止まった夜と、静寂に触れたふたり
逢澤廻
第一章 止まった音のなか
夜、十一時五十分。
閉店まであと十分というのに、店内はすでに深夜の静けさに包まれていた。
客の姿はなく、冷蔵ケースのモーター音だけが、ぼんやりと空間を満たしている。
長野県の地域密着型の小さなコンビニ「ゆあまーと」。
消えかけた照明の下、売り場はまるで、一日の終わりをそっと名残惜しむように、ひっそりと夜の顔へと移ろい始めていた。
閉店前の、静かで穏やかな時間。
いつも通りの、変わらない風景――
だが、早田晃市の胸には、その“変わらなさ”が少しだけ切なく感じられていた。
晃市は空き箱を畳みながら、ふと隣に目をやる。
視界の端には、黙々と品出しをこなす伊沢美紀の姿。
普段からよく言葉を交わす相手ではあるが、作業に集中していると、なぜか互いの動きが自然と噛み合い、必要以上の会話は生まれなかった。
不思議なほど、言葉がなくても息が合う。
早田晃市、五十三歳。
進学校というほどではないが、平均より少し上の学力レベルの長野の高校を卒業して、すぐに東京の有名大学へ入学した。
地方出身の晃市にとって、それは努力の末につかんだ小さな成功だった。
卒業後はそのまま東京の中堅企業に就職し、長年勤め上げたが、不景気のあおりを受けて会社は突然倒産した。
その後は転職を重ねたが、年齢を重ねるごとに正社員としての採用は難しくなっていった。
そして四十代前半、晃市は東京での生活に区切りをつけ、地元・長野に戻った。
そこで見つけたのが、県内でしか見かけない、ローカルなコンビニ「ゆあまーと」でのアルバイトだった。
最初は一時しのぎのつもりだった。
だが、気づけばその仕事も十年以上が過ぎ、晃市は五十三歳になっていた。
特に何も大きな出来事も楽しみもない日々を、仕方なく生活のために働いている。そんな気持ちで毎日が過ぎていった。
そして、気がつけば――
女性と過ごす時間も、心から誰かを愛した記憶も、二十年以上前に遠ざかっていた。
現在、晃市は「ゆあまーと」最古参のベテランとして働いている。
長年の勤務のなかで、人間関係のトラブルを一度も起こしたことがなく、穏やかで誠実な人柄は周囲にもよく知られている。
常に礼儀正しく、丁寧な口調を崩すことはなく、その落ち着いた振る舞いに信望を寄せる同僚も多い。
身長百八十五センチ、体重百キロの堂々とした体躯。
分厚い胸板と広い背中は威厳すら感じさせ、職場でもひときわ目を引く存在だ。
頭には支給されたバンダナを巻き、襟付きのシャツに黒いズボン、その上からエプロンを締める制服スタイルも清潔感にあふれている。
髭は毎朝きれいに剃り上げ、髪はやわらかく滑らかな質感を保ちながら、常に整えられている。
彫りの深い顔立ちは日本人離れした印象を与え、毛深い腕や指先さえも、どこか男らしさとして受け入れられている。
パートの主婦たちからは、時折「意外とイケメン」「ダンディで素敵」とささやかれる存在だった。
しかし晃市はそんな声を気にしたこともない。
彼の視線が向いているのはただ一人――
伊沢美紀、四十歳。
ゆあまーとで働き始めて四年目になる女性。
たぶん転勤か何かで、この町に越してきたのだろう。駅の近くにある新しめのマンションに住んでおり、通勤は徒歩。
言葉の端々から関東出身らしいことが伝わってきて、雑談の中では「鎌倉にいた頃は――」と、ふとした折に話題に上ることがある。
育ちの良さを感じさせる所作や言葉遣いはあるが、決して物静かではなく、どこか活動的で朗らかな雰囲気をまとっている。
晃市は、そんな彼女に自然と心惹かれていた。
切れ長の瞳に大きな黒目が目立つ、丸い顔の輪郭が特徴の涼しげな和風美人。顔立ちだけならば、未婚の若い女性にしか見えない。
百六十センチほどの背丈で、肩より少しだけ長い密度の濃い黒髪が、艶光りして美しい。
可愛らしい顔とよく通る声、人当たりの良さと頭の回転の速さが多くの客から支持を集めて、特に彼女を目当てに来店する男性客は多い。
一方優しげな顔立ちに反して、実はかなりの負けず嫌いで強気な性格でもある。
そして結婚十年目の人妻で六歳になる女の子の母親でもある。
それを窺わせる唯一の証は、全体的に肉付きのよい、世の女性よりすこしだけ大きい胸と年相応に膨らんだ腹、そしていかにも一児の母に相応しいふくよかな腰回りである。
豊満な肉体と、涼しげな目元が特徴的な童顔――
晃市はそんな美紀の正反する組み合わせにもう何年もずっと心惹かれている。
(もし彼女が人妻でなかったら……)
たびたび彼は思う事があるが、それ以上は何も考えないよう意識している。
晃市は、今でも四年前に彼女と初めて出会った日の光景を、驚くほど鮮明に思い出すことがある。
あの頃の彼女は今とは別人のように細身で、まるで女子大生のようだった。
涼しげな黒目がちな目元と、出産経験があるとは到底思えない華奢な体つきが相まって、可愛らしい大学生のアルバイトにしか見えなかった。
ところがある日、会話の中で彼女が既婚者であり、しかも母親でもあることを知った瞬間、晃市は心の底から驚いた。
「こんなに可愛い人妻が、この世にいるのか」と。
そんな飛び切り若々しい美紀にも家庭の中で徐々に変化が始まり、彼女の外見も次第に変わり始めた――
数年前から夫との関係は冷え切り、自然と夫婦の営みもまったくなくなり、今では生活のための“共存”に近い。
夫は子育てには関心なく、パソコンでのリモートワークに、まるで趣味のように没頭していた。
そんな夫を頼らずに一番世話のかかる時期の子育てを終えて、心に隙間と余裕ができた。
いつの間にか美紀は少し余裕のできた家庭の空虚を埋めるのに、食べることでしか気を紛らわせなくなった――
今では全体的に肉がつき、特に腰回り――かつては子鹿のように細く括れていた部分が、今では母牛のようにどっしりとした重みを帯びている。
背中から腰、尻へと続くラインは、制服越しにもその変化をはっきりと感じさせた。
けれど――晃市の目には、今の姿のほうがむしろ愛おしく感じられた。
いつの間にか、ふっくらと変化していたその体型には、育児の合間に生まれた隙間と、静かに積み重ねられた生活の気配が滲んでいた。
顔立ちは今でも切れ長の涼しげな目元で童顔なのは昔と変わらない。
笑えば頬が丸くなり、目が細くなる。
何よりその丸みの奥には、娘を大切に想い、懸命に守ってきた日々の重みが、そっと映し出されているようにも思えた。
一方美紀も、晃市が一際背が高く分厚い威厳のある体格を持つ最古参のベテランながら、誰に対しても分け隔てなく低姿勢で礼儀正しく接し、真面目に我慢強く仕事に向き合う姿勢に自然と好感を持っている。
――晃市は美紀に現在の仕事の進捗を確認した。
いつも通りの丁寧な口調。誰に対しても変わらず、苗字に“さん”をつけ、いつも通り語気も穏やかで柔らかい。
「伊沢さん、冷蔵庫の補充、終わりましたか?」
そんな晃市の問いかけに美紀は明るく通る声で親しみを込めて返事をした。
「うん、終わったよ。次、早田さん冷凍庫お願いしていい?」
晃市もいつも通り丁寧に答えた。
「了解しました」
晃市は柔らかい口調で短く答え、アイスケースの方へと足を進める。
軽い足取りで棚の間を抜けたそのとき――
店内のすべての音が、ふっと途絶えた。
冷蔵庫の唸り声。照明の微かな振動音。外を走る車のエンジン音。
それらが、一瞬のうちに完全な沈黙へと変わった。
「……?」
晃市は立ち止まり、店内を見渡す。
異様な静けさに違和感を抱きつつ、ふと振り返ると――
伊沢美紀が、動いていなかった。
ペットボトルを棚に差しかけた手が中空で止まり、体はそのまま静止している。
一切の揺らぎもない。まばたき一つしない。
「伊沢さん、大丈夫ですか?」
晃市は何度も大きな声で呼びかけるが、まったく反応はない――
まるで時間が止まっている。
急いで外を覗く。
通りを歩いていた中年男性、信号待ちの自転車、遠くでライトを点けたままの車。
――すべてが動いていない。
まるで、誰かがこの世界の再生を止めたようにと晃市は思った。
晃市は自分の手を見た。動く。
息をする。胸が上下する。鼓動が速まっている。
動いているのは、自分だけ。
驚きとともに、彼の視線はもう一度、美紀へと向けられる。
棚に手を伸ばしたその姿、シャツの袖から見える二の腕は柔らかく光を帯び、艶のある肌が輝く。
まるで光に触れたことで、止まった時間のなかで彼女だけが浮かび上がるようだった。
「……いったい何がどうなったんだ、俺はどうすればいいんだ?」
晃市は、彼女の背中を、頬を、腰を、そして動かない横顔を、ただ見つめる。
この夜、早田晃市は初めて――
誰にも見せたことのない、彼女の“すべて”に触れることになる。
言葉も、遠慮も、礼儀も、止まっている世界には存在しない。
ただ、時間だけが静かに沈黙していた。
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