隣の席の霧ヶ原澪は連続殺人鬼である

ちぇんそー娘

序章 六月十五日 三→四

佐踏誰郎は【六月十五日】が三回目である



 夢とは、思い通りにいくからこそ夢なのだろう。


 夢の中で私は自由だった。

 夢の中で私を縛るものは何もなかった。


 だからこそ、私はいつもそれが夢だと気が付いてしまう。


 でもそれでいいのかもしれない。だって、夢だと知っているなら、最初から期待なんてしないのだから。


 だから私は知らないままでいい。

 これが夢か現実かなんて知らないまま。

 夢も抱かず、現実も見ず。


 蚕のままで、死んでしまいたい。




 ◆ 





 夢とは思い通りにいかないものである。


 ここでの夢とは眠るときに見るあれのことであり、将来の展望のことではない。

 いや、後者も思い通りにいくものではないのだが。


 とにかく夢とは思い通りにいかないのだ。


 例えば、酷い悪夢を見たせいで何もかもやる気が出ずについ二度寝してしまい、一限に遅刻してしまうとか、夢とは如何せん思い通りになってくれない。


「さすがにそれは無理があるだろ。おとなしくこっち側に来たことを認めろよな」

「お前と一緒にするな。俺は今日生まれて初めて遅刻をしたんだぞ」

「一度落ちちまったらもう後は沼だぜ。経験者のありがたい意見は聞いておきな、佐踏」


 幼稚園からの付き合いでありいわゆる幼馴染である涼木賢太すずきけんたは、名前に込められた賢い子に育ってほしいという両親からの願いを全力でドブに投げ捨てた、お手本のような不良生徒。

 不良生徒の先輩としてしかありがたくない発言をしながら、毎週月曜日発売の、最高に面白い漫画雑誌に目を通していた。


「それでなんだ。お前が珍しく俺に相談があるって言ったからわざわざさっさと帰らないでいてやってるんだぜ?」


 そう言って賢太は漫画雑誌を鞄にしまい、頬杖を突きながら対面に座る俺の目をじっと見つめてくる。少なくともその表情は真面目そのもの。

 こういうところをたまに見せるからこそ、この男は約束は守らないし授業には出ないのに周りに自然と人が集まる不思議な魅力があるのだろう。それを認めるのは何か癪だが、甘えさせてもらうことにする。


 今俺の身に起きている異常事態。それこそ文字通りに猫の手も借りたいくらいの異常事態なのだから。


「……笑うなよ?」

「お前が真面目なら笑わねぇよ」


 少しだけ微笑む賢太の顔には男の俺ですらなんだか引き込まれてしまう色気があった。


 その笑顔を見ていると、俺の悩みもこいつにとってはちっぽけなもので、相談してしまえばすっきり解決してしまうのではないか、という根拠がないけれど確信のある安心感が湧いてきて、開くのが億劫だった口が滑らかに開いた。



「実は……多分俺にとって今日は三回目なんだ」



 俺の言葉に対して賢太は表情を柔らかな笑みのまま変えず一言。


「病院行って来い、頭か精神」


 そうなるよなという納得一割、期待を返せという怒り九割。とりあえず賢太に期待して相談するのはもうやめることにした。





 ◆





 大前提として、佐踏誰郎さとうたろうという人間は名前が少し変わっている以外普通の人間である。


 確かに名前は少し、いやかなり変わっていると思う。


 まず苗字が日本において最も多いらしい【佐藤】と同じ読みながらめったに見ない【佐踏】という字面だし、その次に続く名前がこれまた【誰郎】。


 両親いわく、誰の代わりにもならない人間に育って欲しいという願いが込められているらしいが、結果として日本で一番代わりがいそうな男子の名前に音だけならなってしまっている。


 なのに字面が珍しいせいで、漢字を見られたら動物園で見たことのない動物を見たかのような顔をされるのが常。両親には悪いが、俺の秘かなコンプレックスになってしまっている。


 話を戻すが、とにかく俺が言いたい普通とは誇れる特技も目立った欠点も思いつかないということ。


 もっと端的に言うなら自己紹介が思いつかないといったニュアンスだ。


 中学生の時までなら走るの大好き陸上少年、みたいなキャッチフレーズがあったんだが。今は帰宅部なのでそれも使えない。

 そんな普通の高校生である俺は今現在、少し厄介な状況に巻き込まれている。


 ここでもしも俺が天才物理学者高校生だったなら、実験と推測で見事に問題を解き明かしたりできたかもしれない。

 部活に一生懸命なインターハイ出場が当然なスポーツマンだったなら湧き上がる活力で解決のために奔走できたのかもしれない。


 或いはもしも俺が漫画の世界のような超能力者なら?

 家業で暗殺術を叩きこまれている殺し屋だったら?

 実は宇宙人だったとしたら?


 そんな際立った特別が俺にあったならば、今この状況をどうにかできたかもしれない。しかし実際の俺はと言うと、目の前で交通事故が起きたら動揺してしまい救急車や警察に電話を掛けられるかもわからない、そんな人間なのだ。


 そんな普通の、というより目立った特徴がない高校生である俺の六月十五日は、いきなり最悪な形で始まった。


 まず俺は先ほどまで溺れていたんじゃないかというくらい、尋常じゃない量の寝汗をかきながら飛び起きた。


 悪夢を見た。

 そうとしか表現できないが、それ以上どう表現すればいいかもわからない未知の恐怖だった。内容こそ思い出せないが、激しい頭痛と水を被ったように湿った寝間着、そして中学生の時に駅伝で五キロメートルを走った時よりも荒い呼吸。肉体的、精神的共にすさまじいダメージを負っていた俺は何をする気も起きず、そのまま二度寝してしまった。


 そして結果として一限に遅刻し、俺は小学生からの無遅刻無欠席健康優良児という肩書も使えなくなり、本格的に特筆すべき点がなくなってしまったのだが、問題はそこではない。


 最悪の目覚めではあったが、そのあとの六月十五日は特にこれと言って変わったことのある日ではなかった。


 遅刻とはいえ二限からはちゃんと授業に出て、五限の物理の担任である福田先生が昼休みにぎっくり腰で病院に搬送されてしまうという事件こそあったが、かといって俺の日常が変わることはない。


 なんだかすこし冷たい言い方になってしまうが、極論福田先生の腰が爆発したって俺自身にはそこまで影響がないのだ。


 様子が変わったのは、放課後になってすぐのことだった。


 いざ帰ろうと思い外を見てみると、天気予報では一日晴れだったのに予報外れの雨が降っていた。

 うちの高校から俺の家までは約二十分。普段ならば賢太と共に走って帰ってよかったところだが、今日の俺は今朝の悪夢で体調があまりよくはない。


 故に、空模様から通り雨だと判断して俺は図書室で時間を潰すことにした。


 そして図書室で成績アップのために勉強でもしようかと思って数分、もう清々しいほどの大爆睡をキメて、友人の図書委員に起こされて目が覚めたのが十九時前。雨はすっかり止んで外は少し暗くなり始めていた。


 図書室も閉まるし学校に長居する理由もない。俺はいつも通り帰路につき、これまたいつも通りに少し人気のない路地裏の道を通ることにした。大通りではなくこの道を使うことで、学校から俺の家までの時間は三分ほど短縮ができる。


 逆にそうでもなければこんな薄暗い道、使うわけがない。


 繰り返すが俺は普通の男子高校生なのだ。男子高校生とは老若男女の区切りの中では成人男性に次いで体力とパワーに満ち溢れた区分になるが、俺は格闘技をやってもいなければ人を傷つけることにためらいがない頭のねじが外れた人間でもない。

 もしもいきなり刃物か何かで武装した、人を傷つけることに躊躇いのない人間が現れたら、それが老若男女の男以外だったとしても負ける自信がある。

 そんな変なことを想像してしまったせいか、その日俺は不幸にも想像が現実になってしまった。


 出会ってしまったのだ。不審者というやつに。


 オーバーサイズのパーカーで体格を隠し、深く被ったフードで顔を隠し。まるで仄暗い夕暮れの闇を纏い何もかもぼやかしてしまうような、幽霊のような雰囲気。

 その怪異のような不気味な雰囲気を、パーカーについた猫耳がぶち壊して一気に変質者に格下げし、腰に提げた日本刀でなんとか格を不審者に保つ不思議な存在。


 なんといえばいいんだろうか。とにかくすごく怪しい。まず日本刀が模造刀だったとしても危険人物には変わりないだろうし、それに加えて深く被ったフード。ここまでなら幽鬼のような立ち姿も含めて恐ろしいのだが、そのフードにデフォルメされたかわいらしいネコミミが付いているせいで判断力に致命的なバグが発生したような気分になる。


 猫耳侍、なんてかわいらしい文字列が頭に浮かんだが、現実として目の前にいるのは日本刀のようなものを持った不審者だ。話しかけるとか立ち向かうとかそんな考えが出てくるわけがない。


 とにかくまずは逃げる。目測だが不審者との距離は五十メートルほどだろう。たとえ相手が陸上の世界チャンピオンだとしても、元々長距離とはいえ陸上部に所属していた俺にすぐに追いつける距離ではない。そもそも、相手は日本刀のようなものを持っているのだ。たとえ偽物でもそれなりに重さがあるだろうし、すぐに追いつかれることはまずない。


 ゆっくりと、不審者を刺激しないようにあとずさりをする。その動きに気付いたのか、不審者の首が少しだけ横に傾いた。その仕草はなんだか本物の猫のようで愛らしさがあったが、その時の俺の感情は気づかれたという恐怖に満たされ、とにかくすぐに背を向けて走り出そうとした。



「え?」



 だが、実際に俺ができた行動は風に吹かれたら消えてしまうような小さな声を漏らすことだけだった。

 なぜか体にうまく力が入らなくなり、少し視線を下げると胸から何か、鈍色のモノが生えていることに気が付いた。

 何が起きたのか冷静に思考する余裕は、一拍遅れて訪れた激痛によって消し飛ばされる。


 距離はあったはずとか、走ってくる音も聞こえなかったとか、必死になぜこうなったかという疑問の答えを導きだそうとしたが、答えは出ないまま俺はろくに受け身も取れずに地面へと倒れ込んだ。


 胸が焼け付くように痛いのに、手足は凍らされているかのような痛いほどの寒気。どっちにしても痛くて苦しくて、何が何だかわからなくて。


 俺はそのまま、抗いようのない眠気に抵抗できずに眼を閉じた。二度と目を開けられないという確信があったが、それでも俺は抗うことはできなかった。


 という、夢を見たのだ。


 あんまりにリアルな夢だったせいで、起きた時には頭と胸が激しく痛み、そのまま気絶するように二度寝してしまい寝坊したというのが今日遅刻してしまった原因だったのだ。


 起きてすぐはなんて夢だ、と俺も笑っていられた。


 だが、時間が過ぎていくほどにその笑いからはどんどんと、雑巾絞りでもされているみたいな胸がひきつる痛みと共に水分が失われ乾いた笑いになっていった。

 遅刻してきたときの賢太の反応、授業の内容、そして極めつけは五限目の開始前。

 俺たちの物理の担任である福田先生が昼休みにぎっくり腰で病院に運ばれてしまい、五限目は自習となってしまった。


 そう。今日という日、六月十五日に起こることすべてが、俺が見た夢と一致していたのだ。


 となると、夢の中で見たあの悪夢。俺が日本刀を持った不審者に斬り殺されるというあの夢もまた、六月十五日だったのではないか?


 俺はもしかして、六月十五日を死ぬたびに繰り返しているのでは?


「いや、やっぱないよなぁ」


 帰り道、大通りを歩きながらついそんな声を漏らしてしまった。


 そう思う要素はいくつもある。だが、現実として同じ日を繰り返すなんて現象が起きるかと言われたら、間違いなく俺だって信じられない。

 仮に賢太が自分は同じ一日を繰り返しているとか言い出したら、俺は間違いなく「さっさと病院いけ」とだけ言う。


 だがやはりあの痛みやデジャヴというには強すぎる既視感を現実的に説明する手段は同じ日を繰り返している、という答えになってしまう。全然現実的ではないのだが。


 しかしはっきりとわかっていることもある。


 俺が殺されるのは、人気のない路地裏に入ったからだ。そこで猫耳フードの不審者に殺されるなら、そこに行かなければ死ぬことはない。大通りを通って、雨が止んだタイミングですぐに帰ればよいのだ。結果として当然の様に俺は何事もなく家に辿り着けた。


 あとはこのまま戸締りをしっかりとして眠ってしまえば六月十五日は終わる。この街に猫耳フードの不審者がいるという事実は変わらないが、ひとまず俺が置かれている奇妙な現状は解決する。


「ただいまー」


 ぼんやりとそんなことを考えていると、双子の妹である花(はな)華(か)の声がした。俺と違ってテニス部で毎日汗を流している妹の声は疲労がにじみ出ており、部屋に荷物を置いたらそのまま風呂場に向かっていったようだ。

 とりあえず妹が不審者に襲われるという最悪の事態はなかったし、風呂から出たらそれとなく花華に不審者の噂でも聞いてみることにしよう。華の女子高生は噂に関して男子高校生の数千倍の情報網を持つのだ。でも最近兄に対してやたら冷たいから、話を聞いてくれるか心配だ……。


 ガチャン。


 思考を切り裂いたのは本当に小さな音だった。

 今の音は恐らく玄関の扉が開いて、それから閉まった音。花華が帰って来た時もした音。誰かが家に入ってきた音。

 花華のやつ、戸締りはちゃんとしろ、っていつも言っているのに鍵をかけ忘れやがったな。

 今日は母さんも帰れないから鍵はちゃんと閉めてって言っていたし、聞き間違いでなければ俺たちの家の人間ではない第三者が入ってきたことになる。


 とりあえず深呼吸。


 まだそうと決まったわけではないが、不審者が入ってきたとしたらそう時間はない。


 我が家の風呂場は一階にあるが故に、二階にある俺の部屋よりもまず先に風呂場に辿り着く可能性がある。そうなれば俺よりも先に花華が不審者と会うことになる。


 躊躇っている暇はない。音をたてないように慎重に扉を開け、足音に気を付けながら一階に降りる。対して広い家ではないゆえにすぐに玄関は目に留まった。


「……閉まってる?」


 恐る恐る近づいて確認してみたが、鍵はちゃんと閉められていた。

 どうやら少し神経質になっていたらしい。別の音を聞き間違えたか、或いは幻聴だったか。とにかく心配のし過ぎだったようだし、部屋に戻ってもうサッサと寝てしまおうと振り返ったその時。


「え?」


 強烈なデジャヴ。


 前にもこんな、驚きで情けない声を出した覚えが確かにあった。

 眼の前に立っていたのは、猫耳のついたフードを被った誰か。


 手には日本刀、鞘から抜かれて俺の方へと向けられたそれは、見事に俺の胸に刺さっていた。


「マジ、かよ……」


 最後の言葉になるかもしれないのに、俺の口から洩れたのはそんな驚愕を表現するための言葉だった。


 だってこれしか思いつかない、こうとしか言いようがない。俺が驚けば、相手が何か反応するかもしれない。


 焼けつく胸の痛み。

 鉛のように冷たく重くなっていく手足。

 あらゆる苦しみを凝縮したような感覚の中でも、俺の意識はある一点にだけ向けられていた。


 薄暗い路地裏の道ではなく、明るい室内だったがゆえに俺は見てしまった、知ってしまった。


 知ってしまえば、もう二度とは戻れない。

 知ってしまったからこそ、もう俺は興味を止められない。


 深く被ったフードの中。何度も俺を殺す猫耳フードの不審者。いや、猫耳フードの殺人鬼のその顔を見てしまったのだ。




 ◆





 目が覚めて激しい頭痛と胸の痛みに顔を顰める。


 だが、二度寝する気分にはなれなかった。とりあえず寝汗を流すためにシャワーを浴びて、いつも通り身支度をして学校へと向かうこととした。

 スマホが指し示す今日の日付は、六月十五日の月曜日。天気は一日晴れの予報。鞄に折りたたみ傘を入れて俺はいつもと変わらない通学路を歩いていく。


 例えばの話だが、殺人鬼の正体としてインパクトがあるのはどんな奴だろうか。やはり清廉潔白でそんなことしなさそうな奴になるだろう。物語だったら、賢太の奴が実は殺人鬼の正体でした、みたいな展開でも面白いかもしれない。


 教室に辿り着き、中を見渡す。


 二年生になって二か月。クラス替えがあったとはいえ元から知っている人間も数人、まだ顔を覚えた程度の人間が殆ど。友達と呼べる間柄の人間はこのクラスには現在はいない。賢太の奴は今日が六月十五日ならば、来るのは二限目からなのだから。


 その中に一つ、一度見たら死んでも忘れないであろう顔を見つける。


 人形と呼ぶには生気に満ち溢れすぎているが、生物と呼ぶには精巧すぎる顔立ち。艶やかな黒髪が纏う妖艶さは、無機質な照明の光の方を蠟燭に揺れる灯火に変えてしまうような怪しい魅力のある、同級生とは思えない雰囲気を纏った彼女。


 その隣の席、つまりは俺自身の席に座り俺は小さな声で、しかし確かに勝利を宣言するかのように力強く。



「意外と近くにいるもんだな。今日はお世話になったな、殺人鬼」



 皮肉もたっぷりと込めて、彼女にとっては今夜に起こすはずだったその殺意を名探偵のように言い当ててやる。その言葉を受けて、殺人鬼は―――――――。



「十点。死体が殺した相手に何て言ってくるか、楽しみにしていたのに。貴方ってつまらない人ね、佐踏くん」



 隣の席の霧ヶ原きりがはらみおは、いつもと変わらぬ涼しい顔で笑って見せた。

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