或る晴れの日

緋舒万燈剣

序章

第1話 中月絺紘

序章編 《上》

 十一月三十日 午前五時


 心地よく晴れた日。

 絺紘ちひろは、病室の窓から外を覗いた。硝子ガラス越しの彼の瞳には、燦々と輝く太陽と人々が騒然となる前の静まり返った町が鮮明に映っていた。

 壁の隙間からひっきりなしに入って来る冷たい風も、今は心地良いとさえ感じる。

 絺紘は、きたる冬に思いをせていた。海神という題名タイトルが付けられた紀行文の一節に奇怪的なことが書かれていたからだ。


 凩の吹く季節、大きな白の鯨と遭遇した漁師の願いは、いつの日にか叶うこととなったのだ。


 日々、悪化の一途を辿る病と鈍っていく身体の感覚に苛まれながらも、生きることを諦めない自分を悔やんでいたときだった。

 自分を「ただのしがない奇譚作家だ」と言う男に出会い、一冊の書物を渡された。所詮、紐綴ひもとじされただけの簡易的な冊子に過ぎなかったが、それが絺紘には光に見えた。己を導くための光に。

 その冊子の内容は、どうやら文集のようで紀行や叙情が多くつづられていた。

 だから初めは、そのような道理に沿わない話があっていいはずがないと疑うばかりだった。

 

 しかし、紀行文は紀行文だ。何かの比喩だろうか、お伽噺のようなことが本当にあり得るのかと毎晩考えるうちに、いつからかその鯨を一目見てみたくなっていた。


 いつもより早く起きてしまったと絺紘はきしむベッドから起き上り身支度をする。霜を生やした窓のサッシに手をかけ、ゆっくりと開く。大きく息を吸い込むと、鼻腔びくうをつんと刺激するような冷たい空気が顔の筋肉を強張こわばらせる。しかし、絺紘の顔に次第に笑みが溢れる。肺を満たした空気が身体に溜まったなまりを浄化する。

 ベッドサイドにある小さなキャビネットの引き出しから本を取り出す。もうすっかり朝の日課になってしまった読書をしようと思ったのだ。読書のため、そのまま壁にもたれ掛かる体勢になる。


 次に、部屋の扉が開かれる。

 看護婦がやってきたのだ。

「中月くん、ちょうどよかった。先生が、中月くんにお話があるそうです。起きたばかりのご様子ですが、診察室に前回の診察結果を聞きに行ってください」

 どこか、よそよそしさを感じる声で、彼女はそう言った。

 まただ。ここに入ってからというもの看護婦は冷淡な印象を受ける者ばかりだ。

 やはり、この病のせいだろうか。

「分かりました。今向かいます」と端的に返す。

 それを聞いて軽く頷いた看護婦は、足早に部屋を去って行った。


 絺紘は、取り出したばかりの本をキャビネットに戻し、隣のベッドに向き直る。

 いつものように隣のベッドで寝ている梓弓あずゆみさんに「おはようございます」と挨拶をする。返事の代わりに閉じられたままの瞼の上にある眉をヒクヒク動かしながら、唸る声を上げたのでそれ以上の言葉はかけないで、静かに部屋を出る。


 山の中腹辺りに建っている隔離施設サナトリウムでは、朝は特に冷え込むため、廊下を歩く足の末梢から身体の中枢にかけてじんわりと冷えていく。

 診察室の古びた建て付けの扉を開けると神妙な面持ちをした医師がそこにいた。年齢と相容れない顔立ちが飾られる面長な顔、切れ長の細い目。

 鋭い視線が、俺の動揺の意も返さずこちらを捉えている。

 絺紘が椅子に腰を下ろすが何も言わないどころか、口を開く気配すらない。

 少しの間、沈黙が続く。

 どちらが先に口を開くか、虎視眈々とした空気に耐えられなくなり、沈黙を破ったのは絺紘の方だった。

「この病の要因が分かったのですか?」

 何も応えない。

「最近調子が良いみたいで、体を動かしても問題ないと思うのですが」

 気まずさを濁すため、必要以上に明るい声色になって言う。

「一年」

 やっと、先生の口から言葉が紡がれた。

「――君の余命だ」

「は……?」と絺紘の口から腑抜けた声だけが漏れた。涙も出なかった。

 張り詰めた空気の中、絺紘は黙り込んでしまった。医師は俯いたままだ。

 よくわからなかった、というより理解しようがなかった。齢十七の若者の希望が絶たれたことと同義である。

「あの、そ、それ、本当ですか?」

 中月絺紘は声を張るものの、先生は机に肘をつき頭を抱えるばかりである。

「いいや『本当』とまで私も言い切れはしないが『本当』に限りなく近い。実際のところ二年、三年と生きられる可能性は、一割にも満たないだろう」

 一向に変わらない絺紘の表情に気づいてか、先生は温かいお茶を手渡す。

「落ち込むだろうが、嘘になる可能性もある。きっと、悪い『ばけさん』が来ちまったんだろう。まあでも、何にしろ人間には『奇跡』っつうもんがあるからな。それだけで乗り越えられることもあったりするんじゃないのか?」

 激励のつもりだろうか。

 咀嚼そしゃくしきれない言葉と励ましの言葉の数々を無理やり飲み込むように湯呑みのお茶を飲み干す。

「兎に角、この一年間君は自由だ。好きなところに行って、好きなことをしてもらって構わない」

「俺の体、どうなっているのですか?」

 言葉を遮った絺紘の台詞せりふに、医師は少し頭を抱えて困った様子を見せた。

「脈拍が安定していない。それに、血液の色の変色が見られる。原因は未だ不明で……」

 話の後半は、最近こういった症状の患者を他に診たとか、そういう話だったと思う。

 正直、よく覚えていない。


 覚束ない足取りで荒い息をあげ、壁にもたれ掛かりながらもやっとの思いで部屋の前に立ち、扉を開けた。フラフラとベッドに倒れ込むと、開いていた新聞を閉じて梓弓あずゆみさんが「おはよう」と挨拶をした。

 いつもと打って変わった絺紘の様子に気づいたようで「何かあったの?」と心配そうな梓弓さんの声が聞こえたが、生憎にも返事をする気にはなれなかった。

 梓弓さんはそれを悟ってか、次第に何も聞こえなくなった。申し訳なく思うと同時に、その出来た気遣いがありがたいとも思った。


 しかし、余命を告げられたことでかえって陰鬱な気分にもなれなかったのも事実。

 いつの間にか眠ってしまっていた。眠りは存外深かく、目が覚めたときには西日が目がくらむほどに差していた。部屋にいる者は皆、寝ていたり読書やらで各々の時間を過ごしている様子だった。

 絺紘は部屋の隅にある机に向かい筆を握った。


 彼らなら願いを叶えてくれるかもしれない。


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