第6話 秘密ということで
「……深町さん、大丈夫?」
心配を浮かべてこちらを見ている和泉先生に、そう聞かれた。
「わたしは、大丈夫です。勧められたけど食べなかったので」
だけど、アニエスは大丈夫だろうか。わたしがもっとしっかり止めていれば、こんなことにはなってなかったはずなのに。
下がる視線と共に、気分もどんどんマイナスへと向かっていく。
「……久坂さんなら大丈夫だよ。嘔吐、腹痛、下痢のフルコースが本当に辛いっていうだけで、生死に関わるとかはないからね」
「さすが、経験者の言うことは違いますね」
付け加えられた保健室の先生の言葉に、思わず声を上げて和泉先生を見遣る。その経験者というのは、確実に禁断の果実を食べたことがあるという意味だろう。ミステリアス系な本の似合う先生が……? あの果実を食べた……?
和泉先生は、慌てたように保健室の先生に視線を向けてから、苦笑した。
「それは秘密だってお願いしたじゃないですか」
「そちらの子の気を紛らわすには最適だと思いましたが……?」
ぐっと何かを飲み込んで、和泉先生は「敵いませんね」と続ける。あちこち白が混じった髪の保健室の先生は、くすくすと笑った。
「和泉先生、私は少し用があるので席を外しますが、気の済むまで居座ってもらって良いですからね」
そんな言葉を残して、保健室の先生は出て行った。
和泉先生と2人きりになってしまった。ほんの少しだけ気まずいかもしれない。一体何を話せばいいんだ。さっきの「経験者」の話を深掘りするべきなのか? いやでも、深掘りされたくないことかもしれないし……。だけど、一度気になってしまったものはやっぱり気になる。
さっきまで保健室の先生が座っていたキャスター付きの椅子に和泉先生は腰掛けた。わたしはその向かいの丸椅子に座る。
「……興味本位で口に入れていいものと悪いものがあるよね」
これは……深掘りしても良いという合図かもしれない。
「和泉先生も、禁断の果実を食べたことがあるんですか?」
「うん、あるよ。もちろん俺がここの生徒だった時代の話だけど」
本当にあったんだ。正直、意外にもほどがある。常日頃から冷静沈着にものごとを見ていそうな先生のことだから、どちらかというと止める側だと思っていた。
「深町さん、今、俺が止める側だと思ったでしょ?」
「……え、どうしてそれを?」
「分かりやすく顔に書いてあったから」
そんなに分かりやすい表情をしていただろうか。そっと両手で頬を触ってみる。……確かに、わたしは分かりやすい方なのだろう。何事もなかったかのように両手を膝の上へと戻した。アニエスほどではないと思っておこう。
「残念ながら、俺は食べる側だね。正確には、食べる人と止める人を見て面白がる側、かな」
……和泉先生には腹黒の気があるのかもしれない。腹黒の気がなければそんな発言は出ないし、このタイミングでいつものような人の良い笑みを浮かべたりはしないはず。
でも、案外簡単にその様子は想像できた。お化け屋敷にでも行ったら、純粋に怖がるでも楽しむでもなく、怖がっている人を見て楽しんでいそうだ。
「じゃあ、どうして禁断の果実を食べたんですか?」
「若気のいたりかな。先に食べた人があまりにも美味しいっていうから、興味が沸いたんだよね」
「もしも今同じ状況になったとしても、食べないからね?」そう付け加えた先生には、ウィンクがよく似合っていた。
今日のお昼ご飯の話から好きな本の話まで、他愛のないことをのんびりと話していると、突然がらがらと保健室の扉が開く。充満している消毒液の匂いが動いた。
入ってきたのは、土色の顔をしているアニエスだった。
「……一度、死にました。絶対に2キロは痩せました」
アニエスは、お疲れ様と椅子を用意した和泉先生にお礼を言い、そこに座る。
「もう二度と禁断の果実なんて食べません……」
これは、思っていた以上に応えたみたいだ。いつもの日本語が難しいフリをしていない。和泉先生の真似をして、そっとお疲れさまと声をかける。
「伊都……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「もうしばらくは禁断破りなんてしません……」
「絶対に」じゃなくて「しばらくは」なんだ……。そう思ったのはわたしだけではないようだ。和泉先生も苦笑している。
先生は、保健室の棚に入っていた段ボールから、1本のペットボトルを取り出した。
「久坂さん、水分補給はしっかりとね」
「和泉先生が神様に見えます……」
そう言いながらアニエスは経口補水液の入ったペットボトルを受け取る。そして、和泉先生にありがたやと拝み始めた。
この感じだったら、いつもの調子になるのにもそう時間はかからないだろう。わたしはこっそりと息を吐いた。
「それじゃあ、俺はそろそろ職員室の方に戻るけど、久坂さんはもう少し休んでから帰ってね」
「分かりました」
保健室の扉に手をかけた和泉先生は、思い出したように言う。
「深町さん、最初にしたあの話は俺たちだけの秘密ということで」
先生は口元に人差し指を持ってきて「よろしくね」と笑い、今度こそ保健室から去る。
……不覚にも、かっこいいだなんて、嬉しいだなんて思ってしまった。頬にじわりと熱が集まる。
「……秘密ってなんデス? ワタシにも教えてくだサイよー?」
和泉先生はわたしの想像していた以上に人間らしくて面白い人なのかもしれない。少し調子を取り戻したらしいアニエスの言葉は、脳内で再生されるさっきの和泉先生に邪魔をされて入ってこなかった。
失ったもの:
アニエス、今日1日の健康。
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