あなたが本当に推すべきもの

遠藤孝祐

あなたが本当に推すべきもの

 僕は特に推しというものがない(終了)。


 ちょっ、ブラウザバックは待って!


 好きなものは色々ある。


 週5杯くらいラーメンを食べているし、旅行に行くことも好き。読むことも好きで「紹介させて」企画をやることで三か月くらい読みっぱなしの時もあった(1000万字over)。


 ドラえもんやクレヨンしんちゃんの映画で号泣したり、気になった音楽は激リピートして自分で歌ったりするくらい音楽も好き。


 でも推しという感覚には、実を言うとならない。


「推し」と「好き」の違いを少し調べてみたけれど、「推し」には「好き」と違って、見返りなく応援をするという意味合いが多いと感じているらしい。


 好意の返報を期待せず、一方的に自分の熱狂や金銭、時間を捧げる。


 程度差はあるだろうけど、それが「推し活」らしい。


 そう考えると、僕にはやっぱり推しはない。


 推しとして強いて挙げるとするならば……







 自分自身だからだ←第2ブラウザバックポイント。






 ↑は?






 いやちょっと待って――待ってください(敬語)。


 最近カクヨム内でいろいろなところを徘徊(徘徊?)してた時に思ったこと。


 カクヨムに限らずかもしれないけど、結構辛い思いをしながら生きている人も多いなって思う。


 結構精神科に通っている方も近況ノートやプロフィールで見かける。


 別に偏見はない。だって、むしろ精神科で支援する側だし。


 そういった方々だけでなく、できるだけみんなに幸せになって欲しいので、カクヨム公式企画に便乗してこんなことを書いている。


 多分カクヨム運営が求めていることとはマッチしていないけど、そんなの知るかい(横暴)。


 みんな色々なことをがんばりすぎて、今の状況を信じすぎて、潰れて身動きがとれなくなるまで動き続けてしまう。


 他人を大切にし、迷惑をかけてはいけないという、根幹の考えがあるからだと思う。


 それはとても大事なこと。


 でも本当に大事にすべき相手は、なのだ。


 まずはなんだか報われない、人生の意味とは何かと考えている人へ伝えたいことがある。


 あくまで僕の考える人生の意味について。


 それは――





 人生に意味なんてないということ。





 誤解のないように言っておくと、これが事実だとしたらこれ以上に救われることなんてない。


 リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という名著がある。


 これを読んで思ったことは、生物とは所詮、遺伝子を運ぶ器でしかない。世界に遺伝子という設計図を、いかに増やしていけるかのゲームに巻き込まれた、意志があるように見える器でしかないという風に見えた。


 この結論について、絶望に似た気持ちが去来した方もいたそうだ。


 でも僕は逆だった。


 人生に意味がないなんて、なんて幸福なことだろう。


 だって、そうだろう。


 人生に果たすべき意味がないのであれば、あなたは公共の福祉に反しない限り、のだから。


 日本国憲法の第十三条は幸福追求権と言われている。


 幸福を、追求する権利。それが誰しもに与えられている。


 でも、でもさ。


 言っても、幸せになるのって難しい。


 中には価値観がイカレちまって、自分が幸福になることを怖がっている人もいる。


 まるで何かの罰と言わんばかりに、自らの幸福を分不相応だと突き返す人がいる。


 人を信じられなかったり、不正を嫌いすぎて過度な正義を求めたり、自分自身をあえて傷つける方向に動いたり。


 でも実際、幸福になることは難しいことだ。


 自分自身と仲良くしない限り、幸福になることは難しい。


 でも、誰しもそうだけど、自分自身に嫌いなところってあるよね。


 僕だってそう。字がへたくそ(会社トップ3)すぎるし、よく物を失くすし、こだわりが強くて一度追及すると決めたことはやりすぎるし。


 かといってめんどくさがりで掃除も苦手。手先は不器用で不眠症気味。


 そして彼女もいない(ドヤっ)


 自分の欠点なんて、あげつらえればキリがない。


 でもね、それでいいんです。


 欠点がない完璧な人間なんていない。完璧な人間ばかりがいる世界は、もう多様性なんて必要ない。


 誰しもが同じ思考をして、同じ行動を取る効率的な世界に、もはや人間は必要ないでしょう。


 理想を追い求めることよりも、自分の欠点を認める勇気を持つ方が、よっぽど建設的だ。


 僕自身だって一歩間違えれば障害レベルの生き辛さだったと思う。


 冗談抜きで、家族全員傾向的にはASD自閉スペクトラム症だし、僕自身だって多動や過集中、注意力散漫な点はADHD注意欠陥多動性障害の気がある。


 自分自身の気質という人間的な欠点に気づけたところが、多分最大級の幸運だった。


 そしてもう一つの幸運は、その気質があることを受け入れたことだった。


 他の人と同じように生きなくていいし生きられない。


 だからまあ、自分にあった世界や道を探したら、今が幸せになっただけの話だ。


 人間である以上欠点はある。そしてそれを認め、辛いことも含めて受け入れる。


 それが多分、第一歩。


 でも、誰だってできるわけではない。


 トラウマ治療に一生を捧げたジュディス・L・ハーマンの著書「心的外傷と回復」では、トラウマから回復するステップについて述べている。


 レイプ被害にあったり、戦争に駆り出されてトラウマを発症した者たちを救うには、まずは安全が確保されなければならない。


 目を覆うほどのひどい出来事にあった人間は心も身体も壊される。緊張が解けない過覚醒、危険回避目的の恐怖感情の増大。


 そして、新たなダメージを追わないようにと感情の麻痺など、大いなる脅威に対して心と身体は普段とは違う警戒の状態に移行する。


 だからまずは、その機能を正常に戻さなければいけない。


 ここは安全で警戒をしなくてもいいところなんだという、心理的、環境的、情緒的な安全を提示しなくてはならない。


 で、何が言いたいかというと、幸福になるためにも、まずは安全な環境に身を置かなければいけない。


 何事があっても守ってくれる、大丈夫だなんて言える安心を。穏やかに揺蕩える環境を。そして信頼できる人とのつながりを。


 そういった安全が担保されていないと、おそらく幸福になることは難しい。


 そのための手段として、驚異から逃げてもいいだろうし、何かに守ってもらってもいいだろうし、治療を受けていくこともいいし、専門家のサポートを受けることもいいだろう。


 とにかくまず、安心の土台を作ろう。


 そして、覚悟をしよう。


 何をだって?


 もちろん、幸福になる覚悟を。


 大嫌いでどうしようもない自分を、認めて仲良くなる覚悟を。


 歌手のYOASOBIは「UNDEAD」で声高々に歌っている。


『幸せになろうとしないなんて 卑怯だ』


 幸せになることが当然のことだと、言わんばかりの傲慢さが好きです。


 とはいえ幸福になることは、困難だ。


 幸福になるための意志が必要で、求め続ける覚悟も必要だ。


 自分自身の欠点や嫌いなところを、好きになれというわけではないよ。


 嫌いでいい。


 嫌いだっていうことを、認めること。


 嫌いでどうしようもないけど、ほんと自分って


 自分のことは大好きだけど、それは全肯定をしているという意味ではない。


 可能であるなら改善しようと思っているけど、極論を言えば改善できなくても別にいいのだ。


 それが僕という人間なんだから。


 いいとこも悪いとこも含めて自分自身だから、それでいい。


 そうやって自分自身のことを認めてあげると、とてつもなくいいことがある。


 世の中馬が合わなかったり、当然僕のことを嫌いな人間なんて、多分人類の半分くらいはいるだろう←被害妄想。


 でもそれでいいのだ。


 自分自身と仲良くなれば、自分自身を攻撃する人間が一人減るのだから。


 人生の最期まで一緒にいる、離れたくても離れられないパートナーが、味方になってくれるのだから。


 死ぬまで自分は、自分自身と一緒にいるしかないのだから。


 でもやっぱり、自分自身が許せないことってあるよね。


 完璧で理想的じゃないといけないって思うよね。


 その気持ちも、あっていい。


 けれど、日本一読まれている仏教書として有名な「歎異抄」というものがある。


 そこで言われている内容は逆説的で、だからこそ禁書とされた時代もあった。


『善人なおもって往生をぐ いわんや悪人をや』


 その意味は「善人でさえ往生できるのだから、ましてや悪人ならなおさら往生できる」という意味だ。


 往生とは本当の幸せになるということ。


 普通逆じゃねって思うよね。


 でもね仏教で言う阿弥陀仏の本願とは、悪人こそ救う対象であると言っている。


 そして、そもそもこの世の中に善人なんているのかという、根本的な問いに行き当たる。


 この世にいるのは、自分自身の欲望に支配されて、自分自身の進む道もわからずに間違い続ける愚か者の人間ばかり。


 それを悪人というならば、救ってあげるしかないでしょう。


 まあ、そんな大罪人というわけではなく、人はそもそも多かれ少なかれ悪人だということ。


 そしてだからこそ、救われるべきであるということ。


 これほどまでに優しい考えを、僕は知らないです。


 どうしようもない人々こそ、本当の幸福をつかむ対象であるということ。


 そんな優しい考え方が、僕は好きです。





 さあとはいえ、優しい皆様方のことだから、まだ何かしらの抵抗を感じているかもしれない。


 自分自身が幸せになることよりも、誰かを優先してあげたい。


 子を、親を、友人を、仕事仲間を、上司を、どこかの誰かを。


 まあ対象は誰でもいい。


 それは尊く、素晴らしいことだ。


 人々の人生を数年ごとに調査し、幸福な人生を送るために必要なことを研究した著書「グッド・ライフ」では、幸福な人生を送るために必要なたった一つの因子を、シンプルに示している。


『健康で幸せな生活を送るには、よい人間関係が必要だ。以上』


 誰かを優先するという理由が、わかってしまうね。


 よい人間関係が幸福に重要だと、きっと誰もが知っているから、他人を大切にしようとするのかもしれない。


 でも間違えてはいけないこと。


 必要なのは、人間関係だ。


 よい人間関係とは?


 その関係は強要ではなく、自由。見下しではなく、尊重。もちろん意見を言ったりわがままも言う。それは受け入れられても、受け入れられなくてもどっちでもかまわない。


 ただ相手のことを認めて、嫌いなところがあってもいい。でも、尊重をしている。


 それがきっと、よい人間関係なのだ。


 どちらかが高圧的で主従のような関係だったり、わがままで相手を振り回し欲望のはけ口にするような関係を、よいとは言えない。


 そこには、尊重。そして信頼がないといけない。


 そういったものがない人間関係を維持しようとしても、それは不幸へのスキップチケットだ。


 ずるく支配的な人間も当然いるし、彼らの本質は侵食だ。


 相手の世界を、思いを、思考を、概念を、もちろん身体的にも侵食し、自分そのものに同化してしまう。


 そこにあなたはいない。


 そんなものが、幸福であるわけがない。


 自分自身が自信をもって幸福でいられるから、よい人間関係を築いていけるのだ。


 幸福に必要ないものをいつまでも抱えていてもいい。


 だって、そうしたいのだから。


 でもそれは、手放してもよいという選択肢を知ることだ。


 その選択ができる自由さこそが、幸福への一歩なのだから。


 さあつらつらと語ってきたことだけど、これで最後にしよう。


 一番好きな言葉。


 あなたが大切な人を幸福にする、最も困難で簡単な方法がある。


 フランスの哲学者アランが著した、この世で最も美しい本の一つ「幸福論」において、その方法が記されている。


『われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは


 自分が幸福になることである』


 意外とそのことに人は気がついていない。


 大好きな人が幸福であることを喜べるのに、どうして自分が幸福なことで誰かが喜ぶと思えないのか。


 自分自身が幸福の手本となることで、誰かがそれをマネしようなんてしてくれたら、それだけでもうけもんである。


 幸福は気前のいい奴だから、幸福であることがどんどん分け与えられてく。


 その幸福の連鎖とも言えるものを、少しだけ信じてみてはいかがだろうか。


 というわけで、長々としたこの語りも、そろそろ終わりにいたしましょう。


 決して強要するつもりはないし、感じたことは好きにしてもらえばいい。


 それは全部全部、見ていただいたあなたのものなのだ。


 じゃあ最後に質問。


 あなたが本当に推すべきものは、なんですか?

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