(8)

 一学期の終業式のことなんだけどね。放課後、僕は美術の先生に呼び出されたから、七美達には先に帰ってもらうように言ったよね。その後陽太にも先に帰っておいてほしいって伝えたら、そんなにかからないだろうから待ってる、って言って、彼は教室に残ったんだ。最近陸とあんまり話せてない気がするし、久し振りに二人で帰ろう。そうだ、『さくら』にも寄らないか? そう言っていた。


 陽太を残して職員室に行くと先生は、美大に行こうと考えてる人なら一度は憧れる、朔風さくふう美術大学の過去問をくれた。僕が中学の時にコンクールに出した絵を知っていたみたいで、もし興味があれば、って用意してくれたんだ。予備校の紹介もしてくれて。気が早いと感じたけど、悪い気もしなかった。


 正直、絵を描いてどうしたい、とかは、やっぱりまだ全然明確に思い浮かばない。


 だけど、もし、陽太がバイオリニストになって、その時僕がイラストレーターになっていたりしたら、CDジャケットのデザインを僕が制作できるのかな。そんな考えが頭を過ったんだ。


 一通り先生の説明を聞いて職員室を出た時には、昼下がりの時間になっていた。こんな時間まで陽太を待たせてしまった。


 急いで教室に戻ると、教室には陽太しかいなかった。窓際だけど、丁度柱で窓が無い自分の席に座って寝ていた。柱に頭を預けるようにして寝ていて、よくバランスが保てているな、なんて感心しながら彼に近付いた。


 声を掛けてみたけど、起きなかった。なんだか起こすのも申し訳なくなって、窓から差し込む光の陰で熟睡している彼を、少し観察した。


 細くて綺麗な髪、長い睫毛、緩やかなアーチ状の整った眉毛。少し高い鼻に、綺麗なフェイスライン。短い爪と、細長い指。なのに白い首には喉ぼとけがあって、彼の性別を如実に示していた。きめ細やかな肌は女子よりも美しく、薄い唇は今にも消えそうなピンク色をしていた。


 あんなにまじまじと陽太を見たのは、多分初めてだ。彼が綺麗なのは知っていた。でも、改めて近くで見ると、触れることすら許されないような、だけど、独り占めしたいという欲求に駆られる美しさだった。


 目が離せなかった。


 このまま起こさずに、少しの間、見ていたいと思った。僕はもう一度陽太を眺めた。頭の先から視線を下に動かして、少し開いた唇で、目が留まった。


 その時自分が何を思ったのか、今ではわからない。


 気付いたら、引き込まれるように自分の唇を重ねていた。


 このままではいけないと思って離したけれど、僕はもう一度、さっきよりも深く唇を合わせてしまった。


 どのくらいそうしていたのかはわからない。理性を手繰り寄せて引き剥がした。


 自分自身が怖くなって、少し離れた席に座って、陽太が目を覚ますのを待った。


 彼が目を覚ましたのは、それから約二十分後。僕が帰って来ていると気付いて慌てていたから、今戻って来たところだからって伝えた。


 そしてそのまま、中学の頃みたいに二人で下校して『さくら』に寄った。花凛さんが海外修行に行っている今、店主のフランス人のおじいさんと、その奥さんがカウンターに立っていた。


 奥さんが淹れてくれたコーヒーを飲んだ。


 どこまでも黒くて底が見えないコーヒーが、昔はなんとなく怖かったんだ。どこが美味しいのかなんて、全くわからなかった。


 今ではその黒さも苦さも平気になったし、むしろ美味しいと思うようになった。こんなことを言うのも変だけど、少しだけ大人になった気がするよ。






 陽太とは、終業式の日以来、会っていない。


 本当はもっと会いたい気持ちもあるんだけど、これ以上陽太に会ったら、僕の気持ちは歯止めが利かなくなりそうで怖いんだ。


 陽太に嫌われないように、傷付けないようにするには、距離を取ることしか思いつかない。


 傷付けない、なんて、寝てる相手に勝手にキスするような自分が言えることじゃないんだけどね。


 この事実を知ったら、確実にショックを受けるよね。


 男にキスされたなんてさ。


 だから、これでいいんだ。






 僕、明日引っ越すんだ。


 父さんの転勤が決まってね。ちょっと遠いから、勿論学校も変わる。


 しばらく陽太を忘れられないだろうけど、でも、新しい土地では上手くやっていくために、携帯電話の番号もメールアドレスも、新しくしたんだ。あと、連絡先も、両親以外削除した。ごめんね、七美もだよ。


 こっちの知り合いと連絡取ったりしたら、絶対陽太が今どうしているのかが気になるし、会いに来ちゃうかもしれない。だから、彼に繋がるものは全部、断ち切りたかったんだ。


 初恋の相手が、友達に、男になるなんて、想像もしてなかった。


 でもきっと、それだけ陽太は僕にとって特別だったんだ。


 陽太以上に好きになる人が、向こうでできるかわからない。


 もう誰も恋愛的な意味では好きになれないかもしれない。


 だけど、もし次陽太に会う時は、絶対に嫌われない、陽太に相応しい、綺麗な人でありたいんだ。


 その時は、陽太は有名なバイオリニストになっていて、僕は彼のCDジャケットのデザインを担当できるようなイラストレーターになれてたらいいな。


 そんな日がくるかもわからないし、連絡先もわからなくなった今、再会できるかもわからないけどね。


 これから先、一生会えなかったとしても、この広い空の下のどこかで、陽太が笑顔でいられるなら、それでいいとも思う。




 そろそろ雨が降ってきそうだね。ごめんね、長々と付き合わせちゃって。しかも気持ちの悪い内容だったよね? 急にこんな話してごめんね。でも、引っ越す前に一度気持ちを全部吐き出したかったんだ。両親に打ち明けるわけにはいかないし、陽太本人には絶対に話せないし、怜奈ちゃんはこんな話できるほどの仲じゃないし……。話せる相手が七美しかいなかったんだ。聞いてくれてありがとう。七美がいてくれてよかった。おかげで少し心が軽くなったよ。傘? 持って来てるからいいよ。


 じゃあ、バイバイ、七美。

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