土俵に血は似合わぬ
湊 マチ
第1話 結びの一番、崩れ落ちる大関
太鼓の音が、空気の芯を一つずつ叩いていく。
満員御礼の懸垂幕、蒸した土の匂い、撒かれた塩が白い星座みたいに散っている。
式守大蔵は、軍配を胸の中央に立て、土俵の縁(ふち)に視線をすべらせた。結びの一番。制限時間いっぱい。声は張るが、喉は乾かさない。水一口も、ここでは余計だ。
東、横綱・琴嶺。
西、大関・旭龍。
二人の呼吸の間合いは、美しかった。立合い前の仕切り、かかとを土につけ、掌を落とす。横綱の髪は艶があり、床山の手が良い。旭龍の肩の線は、今場所ずっと研ぎ澄まされていた。
「はっけよい!」
軽く砂が跳ねる。直前にもう一握り塩を撒いた旭龍の指先が、白い軌跡を引いた。
「のこった!」
ぶつかった音に場内が震えた。肩と肩、胸と胸が食い込む。大蔵は二人の足、掌、肘の角度を同時に見ていた。軍配の柄に汗が滲む。横綱が左を差しにくる。旭龍は嫌って右からいなす。寄り、残し、俵へ寄る、寄る——
そこで、旭龍の身体が、少しだけ遅れて傾いた。
相手の力を受けて退きたいときの傾きではない。力の筋が、どこかで切れたような落ち方だった。肩から崩れ、膝が土を掬い、そのまま横に転がる。横綱の掌が離れ、観客席から小さな悲鳴が噴きこぼれた。
「待った!」と口から出る前に、大蔵は叫びを飲み込んだ。待ったは自分の領分ではない。行司が叫びうる言葉は限られている。だが、軍配はまだ差していない。勝負が決していないなら、勝敗の宣言はできない。体配は止まった。止めるべきだ。
「行司、続けろ」
土俵下、審判長席から低い声が飛ぶ。八雲理事の声だった。大蔵は一瞬だけそちらを見た。八雲の顔は動かない。動かない顔は、よく動く指でインカムのスイッチを握っていた。
旭龍は呼吸を探しているように胸を上下させ、次の瞬間、ぴたりと止めた。口角がわずかに痙攣し、耳の下に薄い筋が走った。汗か、血か。大蔵は土俵に膝をつき、旭龍の頬を支えた。呼出が駆け寄り、医療班が土俵下から飛び出す。視界の端で、横綱が片膝をついたまま動かない。
「心臓……発作かもしれません、担架!」
勝部医師の声。反射的に観客席がざわめき、すぐに沈む。太鼓は鳴らない。大蔵は旭龍の右耳の下、顎の骨の後ろの柔らかなところに、点のような影を見つけた。親指の爪の先ほどにも満たない、小さな黒い点。そこから皮膚の上に糸みたいな赤が、汗と混ざって細く引かれている。
こんなところを、何で——。
取組の最中にここを傷める動作は、ほとんどない。肘、肩、こめかみ、鎖骨。あっても、耳の下は稽古でも滅多に触れない。
「運びます」
勝部と担架の手が旭龍を包む。大蔵は立ち上がり、横綱に目をやった。
「琴嶺、怪我は」
横綱は何も言わず、首を振った。無表情というより、無音で祈っている顔だった。汗が房を伝い、白い砂が貼り付いている。床山の千吉が花道の途中で立ち尽くし、拳を握っているのが見えた。
土俵は、空白になった。
観客も、審判も、行司も、みなその空白を見ている。空白をどう埋めるかを、誰かが決めなければならない。
「式守、大蔵」
審判長席。八雲が立ち上がった。場内放送のマイクが入る気配。
「ただいまの取組、旭龍の……」
言葉尻が少し遅れ、大蔵は八雲の喉仏が動くのを見た。続いた言葉は、言い慣れた公式の調子だった。
「……体調異常による中断とし、結びは横綱・琴嶺の不戦勝といたします」
ざわめきは、納得の音ではない。
しかし儀式は儀式だ。大蔵は軍配を横綱側に静かに差した。差し違えれば、行司が切腹した時代の痕跡が、自分の手首の内側を冷やす。琴嶺が一歩、土俵の内側で軽く頭を下げた。その首筋の汗が、光の中で線になって流れ落ちる。
土俵が解かれ、場内の照明がわずかに色を変えた。太鼓が一度、控えめに鳴る。観客は拍手を混ぜながら立ち上がり、花道に目を送った。担架はすでに見えない。大蔵は土俵の砂を指先で撫で、薄い赤がつくのを確かめた。汗に紛れているが、塩に触れても泡立たない。汗なら塩の結晶でざらつくはずが、ここには微かな滑りしかない。
「行司、持ち場へ戻れ」
八雲の声は、再び低く、鋭かった。
大蔵は軍配を立て直し、儀式の進行に戻る動作を取った。だが、頭のどこかで、別の手順が始まっていた。
疑いの型。
手掛かりの取り口。
誤りなく、順に。
土俵を降りると、審判部の詰め所には短い緊張が漂っていた。誰も声を高くしない。高くすれば、何かが崩れる。勝部医師が白衣の裾を握りしめ、目だけで言った。「医務室へ」。大蔵は軍配を袂にしまい、詰め所の脇机から細長い紙片と鉛筆を取った。祖父から受け継いだ癖、柄の中に挟むための速記メモ。字は小さいが、記憶より確かだ。
——耳下の点状刺創。
——薄い血線(汗混じり)。
——倒れる直前まで意識クリア。
——審判長、続行を強く指示。
——床山、花道で道具袋。封印?
鉛筆の先が止まったところで、戸がノックもなく開いた。東出記者の顔がのぞく。角界担当歴が長く、記者席から詰め所への道を知り尽くしている男だ。
「大蔵さん、事故で押し切るのかい」
「東出さん、今は——」
東出は肩をすくめ、目だけを細めた。「取材は後でいいがね。旭龍には敵も味方も多い。千秋楽でこんなことがあると、誰かが“都合”を取りに来る」
都合。
大蔵は軍配の柄を握り直した。体温が木を温める前に、木が自分の体温を吸っていく気がした。
医務室は、忙しい静けさに満ちていた。消毒薬の匂い、金属の乾いた音。勝部がモニターを睨み、看護師が手際よく器具を片付けている。布で覆われた台からは、もう息遣いが聞こえない。
「死因は」
大蔵が訊くと、勝部は眉間に皺を寄せ、「急性心不全。そう記すしかない」と言った。言いながら、言葉は机の上に落ちていった。拾おうともしない。
「しかない、か」
「臨床的には説明がつく。が……」勝部は口元に手を当て、小声になった。「もう少し時間をくれ。耳の下、見たね?」
大蔵は頷いた。勝部は目だけで合図し、引き出しから小さな綿棒を出した。綿は、淡く色がついている。血の赤ではない、もっと薄くて、冷たい色だ。
「唾液や汗とも違う。検査にかける。だが、今この場で言えるのは、何か“入った”か、“出た”か、そのどちらかだ」
「どちらにしても、土俵の動きから外れている」
勝部は答えず、大蔵の目を見たまま、白衣の胸ポケットに綿棒を戻した。「協会は、事故で片づけたい。……困ったことだが、私の契約は来月更新だ」
冗談にはならなかった。
八雲の顔が、詰め所の空気の中に浮かぶ。
都合は、いつも儀式の上に薄く被さる。
支度部屋に戻る途中、花道で呼出の富蔵に呼び止められた。「行司さん」
耳が良い男は、いつも声を落とす。「さっき、正面の三段目、若い男が立ってた。立つところじゃない。係が注意したらすぐ座ったけど、立ったのは立合いのちょい前、一度きり」
「何か持っていた?」
「筒みたいな……いや、勘違いかもしれません」
富蔵は自分で自分の話を打ち消すように笑い、頭を下げた。大蔵は礼を返し、さらに数歩行ってから立ち止まった。
耳の下に入り得るものは何か。遠くから射す? 土俵上で刺す? 衣装に仕込む?
考えを止めるべき順序は、いつも決まっている。まず、触れうる手の確認。次に、導線。最後に、時間。
支度部屋は、湿った熱で満ちていた。汗の匂いが混ざり合い、塩の粉が床で薄い霜のようになっている。若い付け人が行き交い、親方衆が低い声で指示を飛ばす。横綱の床山・千吉が、遠慮がちな早足で荷を抱えていた。大蔵は声をかける。
「千吉、その袋、今見せてくれ」
床山袋。髷を結う道具一式が入っている。元結、櫛、油。千吉は目を泳がせ、すぐに笑顔を作った。「行司さん、支度で散らかしてまして……」
「今」
笑顔は崩れ、千吉は袋を差し出した。封印シールが口に貼られている。だが、左の隅、紙がほんのわずかに浮いている。剥がして、貼り直した痕だ。中身を一つずつ出す。櫛。柄に手を当てると、想像より少し重い。歯の一本に、針で突いたような欠けがある。千吉の指が震えた。
「……いつも通りです。今日も」
「封印は、いつ切った」
「……結い直しのときに。横綱が汗を拭いて、仕上げの直前で。すぐに閉めました」
旭龍の耳の下に触れうる手は——。
立合い前の仕上げで、横綱の髷を整える床山の手は、横綱の首筋と、相手の頬の近くを一瞬掠める。床山の動線は、いつでも土俵の際まで入る。だが、床山は旭龍の身体に直接触れない。それが作法だ。
では、触れずに触れる方法は。
「千吉、この袋、誰かに触られた?」
千吉は唇を噛んで、目を伏せた。答えの代わりに、呼吸が波打つ。
大蔵は、袋の奥から油の小瓶を取り出す。蓋を外すと、鼻の奥に薄く刺す匂いがした。鬢付け油の甘さに、もう一つ、薬のような乾いた匂いが混ざる。
「審判部の中溝さんが……通行証を。さっき、再発行してくれて」
「何のために」
「袋を……戻しに」
千吉はそこまで言って、声を失った。戻しに、という言葉は、誰かがどこかへ持ち出したことを前提にしている。
「中溝さんのところへ行く」
大蔵は袋を千吉に返し、封印を目の前で閉じさせた。閉じるという動作は、再び開く可能性をいつでも孕む。封印とは本質的に、時間の印だ。
詰所に戻ると、八雲が待っていた。壁の時計は、千秋楽の進行に合わせて刻んでいる。針は少しだけ、いつもより早く進んでいるみたいに見えた。
「式守」
八雲の声は低く穏やかで、引き戸の向こうのざわめきとは別の温度を持っていた。「君の仕事は、勝敗を示すことだ。医療は医療、運営は運営。分を越えるな」
「分は、土俵の上で守ります」
「ならば、それでいい」
八雲は微笑み、背を向けた。
笑っている顔の目は、笑っていなかった。
大蔵は軍配の柄に、先ほどの言葉を書き足した。
——床山袋封印の浮き。
——櫛の歯の欠け。柄重い。
——油に別臭。
——中溝、通行証再発行。
——審判長、続行を強く。
紙片は汗を吸って柔らかくなった。柄の隙間にそっと滑り込ませ、指を抜く。
祖父は言っていた。
「軍配は、風も読む。重さだけで差すな」
風は、まだ吹き始めたばかりだ。
旭龍の声は、もう届かない。だが土俵は、声を吸って、必ず返す。
その返す声を、拾えるかどうかは、行司の仕事であり、罪でもある。
花道の向こうで、太鼓が次の合図を打った。
儀式は続く。
大蔵は土俵の縁に立ち直り、心の中だけで、ひとつ言葉を差した。
これは、事故ではない。
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