第9話 友情と裏切り
パン屋での穏やかな暮らしの中で、メラブは王宮から漏れ聞こえる不穏な噂に、日々心をかき乱されていた。
市場に並べられた焼き立てのパンからは香ばしい匂いが立ち上っているのに、人々の間を飛び交う言葉は、まるで冷たい風のように、 彼女の心にさざ波を立てる。
それは、民の英雄ダビデへの嫉妬に狂ったサウル王と、その息子ヨナタンとの間に生じた、深い亀裂の音だった。
「王様は、もう正気ではないのかもしれない。この前も、ダビデ様が竪琴を弾いておられる時に、槍を投げつけようとしたそうだ」
「王様は、ダビデ様が戦で勝利を収めるたびに、ますます苦しんでおられるらしいな。お気の毒に…」
そんな噂話は、メラブの心を深く抉った。
かつて、父ゴリアテを嘲笑った故郷の人々と、今、王の苦悩を語るこの都の人々。
その間には、憎しみや勝利だけではない、複雑な感情の機微が存在することを、メラブは肌で感じていた。
ある日の夕暮れ、メラブはいつものように、王宮へパンを届けにいった。
門番にパンを渡し、一日の仕事を終えて帰路につこうとしたその時、奥の庭園から二人の男の声が聞こえてきた。
王宮の石壁にこだまするその声は、ひどく張り詰めていて、メラブの足を止めた。
一人は、王の息子ヨナタン。
彼は父サウル王とは対照的に、穏やかな目をした青年だった。
引き締まった体つきは戦士としての強さを物語っているが、その顔には深い悲しみが刻まれており、眉間にはいつしか深いしわが刻まれていた。
もう一人は、遠目にもはっきりとわかる、あの男、ダビデだった。
メラブは、二人の姿が見えない茂みの影に身を潜めた。
彼らの間には、かつて王宮で見た穏やかさとは全く異なる、張り詰めた空気が漂っていた。
ダビデは今にも泣き出しそうな顔で、ヨナタンは、親友を目の前にしながらも、どうしようもない苦悩に打ちひしがれているようだった。
「父上は、君を殺すつもりだ…」
ヨナタンの声は、悲痛な叫びのように聞こえた。
メラブは、王の息子が、敵国の出身である自分にパンの届け物を頼んだ時とは比べ物にならないほど、深く苦悩していることを悟った。
彼は、王の息子という重い身分と、ダビデへの深い友情の間で、引き裂かれそうになっていたのだ。
「…この手で君を救うことができない、この無力さを許してくれ…」
「ヨナタン、君の友情を、私は決して忘れない…」
ダビデの声は、悲しみと感謝に満ちていた。
彼は、愛する友と、そして王宮でのすべてを置いて、この都を去らなければならなかった。
二人は言葉を交わすことなく、ただ強く互いを抱きしめた。
それは、血のつながりさえも超える、崇高な友情の証だった。
そして、その友情は、サウル王の嫉妬という裏切りによって、引き裂かれようとしていた。
メラブは、茂みの影で、静かに涙を流した。
彼女がこの都で知ったのは、憎しみや復讐だけではない、人間の心の奥底に潜む、深い孤独と悲劇だった。
父ゴリアテが感じていたであろう孤独、サウル王の孤独、そしてヨナタンの孤独。
それらすべてが、憎しみという鎖でつながっていることを、メラブは悟った。
王宮の門を出ると、夜空には満月が輝いていた。メラブの心には、もはや父の復讐を誓う憎しみの炎はなかった。
そこにあったのは、父の孤独、サウル王の孤独、そしてヨナタンの孤独。
それらすべてを包み込むような、深く、静かな共感だった。
この都で、彼女は、心の在り方を、根本から変えようとしていた。
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