SCENE#52 雲ひとつない夏の朝に…
魚住 陸
雲ひとつない夏の朝に…
第1章 夏の朝
まだ明け切らない空に、遠くで鶏が鳴く。少年、正勝は、いつものように早朝から目を覚ました。薄暗い部屋の天井には、昨夜の蚊帳がだらりと垂れ下がっている。隣で眠る妹の光子の寝息は、静かで穏やかだ。
縁側に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。深く息を吸い込むと、土と草の湿った匂いが鼻腔を満たした。風はなく、木々の葉は微動だにしない。遠くから聞こえるのは、一斉に鳴き始めた蝉の大合唱だけだった。その声は、どこか遠い世界で鳴り響く鐘の音のように聞こえた。
「兄ちゃん、どうしていつもと違うの?」
光子が目をこすりながら、正勝の隣に座った。光子の目には、何かが違うと訴える不安が宿っていた。
「さあな。気のせいだよ」
正勝はそう答えながら、母が父と話していたことを思い出していた。「こんな時代に、子どもたちには心配のない暮らしをさせてやりたいんだ…」という父の言葉。その決意に満ちた声が、今も正勝の耳の奥に残っていた。
朝食は、麦飯に味噌汁、そして自家製の漬物。母が、食卓にそれらを並べながら、ふとつぶやいた。
「父ちゃんがいたら、もっとたくさん食べさせてあげられたのにね…」
母の言葉には、寂しさよりも、どこか張り詰めた強さが感じられた。食事が終わると、正勝は母と一緒に畑へ向かう。父が残していった、柄の擦り切れた鍬を手に取った。ずっしりと重いその感触は、いつだって父の大きな手を思い出させた。
第2章 不安な予感
畑仕事を始めると、近くの広場から、何人かの大人たちが集まってくるのが見えた。普段は、こんな時間から集まることなどない。ざわめきが次第に大きくなり、やがて誰かが「玉音放送」という言葉を口にするのが聞こえた。
「お母さん、なんだろう?みんな集まって」
正勝は鍬を止め、広場に目をやった。母は正勝の問いには答えず、ただじっと大人たちの様子を見つめている。その横顔には、不安と、そしてかすかな期待のようなものが入り混じっているようだった。
「正勝、今日はもう仕事はやめよう。家に帰って、ラジオを聴くんだよ!」
母の言葉には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。正勝は、空襲警報が鳴り響いた日のことを思い出していた。あの時の、空を覆う灰色の煙と、震えるほど恐ろしいサイレンの音。その恐怖を、光子が母の胸に顔をうずめて震えていた姿を、正勝は決して忘れられない。
しかし、今日の空はどこまでも青く、静かだった。この静けさは、いったい何を意味するのだろう。母は正勝と光子の手を引いて、家路を急いだ。
第3章 ラジオの向こう側
家に帰り着くと、ラジオの周りには、もう何人かの近所の人たちが集まっていた。皆、固唾をのんでラジオを見つめている。ラジオのスイッチを入れると、雑音の中から、威厳のある声が聞こえてきた。しかし、その声は難しい言葉ばかりで、正勝には何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
「聞いたか?戦争が終わったんだってよ…」
隣にいたおばさんが、涙を流しながらつぶやいた。その声は、悲しみではなく、安堵に震えているようだった。
「本当に?もう、夜中に防空壕に駆け込まなくていいのかい?」
別の男の人が、信じられないという表情で尋ねた。
母は、ラジオの前で、静かに涙を流している。光子は、母の涙を見て、不安そうに母の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「お母さん、泣かないで…」
正勝がそう言うと、母は正勝の方を振り向いて、微笑んだ。
「大丈夫だよ、正勝。これは、嬉しい涙だよ。これで、お父さんが、帰ってこれるかもしれない…」
その言葉を聞いた光子は、初めて「戦争が終わる」ということが「嬉しいこと」だと認識した。そして、正勝の胸に、ようやく「戦争が終わった」という言葉の意味がじんわりと染み込んできた。父が、帰ってくるかもしれない。いや、帰ってきてくれるんだと。
第4章 空に広がる青
午後になると、空には、雲ひとつない、どこまでも広がる青空が広がっている。朝とは違い、蝉の声は、もう耳には届かなかった。
正勝は、縁側に座り、ただぼんやりと空を見上げていた。広場の方からは、まだ人々が集まって話している声が聞こえる。
「これで、子どもたちに腹いっぱいご飯を食べさせてやれるかもしれないな!」
「もう空襲の心配はないんだ。これからは、皆で力を合わせて、この村を元に戻さなきゃな!」
人々の声は、希望に満ちていた。
母は、正勝の隣に座り、静かに言った。
「正勝、お父さんが帰ってきたら、一緒に何をしたい?」
「うーん…畑仕事、一緒にやりたいな。お父さんが『俺の鍬は、この家の宝物だ』って言ってたんだ。それを大事に使ってたんだって、教えてあげるんだ!」
正勝の言葉に、母はうなずいた。
「そうね…。きっと喜んでくれるわね。お父さん、きっと喜ぶわよ…」
母の声は、震えていた。しかし、その声には、確かな希望が満ち溢れていた。
第5章 新しい朝へ
その夜、正勝は、夢を見た。
夢の中で、父は、満面の笑みを浮かべて、正勝の前に立っていた。その手には、正勝がずっと欲しがっていた木製の飛行機のおもちゃが握られていた。
「正勝、大きくなったな!」
父は、そう言って、正勝の頭を優しく撫でてくれた。その手の温かさが、正勝を安心させた。
「うん、お父さん。早く帰ってきてよ!」
正勝は、うれしくて、涙が止まらなかった。
翌朝、正勝は、いつものように早朝から目を覚ました。薄暗い部屋の天井には、蚊帳が垂れ下がっている。隣で眠る妹の光子の寝息は、静かで穏やかだ。
縁側に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。空には、雲ひとつない、どこまでも広がる青空が広がっている。蝉の声は、昨日とは違って、力強い未来の歌のように聞こえた。
正勝は、朝食を済ませると、まっすぐに畑へ向かった。そして、父の鍬を手に取り、荒れた畑を耕し始めた。土が掘り起こされるたびに、希望が芽吹くような気がした。
「兄ちゃん、すごい!」
光子が縁側から、笑顔で正勝を見つめている。
台所から、味噌汁の香ばしい匂いが漂ってきた。
「ご飯ができたわよ!」
母の声が聞こえた…
SCENE#52 雲ひとつない夏の朝に… 魚住 陸 @mako1122
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