第二章
第9話 悪霊退治へ
ボリュームのある夕飯を事務所で済ませると、いよいよ悪霊退治に赴く時間がやって来る。牧浦さんが出前のカツ丼を用意してくれたおかげで、空腹のまま戦いに臨む事態は回避できた。
「……そう、友達の家に泊まり込むことになって」
事務所を出てから数分、吹きすさぶ冷たい夜風にようやく身体が慣れてきた頃。夕食後すぐに出発した為、家族への連絡は住宅街の夜道を歩きながら行うことになった。
「……うん、帰るのは一週間ぐらい後になると思う。万が一のことがあったら、また僕の方から連絡するから」
スマホ越しに聞こえる母親の声に頷き、適当な嘘を吐いてこれまでの事情を誤魔化す。牧浦さんに連絡を頼むことも一度は考えたが、僕はまだしも両親や妹が霊的な存在を信じてくれるかどうか確信が持てなかった。
「……そういうわけだから、そろそろ切るね。それじゃ」
後ろめたさにも似た罪悪感を噛み潰し、無音になったスマホをズボンのポケットにしまいこむ。
「成瀬君、ご家族への連絡は済んだかしら?」
「はい。上手いこと言いくるめておきました」
振り返ってきた牧浦さんに向かって、一仕事終えた意図を込めて首を縦に振る。もしかすると一週間だけでは済まされなくなる可能性もあるが、その時はまたその時に考えればいい。
「そう、お疲れ様」
牧浦さんは軽く僕のことを労うと、再び前を向いて僕に背中を向ける。今は悪霊退治に向かっている最中で、僕と春香は牧浦さんについて来いとだけ言われていた。
「安心してね、ユキくん! いざという時は私が悪霊をぱぱーっと倒しちゃうから!」
「春香……」
隣では春香が幽霊らしく浮遊しており、やる気満々な顔つきのまま鼻息を荒くしている。事務所を出てからというものの、春香の情熱は消えることなくごうごうと燃え盛っていた。
「ありがとう、助かるよ……ん?」
春香の熱を一身に浴びていると、対面方向から歩いてくる人影が見えてくる。
「……人だ」
フォーマルな服装を見る限り、仕事終わりのOLだろうか。牧浦さんと同じ系統の格好をしているが、緊張感を纏っていないのを見るに十中八九ただの一般人だろう。
「……どうしよう、このままじゃ春香が」
今の春香は宙を泳ぐように舞っており、幽霊だと知らされていなければ間違いなく騒ぎ立てられてしまうだろう。
「は、春香。今の内にもう一回僕の中に」
「ああ、そういえば成瀬君にはまだ言ってなかったわね」
「え?」
狼狽えている僕とは違って、牧浦さんは迫り来る女性を前にしても至極冷静なまま。
「……って、あれ?」
スーツ姿の女性は僕らの真横を素通りして、何事も無かったように路地の暗がりへ消えていく。
「……春香に気づいていない?」
「そういうこと。霊力が無いと幽霊の存在を認識できないのよ」
「あ、なるほど……」
通り過ぎた女性から視線を戻すと、丁度こちらに振り向いていた牧浦さんと目が合う。思い返してみれば、僕が初めて幽霊を見ることができたのは学校の屋上で春香に取り憑かれた時だった。
「……あの人も、そうなんだ」
「ん?」
不意に聞こえた声に振り返ると、どこか悲しそうに俯いている春香の姿が目に入る。
「春香? どうかしたの?」
「……あ、えっと」
春香は僕からの呼びかけに遅れて気がつくと、やはり陽を浴びた向日葵を思わせる勢いで思いきり顔を上げる。
「だ、大丈夫! 何でもないよ!」
「そ、そう……?」
浮かべた微笑みはどこかぎこちないものの、先程までの物悲しげな雰囲気はすっかり無くなっている。
「それよりも、凛世! これから退治しにいく悪霊って一体どんな奴なの⁉」
「う、うるさいわね……そんなに声張らなくても聞こえてるわよ」
夜空にまで届きそうな春香の大声に対して、前を向いて歩いている牧浦さんは不快感を露にしながらも答える。
「今回の相手は下級幽霊……悪霊の中でも特に脅威にならない連中ね」
「え? 脅威にならないのに祓う必要があるの?」
「ええ、そうよ。下級とはいっても、放っておけば被害は拡大していくばかり。突然襲われて命を奪われるケースだってごまんとあるんだから」
「命を……」
たった三文字の言葉を聞いただけで、背筋には冷ややかな感触がゆっくりと伝う。
たった数時間前までは、自分から進んで死のうとしていたぐらいなのに。春香と例の約束を交わしてからは、死に対する恐怖が茨のように僕の心を蝕んでいる。
「大丈夫よ、成瀬君」
「え?」
牧浦さんはいつの間にか立ち止まっており、身体ごと僕の方へ振り返ってくる。
「何があっても、成瀬君だけは絶対に死なせない。約束するわ」
「……牧浦さん」
僕も春香も足を止めて、牧浦さんの自信に満ち溢れた微笑みに目を奪われる。
「……ありがとうございます」
眩しくも見えるその表情から、ほんの少し目を逸らすように頭を下げる。
頼りになる大人とはやはり、牧浦さんのような立派な人のことを言うのだろう。何かにつけて後ろ向きな僕とは違って、何の迷いもしがらみも無く生きている。
「って、私はー⁉」
「あんたは強いんだから、自分の身は自分で守りなさい」
春香からの抗議を冷静に切り捨てると、牧浦さんは再び僕らに背を向けて歩き出す。
「後は、鏖祓会がどう出てくるかね……」
「おうふつかい?」
牧浦さんの背中を追いかけると、またしても聞き慣れない言葉が飛び出てくる。
「霊媒師達を取り纏めている組織のことよ。昔はアタシもそこの一員だったんだけど……」
牧浦さんが詳しい解説を始めることはなく、代わりに何かを感じ取ったように周囲を見渡している。
「成瀬君、ここから先はアタシの傍から離れないで」
「え? それって一体どういう……」
忠告の意図を聞くよりも早く、辺りに満ちる空気の変化を肌で感じ取る。
「なんだか、寒くなってきたような……」
僕らがいるのは一応住宅街のはずなのに、住んでいる人達の生活音どころか気配さえすっかり無くなっている。冷たい空気は固く張り詰めており、風が一切吹いていないせいでその流れを感じ取ることもできない。
「幽世に入ったのよ」
「かくりよ?」
聞き馴染みのないその言葉を、僕よりも先に春香が怪訝そうに呟く。
「アタシ達が普段暮らしている現世、そこと鏡合わせにある世界のこと。分かりやすく言えば、この世とあの世の狭間にある場所ってところかしら」
「この世とあの世の狭間……ってことは」
「そう、ここは幽霊達が活動している世界。霊力を身に付けると、幽世と現世を自由に行き来することができるようになるのよ」
「へえ……」
何だかとんでもない場所に連れてこられてしまったが、幽世の景観自体は現世のものと全く変わらない。
「でも、幽霊の春香がこの場所を知らないのは……」
「春香は本当に例外よ。幽霊は普通幽世に引きずられるはずのに、執念だけで現世に留まっていたのでしょうね」
「執念、ですか……」
「でへへー」
春香は褒められたとでも思ったのか、ふやけきった頬を照れくさそうに緩めている。更には自慢げにふんぞり返して、平たくも愛らしい胸をこれでもかと主張している。
「もっと褒めてくれてもいいんだよ、凛世?」
「全く、本当におめでたい頭してるんだから……っと」
自慢気な春香には見向きもせず、牧浦さんは人の気配がない路地で足を止める。
「……どうやら、早速お出ましのようね」
「牧浦さん?」
鋭く尖った視線が向かう先には、住宅街の中でひっそりと佇む小さなアパートがある。
「あれは……人?」
立ち止まってから目を凝らすと、通りからアパートのベランダを見上げている人影が見えてくる。
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