第17話 可愛いを理解してはいけない

 近づいてきた手は、そっとわたしの髪に触れる。びくりと、肩を揺らしてしまった。

 ふっと微笑む気配と共に、その手は離れていく。


「糸、付いてたよ」


 顔を覆っている両手をどけて和泉先生に視線を向けると、その言葉の通り、短めの白い糸を右手に摘んでいた。……びっくりした。名前、呼ばれたかと思った。惚けた表情のわたしを映す、その焦茶色の瞳を見つめる。早鐘を打つ心臓の音がやけに大きく聞こえた。


「うん、可愛い」


 心臓が一際大きく跳ねる。ただ、ちょっとなんて言ったのかが理解できない。理解したらまずいというのは分かる。2人してしゃがみ込んだまま、じっと見つめあっている状態でのその言葉だ。可愛いだなんて言葉を理解したらもう終わりだろう。キャパオーバーで気絶するかもしれない。


 嬉しそうに笑った和泉先生は、ゆっくりと立ち上がった。


「それじゃあ俺はこの辺で。写真見せてくれてありがとうね」

「……ちょ、ちょっと待ったーデス!」


 背を向けて歩き出そうとする和泉先生を止めたのは、わたしと同じくあの理解できない発言に固まっていたアニエスだった。


「久坂さん? どうしたの?」

「和泉先生、今からワタシたちが話すこと聞かなくていいんデスか?」

「というと……?」


 和泉先生はアニエスの言葉に興味を引かれたのか、再びわたしたちの方に近づいてきた。確実に逃さないとでも言うように、アニエスは続ける。


「聞かないと、絶対に後悔しマスよ」

「……何かな?」


 漂う神妙な空気感にごくりと唾を飲み込む。それを破ったのは、案の定アニエスだった。


「禁断を破りまショー!」

「……へ?」


 間抜けな声を出したのはもちろんわたしだけ。和泉先生は楽しそうに笑っていて、類くんはその薄茶色の瞳を輝かせる。


「この前、禁断の果実を食べた時に言ってたよね? もう禁断を破るのはしないって」


 アニエスはノンノンと首を振る。


「ワタシが言ったのは、『もうしばらくは禁断破りなんてしない』デスよ! こういう時のために、ちゃんとをつけておきまシタ!」

「……さすがアニエス。変なところで抜かりがない」

「ありがとうデス!」

「アニエス先輩、それたぶん褒められてないよ」


 類くんからのツッコミも華麗に躱したアニエスは悪巧みをするように笑った。……これは完全に、何の禁断を破るのか聞いてほしい顔だ。和泉先生はしばらく傍観するようだし、類くんは不思議そうにアニエスを見ている。


「……それで、何の禁断を破るの?」


 結局聞いてしまった。


「禁断の場所へ行きマス! 旧校舎デス! 肝試しデス!」


 幽霊が出るとうわさの場所なんて、絶対に行きたくない。そっと立ち上がって、何も聞いてないふりをしてこの場から離れようとする。でも、アニエスがそれを許してくれるはずもなかった。


 しっかりと両肩を掴まれてしまう。


「伊都? どこに行くんデスか?」

「えっと……教室へ荷物を取りに……?」

「まだ帰る時間じゃないデスよねー? ワタシ、知ってマスよー? 今日は夏川クンと話して話して話すために帰りは遅くなるって言ってあるんデスよねー?」


 思いっきり肩が跳ねた。そんなことをアニエスに伝えたのはどこの誰だ。……今日の昼休みのわたしだ。


「伊都も一緒に禁断破りしまショーねー?」

「……わたしも行かないとなの?」

「行きまショーねー?」


 ……どうしたって逃げられそうにない。今のアニエスなら地の果てまでだって追ってきそうだ。「僕も一緒に行っていい?」って……どんな類くんはどんな物好きなのだろう。


「決行は今日の夜デス!」


 この後、3人で旧校舎に行くことが確定してしまった。アニエスは和泉先生の方をチラチラ見ながら言う。


「今日の夜8時デスよー。伊都はお化けが大の苦手デスよー。わー、心配デスねー」


 心配だなんてどの口が言うのか。そして棒読みすぎやしないか。和泉先生も巻き込もうとしているようだけど、そう簡単には無理だろう。……正直、いてくれたらかなりましになるだろうし、いてくれたらすごくありがたいけど、無理なものは無理なはず。


 すると和泉先生は「独り言なんだけど」と口を開いた。


「今日の夜8時、ちょうど旧校舎に行く用事があるんだよね。偶然そこで生徒と会う、なんてことあるかな?」


 つまり、来てくれるということ? ……少し、いや本当に心強い。和泉先生も一緒なら耐えられる気がする。

 先生は今度こそ去っていく。その歩き方は、気のせいじゃなければいつもより弾んでいた。


 その背中が遠く見えなくなったのを確認してから、アニエスと類くんは生温かい視線を送ってくる。


「よかったデスね、伊都」

「僕たち応援してるから」

「…………バレてる?」


 何をとは言わなかったけど、2人は大きく頷いた。

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