第4話 欲望丸出しの要求

「胸触らせてくれるなら、起きてあげてもいいよ」

「え」


 突然のことに春香は言葉を失い、暗闇の世界に張り詰めた静寂が訪れる。

 こんな欲望丸出しの要求をされてしまえば、流石の春香でも幻滅して愛想を尽かしてくれることだろう。


「ユキくんが触りたいなら、別にいいけど……」

「そうだよね。こんなセクハラ紛いのこと……って」


 まず最初に自分の耳を疑い、上半身を起き上がらせてから春香へ振り返る。


「本当にいいの?」

「うん」


 目を丸くして歪曲した視界の中で、春香は特に動じることなく首を縦に振る。

冷え切って固まっていた心の中に、溶かしたチョコレートよりも甘く温かな何かが流れ込んでくる感触をふと覚えた。


「……そもそも、ユキくんが相手なら……ぐへへへぇ」

「……⁉」


 僕に流れ込んだ熱がそのまま伝播したかのように、春香の緩みきった頬には色鮮やかな紅が灯る。それから瞬きもしない内に、興奮気味の春香は地面に這い蹲る形で僕の目の前に迫ってきた。


「何ならここで触る⁉ 今触る⁉」

「い、いや……」


 春香の口元は不気味な程緩みきっており、吐息は肩を上下させるぐらいに激しくなっている。終いには僕に見せつけるように、平たい胸を押し付けんばかりに張っている始末だ。


「……今は、遠慮しておこうかな」

「えー、そう?」


 春香は少し残念そうに肩を竦めると、たじろいでいる僕から身を引いてぺたんと座り込む。


「ユキくんなら、いくらでも触ってくれていいのになあ」

「あはは……」


 慣れない苦笑いを駆使して、春香の無邪気過ぎる親切を受け流す。もしもあのまま春香の胸を触っていたら、まず間違いなく触るだけでは済まされない事態が起きていたことだろう。


「……でも、ここから出た後なら」


 僕も春香も、もう少し気持ちを落ち着かせることができれば。春香の提案通り、目を覚ました見返りとして胸を触らせてもらうのも悪くない。というか普通に揉みたい。


「……ふ、ふふふ」

「ユキくん?」


 作り笑いではない、正真正銘本物の笑い声が胸の底から湧き上がってくる。死を希う身ではあるものの、僕だって死ぬ前に一度くらいは女の子の胸を触ってみたい。例え相手がストーカーだとしても、見惚れる程に可愛い女の子なら何の問題も無い。


「……そうだ、これは恋愛感情なんかじゃない。ただの純粋な肉欲なんだ」


 胸を焦がす熱に理由をつけて、羽のように軽くなった腰を上げる。


「約束だからね、向こうで目を覚ましたら春香の胸を触らせてもらうよ」

「……!」


 春香も僕に続くように立ち上がると、眩しく晴れ渡った笑顔が僕の目の前で咲き誇る。


「もちろんだよ、ユキくん! 一回、二回……いや、一万回だって触らせてあげる!」

「う、うん……ありがとう」


 欲にうなされた頭はいい加減なもので、ぎこちないお礼を満足に回らない口から紡ぎ出すことしかしてくれない。


「……起きるって言っても、一体どうすればいいんだろう」


 一度目を覚まして頭を切り替える為に、真っ黒に塗り潰された世界を改めて見回す。やはり出口らしきものはどこにも見えず、目一杯に目を開いてみても現実世界で目を覚ます気配は感じられない。


「ほら、ユキくん!」

「ん?」


 春香は人差し指を突き出し、僕の視線をあらぬ方向へ誘導する。


「あれは……光?」


 春香が指し示した方向に見えるのは、暗闇の空間で唯一輝いている色白の光。僕が振り返った後方で、先程までなかったそれは徐々に大きくなりつつあった。


「……あそこに行けばいいんだね」


 春香の言う通り、この世界が僕の中にあるものだからだろう。大まかな説明を受けずとも、あの光がこの空間の出口であることは感覚的に理解できる。


「あ、そうだ! ユキくん!」

「春香?」


 光を目指して走り出そうとして、何かを思い出したらしい春香の声が僕を引き留める。


「くれぐれも気をつけてね! 今のユキくん、『あの女』に捕まっちゃってるから!」

「あの女?」


 一体、春香は誰のことを言っているのだろうか。振り向きざまに聞き返そうとしたところで、僕の視界は全て真っ白な光の奔流に塗り潰された。

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