花天月地【第72話 郭嘉】

七海ポルカ

第1話




 笛の音が止まった。



 回廊を抜けて夜の空中庭園に行くと、大きな池の中央に建った四阿しあの側にその姿があった。



孟徳もうとく



 夏侯惇かこうとんが歩いて行く。

 曹操そうそうは振り返った。


「なんだ。こっちにいたのか元譲げんじょう。静かすぎるからいないのかと……俺が休みを与えた時くらい、城下の家に帰れ」


「やかましいわ。お前が休みを与えた時はここぞとばかりに城の広い寝台で昼下がりまで寝るのが俺の流儀だ。

 自分の屋敷にわざわざ出向いて仰々しく迎えられるのは鬱陶しい。

 息子共には会いたけりゃ城に会いに来いと言ってあるからいいんだ。細かいことをいちいち構うな」


 曹操が、夏侯惇の言い草に声を出して笑った。


「俺は、お前の妻や側室には死ぬほど恨まれておろうな」


 夏侯惇は腕を組み、曹操の隣に立つ。


「いや。そうでもない。女というものはな。男女二人だけの時は寵を占有したいと望むものだが、息子が生まれると家庭を顧みない夫のことなど、どうでもよくなって来るらしいぞ。

 うちのには幸い、妾にも全員息子が生まれただろ。

 だから俺のおかげで息子が陛下の覚えめでたいと、例え一年会わなくても、会えば息子の父親だ息子の父親だっていつも崇め奉らってくれるわ。そのかわり俺がお前に罷免されたら、俺は女房どもに多分殺されるから、絶対罷免するなよ」


「分かった分かった。その辺りのことはちゃんと考慮しておく」


 おかしそうに曹操が笑っている。

 



 多くの者が、曹操が昔と変わったと言う。

 ……あの慧眼を持つ、荀文若じゅんぶんじゃくでさえ。

 そう考え、涼州遠征前に長安ちょうあんを訪れた郭嘉と飲んだ時に「違いますよ」と郭嘉が笑っていたのを思い出した。


『文若殿は曹操殿が変わったと思ってない。

 むしろ変わってくださらないのが、文若殿は困ると思ってるのです』


 しばし考え「……なるほどな」と答えた。


『だが俺から言わせれば、荀彧も相当頑固な奴だぞ。

 孟徳もうとくのことばかり言えん。

 何故位のことで孟徳と諍いなどするのだ。

 あいつの願いなど誰よりも文若ぶんじゃくが知っているはず。

 孟徳にとって大事なのは帝位ではない。新しい時代の権威を打ち立てる意味だ』



『あの二人は人間の世の位というより、

 どちらもが【星】なのです。元譲げんじょう殿。

 姿を変えず、居場所を変えず、そこにあることで世を照らす。

 ――大丈夫。

 人の世の理が殿と荀彧じゅんいく殿を分け隔てても、心は共にあります』



 郭嘉かくかが少年の頃は、何を言っても賢すぎて生意気に思え、黙れと随分叱り飛ばした。

 それがいつの間にか郭嘉の言葉を聞いていると、よく分からない難解なことでも、なるほどな、などと言って受け止めている自分がいる。


 こいつと話していると、どんなことでもそうかもなと自然と思い、心が落ち着くのだ。

 曹操もそうなのだろう。そして夏侯惇かこうとんは曹操と話していてもそうなることがある。

 

 荀彧が郭嘉の軍才を示して「太陽のように軍を照らす」と言っていたが、確かに荀彧も、曹操にも同じものを感じ、魏は人材豊かだが、戦場で曹操と同じあの印象を感じさせるのは郭嘉だけだと以前呟いていた。


『……しかしだな郭嘉』


 話している間にふと、思った。



『星も、時々見上げると居場所変わってるぞ』



 郭嘉が鶸色ひわいろの瞳を丸くして、吹き出す。


『確かに。季節ごとに、星は動いています。

 元譲げんじょう殿に論破されるとは、私も潁川えいせんに引っ込んでる間に随分頭が鈍ったかな』


 論破されたと言いながら楽しそうに郭嘉が笑っていた。

 過酷な涼州遠征に出陣する、直前のことだった。 



 曹操が空を見上げて、白い息を吐いている。



「こんな寒空の下で笛など吹いて、何してる」


 手の中にある笛を、軽く揺らした。

 曹操は楽器もかなり使う。

 笛などは名手だった。


 曹操が幼い頃から曹丕そうひより曹植そうしょくに拘った理由に、まず詩の才や、楽才があった。


 曹操の後継について、夏侯惇は一度も口を出したことがない。

 彼にとっては、全員生まれたばかりの頃から知っていて、

 全員結局曹操の息子。親友の息子だった。

 曹操が「こいつにする」と決めたら、その男を守り、盛り立てて行ってやるだけだと最初からそう決めていた。

 

 しかしそれぞれの息子に何も思わないわけではなく、曹植そうしょくが詩楽の才に抜きん出てることは分かったし、素直で、優しい気質は理解出来たが、果たしてこれが、武により位を極めて来た曹操の後継かと思うと疑問はあった。


 だが同時に、自分に楽才と言ったものが無かったので――夏侯惇は楽も詩も楽しむ曹操を見ていると、こいつが軍才だけだったらどこかで誰かに、叩き潰されていたかもしれんと思うことがあった。


 恐らく玉座などというものは、軍の才だけでも、楽の才だけでも駄目なのだ。

 武官だけではなく、文官の語るものも理解し、言葉の力で彼らを統率し、時に圧倒する。

 二つを兼ね備えていたから曹操はここまで来た。

 広い人材が彼の許に集まったのだ。


 そういうことを理解出来るようになって、夏侯惇も少しだけ詩や楽の重要性が分かるようになった。

 今では割と、聞くのは好きだ。

 時々曹操に「秋の夜長に合うようないい感じの詩を詠え」とか「酒が美味くなりそうな笛を吹け」「荀彧を琴の音で表現しろ」などと勝手気ままで、いい加減な頼み方をして詠わせたり吹かせたり弾かせたりするのだが、腕を組んでじっくり聞いて、聞き終わってみると妙に確かに腑に落ちて「……いい感じだな」と頷いている。

 お前はやはり楽才もあるのだなとたった今、気付いたように夏侯惇が言うようになり、それを曹操はいつも大笑いするのだ。


 郭嘉は出会った頃から楽の才も詩の才もあり、曹操の奏でるものを好んでいた。

 珍しさや美しさで優れた楽器があると、どこからともなく持って来て現れ、奏でて欲しいと曹操に献上するのだ。

 これはどこどこのこういう美女が持っていたのを譲り受けましたなどと必ず書いてあって、奏でて貰った時の状況やその美女とやらが着ていた服や身につけていた装飾品を詳しく説明して、曹操と二人できゃっきゃと楽しそうに語っていたので、いちいち側でそれを聞く夏侯惇は呆れたものである。

 

 天は二物を与えずと言うが。多分、二物を天が与えないのは、二物を持った者同士が出会うと気が合いすぎてこうやって話がいちいち盛り上がって、話が長くなるからだと思った。


 軍才と楽才。

 二物を与えられた、二人の逸材。


 夏侯惇は戦う才しか持ってなかったので、凡庸であるが故に曹操と郭嘉を高みから眺めても畏怖も羨望もなく、面白いなあと笑えた。

 

この二人の見ている世界は、自分とは違うのだ。


「いや。出陣前に郭嘉に護剣をやっただろう。

 あいつに贈りたいと思ってるものは、色々溜まっているんだがこの笛もあった。

 手に入れた時にこれは子建しけんよりも、郭嘉に似合うと思ってずっとひつの中にしまっていたんだ。

 忘れていたのを思い出した。

 何となく今宵吹いてみたら、やはりいい音色でな。

 剣よりこの笛をやれば良かったと思いついて」


 夏侯惇は半眼になる。


「そんなこと……別に帰って来たらまたやればいいだろう。

 それに戦場に行く奴に笛など贈ってどうする。

 お前から貰った笛なら、郭嘉は嬉しがって昼夜構わずどこでもかしこでも吹きまくるぞ。

 そのせいで兵達がうるさくて寝れなくて無駄に疲れたらお前のせいだ。

 敵にも見つかる。

 涼州の山間に郭嘉の笛の音が響き渡ったら最悪だろ。

 剣で良かったんだ剣で」


「元譲。」

「ん?」


「お前は本当に、無粋な男よの」


「しみじみ言うな」

 曹操の膝の裏に軽く蹴りを入れてやった。


 夏侯惇は、幼い頃から曹操は何も変わっていないと今でも思っている。

 信じがたいほど出世したが、驚くほど昔のままだ。

 こういうどうでもいい遣り取りをずっと繰り返して来た。


 夏侯惇にはそっちの方が曹操との付き合いと人生で、

 その人生に時折戦場の本気や、嘆きがあっただけだと思っていた。






(俺は例えこの瞬間に死んだとしても、何の悔いも無い)






 口には出さず夏侯惇は思った。

 曹操の側にいると、ずっとそう思って来たことを。


 願わくば、もっと温かい春か夏の夜だったら、このまま飲むかと友を誘ったのだが、体を冷やす冷気に今日は止めておいた。

 

 ……少しは曹操の体も、休ませてやらなければならない。


「部屋に戻るぞ。

 星見はもう少し温かくなってからやれ。

 春が来たら俺も付き合ってやる」


 池の上の水路を再びゆっくりと戻り始める。



「惇」



「ん。なんだ?」


 立ち止まって振り返る。

 曹操は腕を組み、こちらに背を向けまだ星を見上げていた。











「郭嘉は死ぬやも」 











 数秒後、夏侯惇は息を飲んだ。全身に衝撃が走ったような気がした。

 道を戻って、曹操に詰め寄る。


「何故そう思う」

「……。」

「孟徳。なぜだ!」


「お前が死んだら俺は多分、分かる」


 目を瞬かせた。


「遠い地の、どこにいても。

 報せを聞かずとも、多分な。

 お前も恐らく、そうだと思う」


 曹操の表情は静かだった。

 

 郭嘉が病に倒れ重篤になると、逐一報告をさせろと曹操は命じて、表面上は冷静を装っていたが、時々私室で報告を聞いて泣いていることがあった。

 軍医を差し向けても郭嘉がそれを必要としていないことが分かると、何故岩にしがみついてでも生きようとしないのかと激昂していることもあった。

 


『あいつには幼い頃から教えて来た。

 戦場と、人の世のことを。

 俺が一言でも、美しく死ねなどとあいつに教えたことがあるか』



 快癒せず、死期は近い。

 何回目かの同じ報せが届くと、そう言って曹操が泣いていた。

 

『文を書く』


 ある時、曹操が言った。

 

『荀彧に命じて、郭嘉に届けさせろ。

 祝宴を開くから必ず参殿しろと』


 荀彧は嫌がった。

 郭嘉が参殿出来ないのは忠義が薄いわけではなく、本当に重篤だからだと。

 必死に郭嘉を看病している家族を苦しめる。だから文は書くなと再三曹操に注意した。


『黙れ、文若。これは俺と郭嘉の戦だ。

 お前は口を出すな』


 曹操は聞き入れなかった。


 快癒した後、郭嘉は家族が隠していた曹操からの文を見つけたらしく、やって来て文に対する感謝を述べた。


『私を忘れずにいてくださり、ありがとうございます。殿。

 長らくの無音、その非礼に対しての殿の御恩は、これからの時にて必ずお返しします。

 これからは常に側におり、決して離れません』


 それでいい。曹操は頷いていて、とても嬉しそうだった。


 郭嘉は曹操陣営の幕僚の中で一人突出して若い。

 だから郭嘉の死というのは、曹操には堪えるのだ。


 しかし今、そんな不吉なことを何故か口にした曹操の表情は、静かだった。

 郭嘉が重篤に陥った時あんなに嫌だと泣いて怒ったりしていたのに、今は静かな表情なのだ。

 それは逆に、夏侯惇には、尚更恐ろしいものに思えた。



 出陣前にも、夏侯惇は郭嘉と話した。

 赤壁の戦いの詳細を聞きたがったこと、聞いてる最中の郭嘉の嬉しそうな表情を。

 その瞳の輝きを思い出した。

 強く輝いていた。

 今も覚えている。


 それにあの男は、荀文若じゅんぶんじゃくが「太陽のよう」と褒め称えた男だ。




「そんな訳あるか」




 夏侯惇は強い声で言った。

 隻眼で曹操を睨み付ける。



「俺達でさえ、今まで、ここまでかと心を投げ捨てて諦めれば、

 死んでた局面が幾らでもあった。


 ――人は!


 生きようとする意志を捨てた時に死が決まる!

 よって、郭嘉が死ぬはずがない!」



 ふっ、と少しだけ曹操が笑ったのが見えた。

 白い息が立ち上る。



(そうだ。笑ってくれ)



一瞬そんなことを呟いた曹操が笑ったので、夏侯惇かこうとんは密かに安堵していた。

 どんな絶望的な状況でも、夏侯惇は曹操が自分の言ったことで笑う限りは、大丈夫だと思って生きて来た。


 実際そうなった。

 呂布りょふに追い詰められたときも、

 袁紹えんしょうに手も足も出ないときも、

 劉備りゅうびにしてやられたときも、


 夏侯惇が思い切り悪態をついて、それを曹操が笑い乗り越えて来た。


 



(おまえが笑ってくれるならば、まだ希望は潰えていない)





 曹操が振り返り、頷きながら満天の星空の下で眼を細めて笑う。



「そうか」



 そうかもしれんな。


 一縷の望みを繋ぐように、曹操は頷き、もう一度空に瞬く星を見上げた。



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