだと、二人で悟った。友人を超えた親友として、いや、それ以上のものだった。俺は彼に父親のような、母親のような、兄のような、弟のような、姉のような、妹のような、妻のような、夫のような。そんなものを彼に与えたかったし、与えられたかった。
“有限を重ねて無限を作るのだ!”がチェスター博士の口癖だった。物理学者である博士の研究は複雑だったけど、一言で言えば、霊魂を物理的に存在させることだった。チェスター博士は不老不死を望んでおり、朽ちる肉体を入れ替えて、魂を存在させ続けることでの不死を目指していた。博士が実験に成功したのは霊魂の研究に身を沈めていたからだと思う。怪しげな宗教家はもちろん魔女の末裔や占い師やオカルトめいた話も全ての意見に耳を傾け研究に生かそうとした。
もちろん表向きの研究内容は違っていた。その表向きの内容での研究生は数十名いたが、裏の研究の助手をしていたのは俺だけだった。
チェスター博士がマウスから人間を被験体にした実験に踏み出そうと言ったのはマウスでの成功例が複数回確認できた時だった。
二体のマウスを用意する。マウス1を内側が全面鏡になっている特殊なカプセルの中で殺し、魂という気体を凝華させ抽出する。その後に、もう一体のマウス2を殺し魂を外へ逃した後、マウス2をカプセルに入れてマウス1から抽出した魂を再び気体化させ内部に貼ったビニール素材とカプセルの間に空気を入れて肉体にそうように気体の魂を密着させていけば、マウスは息を吹き返した。ただし、マウス1の魂がマウス2の体に入った形で。マウスに食事を与える、そうすればマウス2の好物だった食物ではなくマウス1の好物を好んで食べるようになった。
俺は実験の成功に大いに喜んだが、人間を使った実験は早計だと感じていた。博士に意見すれば“君はまだ時間があるかもしれないが、僕にはないんだ、もう老体だ、いつ魂が離れてしまうのかもわからない”と自身の皺の多い手を俺に見せつけながら“君を助手にしたのは君が不死を望んでいないからだ。永遠に生きたいという人類の願いを君は一切持っていない。むしろ、逆の願望を持っている。私の研究の邪魔をしないと思ったのだよ”と言った。
「しかし、博士、いくら実験を進めようとしたところで被験体がいません。マウスみたいに許可を得ないで魂と肉体を切り離すなど、人間で簡単に承知する人はいませんよ」
「いや、目星はついてる。絶望した子供の会というのがあるんだ」
「絶望した、子供の会?」
「おや、知らんのかね。生きるのに絶望した十五から十八歳の子供が所属できるんだ。そこに所属している者たちは皆、死を望んでいる。そこの会に声をかければ一人二人捕まえられるはずだ」
俺は博士が作業を進めるために法螺を吹いているのだと思い、本気にしていなかった。そんな話、聞いたこともなかった。
その晩、そんな博士の冗談を酒のつまみのつもりでRへ話をした。魂の実験の話を抜かして“絶望した子供の会”という部分だけを。“博士も馬鹿な冗談、言うよな。そんな会が実在していたら世間一般黙っていないよ”って言えば、なんだそれと彼は笑うと思ったのに、彼は笑わなかった。
「貧困家庭の子供の間で噂として流れていていくんだ。その会に所属すれば、死を金として取引できるんだと教えられて」
表情のない暗い声音で淡々と彼はスプーンを差し出した。
「なんの目的で誰がやっている、というのは噂には全く載らない。そういった機関があるとだけ知る。それを知って、本気で入会したいと思った子供だけ躍起になって探す。その姿を会の連中が知り、認められて初めて向こうから声が掛かるんだ。そして、その会を取り仕切っている場所に連れていかれて全容を教えられる。大学の実験で使われる被験体として順番が来るのを待つ代わりに先払いで大金が支払われるのだと。その人間は契約した大学内での仕事が与えられる。清掃係とか料理係とか。まあ、軟禁だね。逃げられないための」
俺は全ての答え合わせができた気がした。校内にいる数名の若い男の清掃係や雑用係を見かけたことがあった。女性が担うことが多い役割をなぜこんな若い連中がやっているのかと疑問に思ったことがあったが、その先のことを考えることはなかった。清掃係をしている彼の“家の借金をぜーんぶ返してもお釣りがでる額の仕事”が、それ、だったのだ。
「順番がきたら、僕は言われた通りの研究室へ行く予定」
「今、何番目なの?」
「僕の前に人はいない、僕が一番前。今朝、声がかかったんだ」
Rは着ていた服の胸ポケットから一枚の用紙を取り出した。契約書の控えにはRのサインがあり、その内容の一部を指さして俺に見せた。
「一週間後、十月二十日、僕の身体は医学部の被検体として使われる」
嫌だと思い、そんなの逃げだせばいいと、行動を止めようとしたスプーンは受け取ってもらえなかった。代わりに彼は生まれてきた日のことを話した。
「生まれてきたときのこと、わかる?」
「わからない」
「僕はわかるよ、きっと朝から雨だった。町の人々は皆、苛立っていて最悪だと嘆いている。僕は母の腹から出てきたけど、誰も祝福していない。父さんは仕事を失って負債を抱えていてそれどころじゃないし、母さんはこんな時に生まれた赤ん坊をこれから育てていけるのか不安で、赤ん坊を産まない方がよかったんじゃないかと思う。上のきょうだい達は環境の変化に追いつけなくて僕を見て憎む。そんな訳ないとわかっているのに、生まれた赤ん坊が元凶だと憎しみを向ける。覚えてないけど、わかるんだ。生まれた時のこと」
自分の血肉や心を分け与えられると思えた人がいなくなるとわかった俺の行動は一般的には違うと分かっていた。残りの時間を一緒に過ごす、彼を連れて遠くへ逃げる、彼の行動をとがめて泣きわめいて嘆く。全部違った。俺はすぐにチェスター博士に経緯を話をして、人間の魂の移植実験を行うことを提案した。医学部でRの身体を使う予定の人間に詰め寄って、魂だけくださいと、実験の協力を迫った。相手はこちらの実験の詳細を教えるということを条件に了承してくれた。そして、彼の器を入れる肉体を手に入れるために“絶望した子供の会”の管理者を訪ねた。そこで俺は一人の青年をあてがわれた。俺は契約書を持参してその青年を訪ねた。重要な書類を破棄するために延々と燃やし続ける役割を持った彼は焼却炉の傍にいた。煤だらけの顔をタオルで拭いている彼に、契約書を渡せば、“やっと来た“そんな顔をして、紙を受け取っていた。
彼に詳細を話すつもりだった。魂の研究と君の肉体にこれから別の人間の魂が入るのだと告げるつもりだったのに、彼は手のひらをこちらに向けて僕の声を遮って“なにも言わなくていい、サインをするからペンを貸してくれ”と彼はさっさとサインをした。潔さではない、諦めという行動だった。
“君はなぜ、この会に入ったんだ?”という俺の問いに青年は無気力な目をこちらに向けた。
「オーシャンアイスってあるだろ。俺、あれが好きで大人になったら毎日食べようと思ってたんだ。けど、俺は大人になっても、俺がどれだけ頑張っても、あれを毎日食べることができないとわかったんだ」
人の用意をした後、俺は連日、徹夜で人間に使用できる魂の装置の組み立てに勤しんだ。Rには会わなかった、そんなことをしていたら間に合わなかった。
博士と協力して装置が完成したのは時刻の直前だった。
結果から言えば、実験は成功した。
Rの魂はあの男の身体に移動した。Rが目覚めた時の表情を俺は忘れられない。
見慣れない顔なのに、表情はRだった。言葉遣いも、発声の仕方も、魂がRなのだと会話をしなくてもわかった。俺の勝手な行動を彼は最初、責めた。だから、俺は嘘をついた。
「俺は無限を生きたい、その時に誰かに隣にいてほしい、それは君がいい」
そこから彼と俺は身体を変えながら140年の年月を共にした。俺たちは親子になったり兄弟になったり友人になったりしながら国を移動した。砂漠でラクダに乗ったり、オーロラを見たり、都会のビルに住んだこともあれば、洞穴に住んだこたともあった。僕達は肉体を交換しながら、スプーンを与え合い続けた。不死を手に入れた博士は最初の成功例を成し遂げた俺たちの手術を快く引き受けてくれて、生き続けて、そして、ここに辿り着いた。大陸を移動し続けて、最後に辿り着いたのは小さな島国だった。
その頃丁度、Rの肉体を交換する必要があり、俺はすぐさま日本にある「絶望した子供の会」のようなものを探した。似たような集まりは世界中にあったから、連絡をとり身体を準備しようとした。けど、Rは自ら魂を移す肉体を選んでくると言って、君を連れてきた。
そう、君だ。君はRに選ばれたんだ。虐待を受けていた君を、Rは自分に重ねたんだろう。
君を連れてきたRは言った。
「君が、僕の魂を移植させて生きながらえさせた時、僕は嬉しかった。僕の不在を悲しむ人がいるという喜びを得ることができたから。君が無限の時間を望むなら、それに付き合おうとも思った。けど、同時に怒りも持った。僕は存在を断ち切りたかったから。僕はこの世に僕がいたという事実さえ消し去りたかったから。けど、世界中を旅して様々な人達を見ていけばそれは違うのだと分かったんだ。僕は命を投げ出すべきじゃなかった、僕にはするべきことがあった。君は有限を重ねた無限を望んだけど、僕らは無限の一部なんだよ、生命が生まれて子供が大人になり子供を産み大人になる。その営みの繰り返しは無限に続いて、僕らはその一部だったんだ。僕はその一部になりたい。この子と会った時、僕はこの子に託そうと思った。僕は、僕が生きながらえるのではなく、この子が生きながらえさせたい。僕も無限の連鎖の一部になりたい」
彼は魂の移植を拒否をして、君を育てはじめた。俺はこれまでの俺達を否定されてしまったように感じて彼から離れて生活するようになった。
彼の死は決まった出来事だった、その時に彼が入っていた肉体は遺伝子から長くは生きれないだろうとわかっていたんだ。だから、すぐに移植をしようとしていたのに。俺はRに君が成長するまでのために、魂の移動をすることを持ちかけた。けど、彼は首を縦に振るはなかった。
彼が亡くなる直前、最後にくれたスプーンは短かった。
「おやすみ」
Rから託された君と育てている時、俺はずっと納得ができてなかった、君がいたからRがいなくなったのだと思っていた。
けど、今、君の報告を聞いた時、わかったんだ。俺は君の成長過程を見すぎていた、Rに手を引かれていた子供が成長して大人になり、子供を作った。
Rが言っていたことが分かったよ。無限を生きるよりもRがなりたいと言ったことを理解できた。
だから、俺は今、泣いたんだ。
「君は、僕の大切な人の器になる予定だったんだ」という言葉の後で、父さんは何かを話そうとしていた。なのに、黙ってしまった。僕は父さんが話し出すのを待っていたけど、父さんが何かを話すことはなかった。
「…俺は、君が思っているよりも、君のことを大切に思っていたんだよ」
長い沈黙の後に出された一言は文字数の割に重みを持っていた。僕は今、伝えた自分の暴言に近い発言を後悔して「ごめん」と言えば、今度、その彼女を紹介してほしいと言って、父さんは無表情に近い笑みをくれた。
今度、彼女を連れてくると話をして僕は家を後にしようとした。父さんは玄関まで見送りに来てくれてドアを開ければ薄暗く、僕は返答が返ってこないことを知りつつ「おやすみ」と言った。
ドアが閉まる直前に、後ろから、父さんの「おやすみ」という声が聞こえた。
おやすみ 衣純糖度 @yurenai77
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