九条踝の前途多難
大澤めぐみ
どっちもはダメ。どっちかなら、まあ。
新卒で入った企業をすぐ辞めてのびのびと親の脛を齧っていたら、母親がツテで住み込みの家政婦の仕事を見つけてきて「食い扶持くらい自分で稼ぎなさい」と、実家から放り出されてしまった。ひどい。母の愛は無限じゃないのか。
「無限は無限ですけどね。無限にも濃度があるのよ」
そんなトリビアルな屁理屈で丸め込まないでほしい。
はぁ、無限、無限。
無限というのは限りがないということで、たとえば自然数は無限に存在する。そのうち、偶数、あるいは奇数というのは、すべての自然数の半分なのだから、直感的には自然数よりも少ない気がするが、どちらも無限に存在するため、大きさはイコールだ。一方、実数は0と1のあいだにも無限の値を持つため、自然数よりも大きい無限である。これを無限の濃度が大きい、と表現する。
「なるほど、彼女らしい」
面接のとき「千鶴子さんは元気ですか?」と訊かれたので、そのエピソードを話したら、
千鶴子はうちの母の名前で、虎琉さんはわたしの雇い主である。母の大学時代の後輩にあたるそうだ。ちなみに母はしがない保険屋であるが、虎琉さんは数学科の助教である。立派だ。
「いえ僕なんかは他になにもできなかったから大学に留まるしかなかっただけで、センスは千鶴子さんのほうがありました。センスのある人ほどアカデミアに留まらないものなんです」
自虐的なスマイル。はぁ、クソかわいい。
虎琉さんは、一言で言えば顔が良すぎるナイスミドルである。銀縁眼鏡越しの目元は優しい雰囲気だが、顎はわりに幅広く、肩幅もガッシリしていて理系らしからず男らしい。まだ五十歳にはなっていないはずだが、若く見えると言えば見えるし、年相応以上に落ち着いても見える。なにより、決して声を荒げることがなく、落ち着いたトーンで話すのが好きだ。ふたまわりも歳が離れていることになるが、同世代の男に幻滅しきっているわたしにとっては、むしろ好条件である。どうにかして一撃でこの人と結婚できないだろうか。
なにを隠そう、わたしはわりとかわいいほうである。人並みに社会活動でもすれば、彼氏のひとりやふたりや三人四人はホイホイできる程度のスペックが優にあるとは思うのだが、なにしろ一切の社会との接点を放棄して実家で親の脛を齧っていたので出会いがない。
社会に出たくない。「あ~ほんとに何もできないんだな」とか「笑ってれば済むと思ってるんだろ」とか言われたくないし「お前の意見は聞いてない」「俺の言うことを聞け」などと怒鳴られるのもまっぴらだ。彼らはわたしを「恫喝」し「支配」しようとする。わたしは「恫喝」にも「支配」にもまったく耐性がない。大きな声を出されると無条件で思考が停止し、泣いてしまう。「泣けよ。泣けば済むと思ってんだろ」
わたしの理想の男性像は『恫喝と支配をしない』である。異様に高い目標というわけではないはずなので、いつかは理想の相手に出会えるかもしれないが、試行回数を重ねるのが嫌だ。嫌な目にあいたくない。ほんの一瞬、たった一度でいいのなら、どんな嫌な目も我慢できるだろうけど、継続的に嫌な目に遭い続けるのは無理だ。
わたしは女なので、なるべく社会に出ずに人生を済ますには、結婚して家庭に入ってしまうのが話は丸い。社会との接点を断ったまま、一撃で理想の相手と運命的に出会うのが最高なのだが、どうだろう? 目の前に理想の相手が一撃で現れたではないか。これを運命と言わずしてなんと言おう。運命である。結婚してくれないだろうか。
「僕としては」と、いちど眼鏡を外して目元を拭い、また眼鏡を掛けなおしてから、虎琉さんは言った。「もうちょっと年配の方を想定していましてね。やることがなくて暇しているような人に、暇つぶしとお給料の両方を提供できたらと。
「決して浪費ということにはならないかと。おそらく」わたしは前のめりの姿勢で食らいついた。せっかくの
虎琉さんは5度ほど首を傾げて数秒黙り、それから「そうですか」と、言った。そういったわけで、わたしはこの北畠家で住み込みの家政婦として働くことになった。
六時のアラームで目を覚ます。洗面所で顔を洗う。歯磨き粉が切れていたのでストックを出そうと戸棚を開けると、中におびえた様子のおじいさんが入っていた。最初のうちこそ驚いていたが、驚くだけで実害がないのでとくに問題はなく、いまでは驚きもしないので、本当にただいるというだけだ。おじいさんの脇から手を突っ込み、新しい歯磨き粉を取り出す。歯を磨く。
面接の最後に「踝さんは、霊感ってありますか?」と虎琉さんに訊かれて「ないです」と答えたのだが、あったらしい。霊感。
「ならよかった。僕は気にしたことがないのですが、そういうのがある人によると、うちは相当、霊が集まりやすいらしくて」
北畠家のお宅、というかお屋敷は、築百年をこえる広大な和風建築である。ためしに数えてみたら、母屋だけで11LDKあった。並みの豪邸を中庭を挟んで二棟くっつけたような構造で、それに加えて離れも二棟ある。そのうちの一棟がもともと使用人を住まわせるためのものだったようで、いまはわたしが寝起きしている。和室1Kのこぢんまりとした建物だが、シャワーとトイレもついていて、プライバシーもばっちりだ。
これまでの人生で心霊体験は一切なかったのだが、ここにきた初日から心霊現象のオンパレードで、驚く暇もなく慣れてしまった。戸棚の中にはおじいさんが隠れていて、天井裏を小さな子供が駆け回り、中庭越しに見える縁の下には人間ではなさそうな人型のなにかが潜んでおり、不意に三角座りをしている女性と出くわす。
負けるものか。心霊現象ごときにわたしの
虎琉さんはとくに問題なく生活しているので、見えなければ影響はないようだ。わたしも今のところ普通に生活できているので、見えていたとしても、無視していれば大丈夫なんだろう。
パパッと顔をつくり、黒のワンピースと白のエプロン、いわゆるメイド服に着替える。なお自前である。虎琉さんは不思議そうな顔で「その恰好は?」と言っていたが「かたちから入るタイプなんです」と返答したら、止められはしなかったので、押し通ろう。せっかく本物の
母屋の台所にいくと、タイマーでセットしておいた炊飯器からお米の炊けるいい匂いがした。ネギを刻み、味噌汁を作る。七時前に「おはようございます」と、上下グレーのスウェット姿の
ごはんと味噌汁と玉子焼きとお漬物。あと昨日の夕飯の残りがあったりなかったり。目玉が落っこちるような大豪邸に住んでいるわりに、北畠家の食事はものすごく質素だ。
「いや、すごいですよ。踝さんが来てくれるまでは、朝ごはんなんかトーストにマーガリン塗っただけが当たり前だったんで」
真弦くんは虎琉さんのひとり息子で、大学受験を控えた高校三年生である。うっかり第二次性徴するのを忘れたのかっていうくらい中性的な顔立ちの美少年で、非常にとっても、眼福だ。とくに鋭角な顎のラインが芸術的なレベルで、顎のラインマイスターのわたしも十点満点を出さざるを得ない。時間を止めて至近距離で舐め回すように観察したい。これまであまり年下というのは考慮してこなかったのだが、ここまでビジュアルが突き抜けていると他のすべての条件を無視して全然アリである。結婚してくれないだろうか。あるいはいっそ、殺してくれ。
虎琉さんも捨てがたいが、現状、奥様が失踪しているとはいえ、まだ籍は入れたままであり、既婚者である。実際に結婚するとなると障壁が少ないのは真弦くんのほうであるが、好みはどちらかと言えば虎琉さん。いや、あるいは夢の親子丼!「僕も父さんも」という真弦くんの声で、暴走する妄想にかろうじてブレーキがかかる。危ないところであった。「食べ物に頓着がないから、めんどくさくて。母さんが出てっちゃってからは、食パンとかクラッカーとかカロリーメイトとかばっかだったんで」
「ちゃんと食べてくださいね。わりとマジで」溜め息とともにそう言って、わたしは真弦くんのグラスに麦茶を継ぎ足す。
「家政婦さんも、良さそうな人が来てくれても、オバケにビビッて、すぐいなくなっちゃうんですよね」ずずっと、味噌汁を啜りながら真弦くんが言う。「踝さんは、大丈夫です? オバケ。見ました?」
「あ~、見たは見たんですけど」というか、今も天井裏を子供が嬌声を上げながら駆けまわっているのだけれど。「まあ、見えるだけなので」
「そうですか。性別もあるのかな。僕も父さんもまったく見えないんですけど、母さんは見えてたみたいです。戸棚の中におじいさんがいる、とか」
別々の人間が同じおじいさんを見ているのだから、わたしが幻覚を見ているだけ、という可能性は低い。認めがたいことだが、どうやら霊は本当にいるようだ。
「ごちそうさまでした」と手を合わせ、真弦くんが出て行くのと入れ替わりで、今度はパジャマ姿の虎琉さんがダイニングに入ってきた。まだ眠いのか、瞼がほぼ閉じていて、後頭部には寝ぐせがピョンとはねている。は? 萌え死なす気か? 喜んで死ぬぞ?
虎琉さんにはまず、牛乳をたっぷり入れたホットコーヒーを出す。牛乳がたっぷり入っているのでホットコーヒーというより、ぬるい茶色水なのだが、猫舌の虎琉さんにはそれで丁度いいらしい。萌え要素を盛りすぎである。結婚しましょう。
「あ、そういえば」と、わたしは忘れないうちに伝えておく。「昨夜、
「ああ、そう。うーん、そうか」と、虎琉さんは目をショボショボとさせながら、コーヒーに口をつける。
「苦手ですか? 龍八さんのこと」
わたしが訊くと「いや、彼自身がどうこうってわけじゃないんだけどね」と、虎琉さんは頭を掻く。「やっぱ僕は婿養子だから。北畠の家業にもまったく関わってないし。
現在、この北畠家の当主、と言うのだろうか? お屋敷の所有者は、虎琉さんの奥様の麻織さんである。北畠家に婿養子に入った虎琉さんは、ここで麻織さんのご両親と同居していたそうなのだが、どちらもわりとはやくに亡くなってしまい、そのうえ、ある日、麻織さんが出て行ってしまったので、残された虎琉さんは「なんか住んでる人」みたいな感じになってしまったのだ。まあ、真弦くんは北畠家の直系の血族なわけだから、住んでて悪いということもないとは思うが。
「いや、ほら。僕も真弦も、わりと椅子と机の生活じゃない? なんかこう、和室ってのはあまり性に合わなくて。だから、床だけでもフローリングにリノベしようかなぁみたいな話をポロッとしたら、なんかもう随分と怒っちゃってね。歴史ある北畠の屋敷をなんだと思ってるんだって。彼、そういうのにあんまり関心ないかと思ってたから、意外だったな」
龍八さんは麻織さんの弟さんで、麻織さんが失踪してからは彼女にかわり、北畠の家業である商事会社の役員をしている。当人は古めかしいお屋敷での生活を嫌って早々に出て行ってしまい、今は都内のタワマンで暮らしているそうだが、そうは言っても自分が生まれ育った実家である。なにかと思い入れはあるのだろう。
虎琉さんと真弦くんを送り出してしまうと、この広大なお屋敷に、わたしひとりがたくさんのオバケと共に残されることになる。とはいえ、ここからがわたしの仕事の本番である。ビビッている場合ではない。
まずは洗濯機を回し、母屋の玄関側の棟から掃除にとりかかる。虎琉さんの部屋と真弦くんの部屋もこちら側にあり、ダイニングや浴室などもすべてまとまっている。あるていど生活感もあり、日々の掃除さえ怠らなければ清潔な状態は維持できる。掃除機をかけ、フローリングにワイパーをかける。よく晴れているので表の庭に洗濯物を干し、それから、満を持して中庭を挟んで反対側の棟にとりかかる。
中庭を臨む渡り廊下で繋がるこちらの棟には、和室が四部屋あるのだが、ほぼまったく使われておらず、わたしが来た当初は雨戸もすべて閉め切られていて、空気も淀んでいた。積年の埃や汚れが大変なことになっていて、そりゃオバケも住みつくわけである。
まずはすべての襖と窓を開け放つ。古い日本家屋の間取りなので、襖と窓をすべて開けると、ほぼ柱と屋根だけの東屋のような、四十畳ほどの巨大な四角いスペースになる。風通しが良く、外の陽気も部屋の奥深くまでは届かずに、涼やかだ。掃除の進捗状況は、8割といったところだろうか。掃き掃除をして、概ね綺麗にはなったものの、畳の目地や内縁の板間は拭き掃除が必要だろう。
それからエプロンのポケットから手帳を取り出し、今日のオバケの出現座標を記録する。三角座りをしている女性の霊だ。
どうも、それぞれの霊には出現パターンがあるらしい。分かりやすいのは戸棚のおじいさんだ。『見つけられると、別の戸棚に移る』というパターンである。どの戸棚に隠れているのかを特定できれば、その戸棚を二度と空けないことで、おじいさんの霊を封印することができるはずなのだが、どの戸棚におじいさんが隠れているかは開けてみないと分からないのでなかなか難しい。黒ひげ危機一髪と同じルールである。
そして、三角座りの女性の霊は、主に奥の和室に出現するのだが、毎日、その位置と向きが変わる。じっと三角座りをしていて、動かない。戸棚のおじいさんも動くというよりも、見つけられるといつの間にかその戸棚からいなくなっている、という感じで、いなくなるだけである。よっこいしょと、戸棚から出て行くところは見たことがない。
どうやら、霊というのは出現はできても、自由に動き回ったりはできないようである。少なくとも、このお屋敷に登場するものは。天井裏を走り回る子供は自由に動いている気もするが、姿が見えず音だけだからだろうか。
霊の移動距離は毎日きっかり同じである。向きは90度刻みで変わるのだが、これが右、左、右、左、左と、法則性を見出せそうで、なかなか分からなかった。
なんだかモニョるので、夕食のときに虎琉さんと真弦くんにポロッと相談してみたら「ふぅん。フラクタルだね」「ああ、バイナリで決定するのかな」とのコメントで、ふたりには簡単だったようだ。正解を教えてもらったわけではないが、そのヒントでわたしもようやく規則性に気付けたわけである。
しかして今日は、わたしが予測した通りの場所に、予測した通りの向きで霊が出現していた。位置は一日分移動し、角度は右に90度回っている。
予測できた。理解できた、ということの作用だろうか。あるいは、四方を開け放して風を通し、部屋を清浄にした成果だろうか。こうなると霊もさほど怖くない。外の明るさと、室内の暗さ。そこに三角座りをしている女性の霊、というコントラストが鮮やかで、幽玄というのだろうか。物悲しくも綺麗で、いっそエモい。
わたしは三角座りの霊の傍に屈みこみ、顔を近づけてまじまじと観察する。真弦くんの顔を時間を止めて至近距離で舐め回すように観察するという欲望は叶わないが、相手は動かない霊なので、それができる。
顔は俯けられていて、長い黒髪に隠れてよく見えないが、微妙に横を向いているため、顎のラインは確認できる。鋭角で、綺麗だ。
「こっちにいたんですか。踝ちゃん」声を掛けられて振り向くと、渡り廊下のところに龍八さんが立っていた。柱に手をかけて、板間から和室を覗き込んでいる。第二ボタンまで外したワイシャツは厚い胸板ではち切れる寸前だ。
龍八さんは、ワイルド系のこってりとしたイケメンである。長めの黒髪を後ろに流し髭を伸ばしているが、ちゃんと整えられているので清潔感がある。四十代のはずだが若く見え、肉体から有り余る生命力が迸っている。そばにいるだけで元気になれそうだ。結婚してくれないだろうか。
「呼び鈴を鳴らしたんだけど返事がなかったから、勝手に入らせてもらいましたよ」
龍八さんにとっては実家である。勝手に上がり込むくらいのことは不法侵入とも言えないだろう。
「すいません。こっちにいると、インターホンは聴こえなくて」わたしはその場で立ち上がる。「なにかご用だったでしょうか?」
「いえね」和室には立ち入らないまま、龍八さんは手に持った冊子をヒラヒラと振る。「お義兄さんがフローリングの生活をしたいって言ってたから。手間をかけてこの家をやりかえるより、いっそマンションでも買って、そっちに移ったらどうかと思ってね。詳しい資料を持ってきたんです」
龍八さんがその場で資料を差し出すので、わたしがそちらに移動して受け取る。かなり身長差があるので、近づくと龍八さんの顔を見上げることになる。
「マンションですか」「いまはどこも物件の奪い合いですからね。決断は早いほうがいい。来週じゃあ手遅れってこともある」
なんとも豪気な話であるなぁ、などと考えていたら、表情に出てしまったのだろうか。龍八さんが「踝ちゃんは」と、訊いてきた。「反対ですか?」
「いえ。虎琉さんたちが引っ越すとなると、せっかく見つけた働き口がなくなってしまうなぁと」
ようやくここでの生活も慣れてきたというのに、今さら実家に戻って親の脛を齧るのもアレである。とはいえ就職活動などはもってのほかだ。わたしはもう二度と社会に出るつもりはないのだ。
「ああ、それなら」と、龍八さんが言う。「俺が引き続き、踝ちゃんを雇いますよ。踝ちゃんは変わらず、ここで家政婦をすればいい」
「ひとりでですか?」
「いや、俺が住むよ。なにしろ、今となっては俺が北畠の当主みたいなものだからね。姉貴ももういないのに、義兄さんにばかり押し付けているわけにもいかない」
なるほど、北畠と血の繋がりのない虎琉さんがお屋敷を出て、代わりに直系である龍八さんがここに住めば、一番収まりが良くはある。でも。
「でも、オバケ屋敷ですよ」わたしは、三角座りの霊を振り返り、言う。「見えるんですよね、龍八さんも。だから、この家が嫌で出て行ったんじゃないんですか?」
返事はない。でも龍八さんの視線の動きは、霊を意識している。この距離で観察すれば明白だ。目線を外したところで、見える人が見えない人のふりはできない。
「あの霊、麻織さんですよね。俯いているので顔は見えませんけど、龍八さんなら分かるはずです。姉弟なんですから。どうして黙っているんです? 家の中に、麻織さんの霊がいるって」
芸術的に綺麗な、鋭角な顎のライン。真弦くんは、少なくとも顔の輪郭は、お母さん似だ。
「言ってどうなるんです」龍八さんが、ヘラッと笑う。「霊が見えるからって、それがなんだ? 姉貴の霊がここにいるから、もう死んでいると? 姉貴は自分の意志で出て行ったんですよ。残された俺が、妙な幻を見ているだけだ」
なるほど、その言い分は通るだろう。そもそも霊の正体が死んだ人間であるのかは、まだ検証できていない。戸棚のおじいさんだって、死んだ誰かの霊というわけではなく、元から戸棚に潜むオバケとして、この世に存在しているのかもしれない。
「飽くまでわたしの仮説なんですけど」わたしは言う。「たぶん霊って、あんまり複雑な行動はできないんです。戸棚の中のおじいさんとか。『見つかったら、別の戸棚に移動する』それだけです。蛾が誘蛾灯に引き寄せられちゃうみたいに、メカニズムはシンプルなんです。でも、あの女性の霊の動きは、ちょっとトリッキーですね。今日はあそこにいますけど、前日はもうすこし左でした。その前日は、もうちょっと手前。その前は、もう少し右。法則性がありそうで、微妙に見出せない。でもこれも単純なシーケンスの連続だったんです。法則性は『各ステップiで、i+1のバイナリ表現の1の個数が偶数なら右に、奇数なら左に、90度回転』と、まとめられます」
死の間際につよく想ったことが、ほんのすこしだけ、死後にも残るようなことが、おそらくあるのだろう。
「なにを言っているんです?」
龍八さんは、本当にわけが分からないという風に眉を非対称に捻じる。
「分からないですよね。龍八さんには分からない。でも虎琉さんと真弦くんなら分かる。麻織さんは、虎琉さんと真弦くんに伝えたかったんでしょう」スッと、わたしは龍八さんを指差す。真犯人を指摘するジェスチャ。「この規則に従って描かれる軌跡は、ドラゴン曲線と呼ばれています。再帰数が8のドラゴン曲線です」
スゥーっと、長く息を吐く音がした。「想像力が豊かですね」と、龍八さんが笑う。余裕の笑み。「でも、ぜんぶ想像だ。踝ちゃんにしか見えない霊が残したメッセージ。それがなんだっていうんだ?」
「このドラゴン曲線の再帰数は8。つまり256ステップで全体を描き終わります。終点まで行ったら、また始点に戻るのかな? それとも逆順を辿るのかな? そこは分かりませんけど。でも規則性は分かったので、始点は計算で導出可能です」わたしは言う。「わたしがいま住んでいる離れ。あそこの床下、掘り返してみてもいいですか?」
たぶん、麻織さんはそこに埋まっている。顔を俯けて、三角座りの格好で。床を剥がしてフローリングにするなんて話が出たら、そりゃ龍八さんは慌てるだろう。
「まったく」ガッと、首に圧力を感じた。両足が地面を離れ、自分の肉体の重さを感じる。首を絞め上げられている。「姉貴といい、君といい。浮世離れした女とは、とことん相性が悪い」
見上げていたはずの龍八さんの顔を、見下ろす。歯を剥き出しにした、獰猛な獣のような表情もセクシーだ。いいぞ! 一瞬なら!
どんな嫌な目だろうと、たった一度、ほんの一瞬で済むのなら、きっと我慢できる!
あらゆる嫌な目から守ってほしい。わたしを、無限の安心と安寧のうちに暮らさせてほしい。
それがダメなら、なるべく手早く殺してほしい。
自分じゃできない。怖すぎて、自分じゃ無理だ。わたしはずっと、誰かに殺してほしかったのだ。
「なにをしてる!」ドンッ! と鈍い衝撃が走って、自分の身体が畳のうえに投げ出されたことを理解する。身体が勝手に空気を求めて喘いでいる。どうにか顔を上げると、真弦くんが畳に転がっているのが見える。龍八さんに体当たりでもしたのだろうか。真弦くんが? あのヒョロい身体で? ウケる。おかげでわたしは解放されたようだが、龍八さんは立っている。わたしと真弦くんは倒れている。龍八さんの身体はとても大きい。真弦くんとわたしでは、ふたりがかりでも勝てはしないだろう。
「お前……」龍八さんが足を一歩、こちらに踏み出す。「お前ら!」ガゴンッ!
龍八さんの頭が横に揺れる。へにゃんと膝から崩れ落ち、倒れる。その背後に黒塗りの木刀を振り抜いて残心のポーズの虎琉さんが立っている。どうやら木刀は観賞用ではなく防犯用だったらしい。
どちらかは、ぜんぶに気付くかもしれないと思った。ひょっとすると、どちらかはわたしを守ってくれたりするかもしれないと期待した。いや、妄想した。でも、どちらも気付かなくても、守ってくれなくても、龍八さんに殺されるのでもいいかな、とも思っていた。
いやはやしかし、どちらも気付いて、どちらもいざというときに駆けつけてくれるなんて。こんなのもう、運命だろう。ほんともう、どっちも結婚してくれないだろうか。わたしは若く、無限の可能性が開かれているらしいのだが、そのへんどうにかならないものか。なんてことを考えながら限界を迎えゴロンと畳に転がると、意識を失う前の一瞬に、麻織さんの霊と目が合う。
どっちもはダメ。どっちかなら、まあ許しましょう。
奥様がそう仰るなら、うーん。どうしましょうかね?
九条踝の前途多難 大澤めぐみ @kinky12x08
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