第20話

「この世界で、悪が必ず勝つという現実の中で、自分たちが“正義の味方”だとでも思っているのか?」


その声は冷たく、深い響きを持ち、戦場の喧騒を切り裂いた。

正面ゲートから現れたのは、長い黒髪を後ろで束ねた、どこか憂いを帯びた瞳の青年だった。

彼の足取りは静かで重く、その一言一言がまるで独白のように空気を支配していく。


彼の考えでは、もしこの世界に本当に“正義”や“英雄”が存在するのであれば、なぜ人類はここまでNGに追い詰められなければならなかったのか。

誰もが哀れで、誰もが犠牲者だ。しかし、正義は常に強者のものであり、「平等」や「美しさ」と呼ばれるものもまた、頂点に立つ者だけの特権にすぎない。

豚が屠殺されても誰も涙を流さず、逆に宴が開かれる。なぜなら、人間が支配者であるからだ。


「今の人類はどうだ? 地位を失い、第二種族へと転落しつつある。

NGが本気で動き出せば、人間など黙って処理される家畜に過ぎない。

誰もそれを“悪”とは言わない。ただ“自然な淘汰”として受け入れるだけだ」


彼は静かに立ち止まり、低く言い放った。


「この世界は、もはや善悪を論じる段階にない。生き残ること、それが全てだ。

たとえ同族を殺してでもな」


沈黙が降りた。

誰もがその男の言葉に息を呑み、風に揺れる木々の音さえ際立って聞こえるほどだった。


その静寂を破ったのは、ゾアの声だった。


「正当化したつもりか? だったら俺たちから見れば、お前らこそが“正義ごっこ”してるようにしか見えない。

三人が傷を負ってる相手に、容赦なく襲いかかる――それが“正しさ”か?」


男はゆっくりとゾアに近づいた。

その背丈はゾアよりも遥かに高く、顔を見るためには見上げなければならなかった。


「……俺は英雄ではない。ただ、理想を果たすだけだ。

人類を再び、本来あるべき場所――頂点へと戻す。そのために、俺は“カラス”と共にすべてを捧げる。

人類が再び世界の頂に立てば、すべてが“正しく”なる」


一瞬の沈黙。


「そのためには、君たちの死が必要だ。

この試験を突破する。それが使命だ。……あるいは、君も我々に加わるか?

人類の未来のために」


彼は手を差し出した。

穏やかな表情でありながら、その手は凄まじい圧を帯びていた。


ゾアは眉をひそめ、その手を激しく払った。

男は驚きもせず、静かに目を閉じて背を向けた。

彼の手には、いつの間にか鋭い刃が握られていた。


ゾアが何かを言おうとしたその瞬間、周囲の空間から無数の斬撃が放たれた。

ゾアは反応が遅れ、血飛沫を上げて倒れ込んだ。

息も絶え絶えに、血にまみれて地面に膝をつく。


彼の前に立つ男――それこそが“カラス”最強の剣。

戦略を担うのが“クア”なら、戦闘において彼は最も危険な存在だった。


ルーカスがすぐに駆け寄り、ゾアを支える。

ゾアは未だ回復能力を完全には覚醒させておらず、傷はゆっくりとしか癒えない。


「もう十分だ、クア。これは“警告”だ。今、殺す必要はない」


クアは眉をひそめた。


「だが、奴は脅威だぞ」


ナサニエルが一歩前に出て、穏やかな声で言う。


「今は撤退が最善だ。……ゾアと通信している存在が、何を仕掛けているのか読めない」


彼はこの戦場に来る前、フェリクスが脱出し援軍を呼ぼうとする姿を密かに観察していた。

そして、アコウという謎の人物がフェリクスの手当をしているのを目撃していた。

アコウが何者かは分からなかったが、直感で「ただ者ではない」と感じていた。


もしアコウが、ゾアの敗北を確信していたのなら、ルーカスの救出にゾアを送り込むはずがない――

彼は何か“大きな切り札”を持っている。


その推測は的中していた。

アコウもまた、クアたちが撤退を選んだことに驚いていた。

というのも、彼らが戦い続けていれば、“キング”、“セシリア”、“クレイス”の三人が現場に現れ、全てを薙ぎ払っていたはずだからだ。


三人は、アコウから極秘情報を得た恩義があり、アコウの要請で即座に動く。

彼らが到着すれば、この戦場は“虐殺”の舞台と化していた。


それを知っていたナサニエルは、クアを説得したのだった。


クアはしぶしぶ従い、去り際に振り返ってゾアを見た。


「――また会おう。次こそ、決着をつける。その時まで、死ぬなよ」


言い終えると、カラスは翼を広げて飛び去った。

残った仲間たちも、失望と警戒を胸に森の中へと消えていった。


その背後には、血まみれの三人が倒れ伏していた。

もはや戦う力は、誰にも残されていなかった。


そこに現れたのはアコウ。顔には相変わらずの静けさが漂っていた。

ゾアは意識が薄れながらも、必死に声を絞り出す。


「もし奴らが本気で戦っていたら……君は、俺たち三人を犠牲にしてでもカラスを根絶しようとしてたのか?」


アコウは表情一つ変えず、淡々と答えた。


「そうだ。彼らが残ることを選んでいたら、それしか方法はなかった。」


そう言い終えた瞬間、ゾアは力尽きて意識を失った。

血の海の中に倒れた彼の身体は、まるで今にも消え入りそうな命の残響だけを残していた。


実はアコウは、まだ三人には連絡していなかった。

彼が本当に見たかったのは、この状況でゾアがどのように行動するのか、という一点だった。

意外にも、ゾアは逃げることなくルーカスを救うことを選んだ。それは称賛に値する行動だった。


当初、アコウはイチカワと同じようにゾアを覚醒させるつもりだった。

だが、それにはまだ早すぎた。ゾアの力はいまだ謎に包まれている。

彼が「戦争の化身」であるかどうか、アコウにとってもまだ確信には至っていない。


現時点でアコウは、ゾアが他人の魂から武器を取り出す能力を使うことを望んでいない。

もし、使用前に試すことができ、合わなければ剣へと戻せるならば、回復の時間を無駄にせずに済む。

だからこそ、アコウはゾアに、まず一つの武器を極めることを望んでいる。

多くを使おうとして、結局どれも中途半端に終わることを避けるためだ。


アコウはゾアに一冊の剣術書を渡していた。それは、伝説の剣士「ランスロット」について書かれたものだった。

“ランスロット”とは、剣を極めた者にのみ与えられる称号である。

その名前の起源は不明だが、人々は当然のように使い続けていた。


そして、アコウが完成させた地図によって、カラスたちの次の行動ルートを正確に予測できた。


アコウがカラスを排除しようとする理由はただ一つ――

彼の中に芽生えた、漠然とした「悪い予感」だった。

このままカラスという集団を野放しにしておけば、いずれ彼らがNGよりも先に人類を破滅へと導く。

アコウはそう確信していた。

彼らのやり方では、成功などあり得ない。残るのは屍と絶望だけだ。


だが、アコウは彼らを完全には消さなかった。

彼らがもたらす恐怖こそが、他の訓練生たちにとって過酷な生存環境を作り出す鍵となる。

もし彼らがあっさりと倒されてしまえば、この先の道は容易くなり、訓練生の質までもが下がってしまうだろう。


そして場面は変わり、夜空に星がきらめく廃工場の一室。

そこに座っていたのはナサニエル。彼は、ある人物を待っていた。


「遅いな。こんな調子で俺たちの仲間になるつもりか? 全く、印象最悪だ。」


彼の顔には明らかな不機嫌さが滲んでいた。


そのとき、どこかで聞き覚えのある声が響く。

怒りと憎しみが混じり合ったその声には、ある執念が込められていた。


「傷が深すぎたんだ。それだけだ。だが…俺を仲間に入れてくれ。

 あいつを殺したい。まさか、あいつがあそこまで強くなってるなんて信じられない。」


その声の主は――シドだった。

だが彼が憎んでいたのはイチカワではない。

幼なじみでかつて親しかったアックだった。


「復讐が目的か?」


「ああ。強くなって、あいつに復讐したい。」


「だが、彼はお前に何もしていないぞ?」


シドは怒りで叫んだ。


「アイツは俺の女を奪ったんだ!」


そこから、一連の黒い記憶が蘇る。


シドは子供の頃から、自分は他人よりも賢いと思い込んでいた。

そして、のろまや無能な連中を心底嫌っていた。

自分の頭の良さゆえに、美しい女の子たちは当然自分を特別視し、惹かれるはずだと信じていた。

彼の中には、「普通」などという概念はなかった。


どんなグループでも、どんな集まりでも、

一番可愛い女の子が自分を見てくれるべき――それが当然だった。


現実がそうではなかったとしても。


彼は「黙っていれば注目が集まる」と信じていた。

誰かが話しかけてくるはずだと。

だが、誰も来なかった。


成績は常にトップ。それは当然すぎて、誇る価値すらなかった。

ある日、彼は銀髪の美しい少女に目を奪われる。

シドは確信していた。「彼女は、俺に惹かれている」と。

冷たくしていれば、彼女は話しかけてくる。そう信じていた。だが違った。


こっそり彼女を尾行して見てしまった。


彼女の目が追っていたのは――シドではなかった。

最も憎むべき、あの男――アックだった。


その瞬間から、彼はアックをこの世界から消し去りたいと願った。


悪口を言い、貶し、あざ笑い、知識を馬鹿にした。

アックを未熟者だと非難し、無能な偽善者だと決めつけた。


だがアックは気にも留めなかった。

いつも静かに、人の和を何よりも大切にしていた。


その姿が――シドには耐えられなかった。


アックはあまりにも偉大で、自分は無価値に思えた。

シドは心の中でこう決めつけた。「アイツは偽善者だ」と。


そしてシドがアックと同じグループにいた唯一の理由。

それは――ただ一人、どうしても自分のものにできない「彼女」の注目を、奪い返すためだった。

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