第3話

第七章 影からの接触


八王子から川崎までの道のりを、竜太郎は何度も地図でなぞった。

中学生が一人で遠出すれば必ず親に怪しまれる。だが、あのおばあちゃんにもう一度会うためなら、嘘の一つや二つ、なんでもつく覚悟はあった。


土曜日の朝、「友達の家に泊まりに行く」と言い残し、竜太郎は家を出た。

電車を乗り継ぎ、川崎の住宅街を歩く。新聞に載っていた住所はすぐに見つかった。


比較的新しい広めの二階建てが建っている。

門の前まで来たとき——角から小さな影が現れた。


「やっぱり来ると思ったよ」


買い物袋を提げた大豆生田ハルさんが、静かに笑っていた。

新聞に出ていた『被害者の姑』とは思えない、落ち着いた表情だった。


「おばあちゃん……」

「ここじゃ人目につく。ついておいで」


二人は近くの小さな公園へ移動した。

ベンチに並んで座ると、ハルさんが低く問いかける。


「硝煙反応の移動、試してみたかい?」

「……はい」

「どうだった?」

「本当にできました」


ハルさんの瞳が一瞬鋭く光る。

「あんたは特別だよ、竜太郎くん。普通の子なら、あんな力を使おうなんて思わない」


竜太郎は黙った。

加藤を川に落とした時も、硝煙反応を移した時も、罪悪感はなかった。

——ただ、やりたいからやった。それだけだ。


「悪いことだなんて、思ってないんだろう?」

竜太郎は視線を逸らした。


ハルさんは微笑む。

「じゃあ、家でお茶でも飲もうか。少し話したいことがある」


---


第八章 家の中の影


ハルさんの家は、生活感のある二階建てだった。

玄関を上がると、薄い線香の香りが漂ってくる。


「息子夫婦が、わしと一緒に住もうって言ってね。引っ越してきたのさ」


玄関の靴箱の上に、家族写真が飾られている。

スーツ姿の中年男性と、若い女性。そして中央にハルさん。

だが——女性の顔の部分だけ、丁寧に切り取られていた。


竜太郎はその異様な光景に息を呑む。

「あの……写真の」

「ああ、これかい」

ハルさんは振り返ることもなく答える。

「あの女の顔なんか、見たくもないからね」


居間に通されると、そこにも不自然な痕跡があった。

テーブルの上の箸立てには二膳分しか箸が入っていない。

冷蔵庫には「お疲れさま、母さん」と書かれたメモが貼られている。男性の字だった。


「仲がいいんですか? 息子さんと」

「息子がいるときはね」


ハルさんはお茶を淹れながら続ける。

「でも、あの嫁がな……息子が仕事で出かけると、嫌味を言ったり、わざと食事を用意しなかったり」


竜太郎は部屋を見回した。

女性の存在を感じさせるものが、一切ない。

化粧品も、アクセサリーも、女性物の雑誌も。


まるで——最初から、この家には二人しか住んでいなかったかのように。


「……おばあちゃん」

「なんだい?」

「息子さんは、今どこに?」

「仕事だよ。夜まで帰らない」


ハルさんの笑顔が、一瞬だけ歪んだ。

「でも帰ってきたら、あんたを紹介してやるよ。きっと気に入ってくれる」


その時——二階から、かすかに足音が聞こえた。


ドスン。

ドスン。


規則的で、重い音。

まるで誰かが、ゆっくりと階段を下りてくるような。


「……今、音が」

「気のせいだよ」


ハルさんは表情を変えない。

だが、お茶を注ぐ手が、わずかに震えていた。


竜太郎は胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいくのを感じた。


---


第九章 銃口の挨拶


足音は止まった。

竜太郎は天井を見上げる。そこには誰かの存在を示すかすかな気配があった。


「……おばあちゃん、ガチャガチャを引かせてくれたら、なんでも言うこと聞きます」


ハルさんが少し目を見開き、そして笑った。

「なんでも、かい?」

「なんでもです」


「じゃあ……持ってくるよ」

そう言って奥の部屋に消えていく。


部屋には時計の音だけが響いていた。

竜太郎は、胸の奥で高鳴る鼓動を抑えながら待った。


そのとき——背後に微かな気配。

振り向くと、そこにはスーツ姿の男が立っていた。


銃口が、竜太郎の眉間をまっすぐに捉えている。


「……あんたが、うちの母さんと会ってるガキか」


男の声は低く、冷たかった。写真で見た息子に違いない。

なるほど、二階にいたのは息子か。

竜太郎は瞬きもせず、その手元を見つめる。


「それ、どこから……」

「俺の能力は『他人の銃を召喚すること』だ」

男は淡々と告げる。

「警察が押収した銃でも、海外のマフィアが持ってる銃でも、距離が近ければこの手に現れる」

「近所に外国マフィアの事務所があるんでな。便利な能力だよ」


竜太郎は息を呑んだ。

「じゃあ……この家で起こった強盗殺人の事件も」

男の口元がわずかに歪む。

「そうだ。あの女は、俺の母親を馬鹿にした。二度と口を利けないようにしてやっただけだ」

予想通りだった。

「お前、動じないな、気に入った」


---


第十章 歪んだ正義の共鳴


竜太郎の胸の奥に、熱いものが広がっていく。


証拠不十分で逃げ切る悪人が、この世にはあまりにも多い。

自分はいつか刑事になり、そういう連中を必ず裁くつもりだった。


だが——今、目の前の男は法律では裁けない存在だ。

そして自分も、加藤を殺したことに何の痛みも感じなかった。


正義と悪。

その境界線は、自分の中ではとっくに溶けている。


「……僕も、その銃、見てみたいです」

竜太郎は、ゆっくりと口を開いた。


男はしばらく沈黙し、それから安全装置を外してテーブルに置いた。

「母さんがあんたを気に入った理由がわかった気がする」


奥から戻ってきたハルさんが、にやりと笑う。

「いい顔になったじゃないか、竜太郎くん。ほら、これが欲しかったんだろ?」


ハルさんの手には、あの古びたガチャガチャ。

赤く錆びた取っ手が、竜太郎を呼んでいた。


その瞬間、竜太郎の中で何かが弾けた。


この二人は、人を殺した。

法律では裁けない。

警察は騙されている。

被害者は永遠に帰ってこない。


母と祖母のケンカを見ていた時に感じた、あの薄ら寒い感情が蘇る。

憎悪は簡単に人を殺す。そして、それを隠蔽する術を持つ者は、何度でも繰り返す。


加藤だって、僕がやらなければ、また誰かを川に突き落としただろう。

この二人だって、次の標的を探すに違いない。


竜太郎は銃を取り上げた。

重い。

思ったより、ずっと重い。


「竜太郎くん?」

ハルさんの声が、遠くから聞こえる。


僕は正しいことをしている。

法律が裁けないなら、僕が裁く。

それが——正義だ。


引き金に指をかけた瞬間、竜太郎の心に浮かんだのは不思議な安らぎだった。

罪悪感はない。

恐怖もない。

ただ、「やるべきことをやる」という、静かな使命感だけがあった。


パン。

パン。


二発の銃声が、小さな部屋に響いた。


男は胸を押さえて崩れ落ち、ハルさんは驚愕の表情のまま椅子から滑り落ちる。


竜太郎は硝煙の匂いを嗅ぎながら、心の中で呟いた。


これで、世界が少しだけ綺麗になった。


右手についた硝煙反応を、倒れた二人の服に移動させる。

証拠隠滅完了。

まるで二人が撃ち合いでもしたかのように見えるだろう。


「悪党どもめ」


その言葉に、竜太郎は一片の迷いもなかった。

自分こそが、この腐った世界を正す者なのだ。


銃を男の手に握らせ、現場を後にする。

歩きながら、竜太郎は空を見上げた。


ガチャガチャはもらっていく。


今度は、どんな悪を狩ろうか。

胸の奥で、新しい渇望が芽生えていた。


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硝煙の子 奈良まさや @masaya7174

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