君と、勝毎花火大会
役所星彗
君と、勝毎花火大会
2012年8月13日。
夏の北海道。帯広の空はどこまでも高く、吸い込まれそうな青一色に染まっていた。
大学生だった俺は付き合って間もない彼女と手を繋ぎ、熱気に浮かされた人波の中をゆっくりと進んでいた。
そう、今日は年に一度の勝毎花火大会。この街の夏を象徴する、一大イベントだ。
今日の俺たちは二人とも浴衣を着ている。特別な日には当然、特別な装いで臨むのだ。
彼女は、薄いピンクの生地に濃いピンクと紫の水玉模様が散りばめられた、可愛らしい浴衣を選んでいた。
まとめられた茶髪に飾られた、同じピンク色の小さな髪飾りもよく似合っている。ちらりと見えるうなじが、いつもより大人びて見えた。
持ち物は最小限。俺に至っては財布とケータイだけだ。
敷物? そんなもの、この熱狂の中で広げるのは野暮ってもんだ。かさばるだけだし。
体一つあれば十分。ここは一種の戦場なのだから。少しでも良い場所を確保するために、身軽であるに越したことはない。
有料席に一番近い無料自由席の一角を確保した俺たち二人は並んで座り、日が落ちるまでの時間を他愛ない会話で埋めた。
君と話していると時間が経つのがあっという間で、本当に何時間でもこうしていられるんじゃないかと思う。
それに今日の君は一段と可愛い。浴衣最高!
しばらくすると、空がオレンジ色を帯び始め、西の空から深い夜の色へとグラデーションを描いていく。
周囲の喧騒も、花火への期待感で一層高まっていくのを感じる。
そして19時30分。夜空を切り裂く轟音と共に、花火が打ち上がった。
夜空を舞台に、様々な色と形の花火が咲き乱れる。赤、青、黄色、緑……音楽のリズムに合わせて打ち上がる花火は、まるで夜空に描かれた万華鏡のようだ。
観客の歓声と花火の炸裂音が一体となり、夏の夜を震わせる。
色とりどりの光が夜空を焦がすたび、隣で花火を見上げる君の笑顔が一層明るく照らされる。
手を繋いで隣にいる。ただそれだけで、世界は最高に輝いていた。
可愛い彼女と見る花火。これ以上の幸せが、この瞬間にあるだろうか。
30分ほど経った頃。ぽつりぽつりと、席を立ち上がり始める人たちが現れ始めた。
「もう帰る人いるんだね」と、君が少し不思議そうに言った。
「ほんとだ。最後が一番すごいのに、もったいねーな」と、俺は答えた。
そして、待ちに待ったラストの花火。夜空一面が真っ白な光で覆い尽くされる。
息をのむほどの迫力。まさにクライマックス。会場全体が最高潮の興奮に包まれた、その瞬間だった。
「わー!すごーい!!」と君は目を輝かせ、ずっと繋いでいた俺の手を、ふいに離した。
あっ、手……離された。行き場をなくした俺の右手が、宙をさ迷う。
花火のあまりの迫力に、君は夢中になっている。その笑顔は夜空の花火にも負けないくらい、最高に輝いていた。でも……。
(最後の花火、手を繋いで見たかったな……。凄すぎて、無意識に離しただけだよな……?)
さっきまで有頂天だった俺の心は、いつの間にか小さく縮こまって体育座りをしていた。
当時まだ子供だった俺は、こんな些細な君の仕草一つで、天国に昇ったかと思えば、すぐに奈落の底に突き落とされていたのだ。
◇
そして時は流れ、2025年8月13日。
あの日と同じ、よく晴れた夏の日だった。
俺たちは打ち上げ時間の少し前に、抽選で当たった無料招待席エリアのゲートをくぐった。
隣にはあの日と変わらない君の姿。でも、あの日と違うこともたくさんある。
君は艶やかな浴衣ではなく、動きやすいワイドパンツに、上品な黒のブラウスを合わせていた。
きれいにまとめられていた髪は、落ち着いた黒髪のまま、自然におろされている。それもまた、今の君によく似合っていた。
そして、何よりも一番変わったこと。俺たちの間には、三人の幼い宝物がいた。
かつては「かさばるだけだ」なんて言って切り捨てた敷物とクッションを、パンパンに膨らんだリュックから取り出して手際よく広げる。
準備を終えてすぐに、軽快なナレーションと音楽が流れ始めた。
現代花火の新たな風物詩、ドローンショーの始まりだ。
夜空に光の粒が集まって鮮やかな絵を描き出すたび、大きな歓声が会場に響いた。
そして、19時20分。地を揺るがす音と共に、最初の花火が空に咲いた。
夜空という巨大なキャンバスに、光の絵筆で色を重ねていくような、壮大で優しい光の洪水。
一つ打ち上がるたび、子どもたちの「わぁ!」という声と、君の「きれいだねぇ」という柔らかな声が重なる。
君の左手は、もう俺のものではない。やんちゃな長男と甘えん坊の次男が、その両手をしっかりと占領している。
俺の心にあるのは、もちろん嫉妬なんかじゃない。
あの頃とは比べ物にならないほど穏やかで、それでいて、あの日よりもずっと大きな幸福感だった。
花火の光に照らされる君の横顔は、穏やかな笑顔を浮かべていて、あの日と少しも変わらずに綺麗だった。
20時を過ぎ、花火が一段落して、次のプログラムへの準備時間に入った。
まだ1時間くらいは楽しめるはずだけど……。
「……そろそろ帰る?」
君は、その膝の上で少し眠そうにしている末っ子の頭を撫でながら、俺を見て言った。
「……そうだな。最後までいたら遅くなるし、今のうちに帰ろう」
俺たちは頷き合い、ゆっくりと立ち上がった。
時折振り返り、夜空を彩る大輪の花を横目に、俺たちはゆっくりと家路についた。
あの夏、繋いだ手を離されただけで、世界の終わりのように感じていた俺の右手。
今は、少し先を歩く長男が「パパ、早く!」と差し出すその小さな手を、力強く握りしめている。
君と、勝毎花火大会 役所星彗 @yakusyo-seisui
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