改訂版 アガタクリコは私じゃないの

千田右永

第1話 再会と発端、そして銀行業務の怪(1-1)

 うららかな春の陽ざしが溢れていた。

ほんの一丁ほど歩いただけで身も心も温もり、ほのぼのと幸せな気分が満ちてくるような日和の午後だった。幸せな気分とは果たしてどんなものだったか、すっかり忘れていた私に、五月半ばの暖かな陽ざしがほんの少しだけ、思い出させてくれた。

だから。

 ついうっかり、立ち止まってしまった。ふだんの私なら、もっと用心深く振舞ったはずなのに。三本先の電柱の陰に佇んで私を見つめ、にこやかに微笑みかけてくるあのひとに気づいた途端、踵を返してさっさと逃げ出すべきだった。ところが、私はやっぱり出遅れた。


『アガタさん?輪蔵場町のアガタクリコさんでしょ?ねえ、そうよね?』


 私に呼びかけるあのひとの声に、ためらいの色は微塵もなかった。臆面もなく天真爛漫、ストレートに喜色満面だった。もしも旅先で思いがけず同郷の知人に出会ったら。懐かしさとうれしさのあまり、自分もこんなふうに叫んでしまうかも知れない。

道行く人たちはその声を耳にして、そんなふうに微笑ましく思っただろう。そう思わせるなにかが、あのひとの声にはあった。それほどピュアな、喜びに溢れた歓声だった。


 気圧された私は返す言葉に詰まった。どう返すべきか、決めかねてしまった。呼びかけ方にも迷った。行員だったときのように、『往来商事さん』や『社長さん』とは、呼びたくない気持ちが先に立った。それを口にした途端、私の立ち場は行員時代に戻ってしまいそうだから。得意客であったあのひとに対して、へりくだる立場に。それが、嫌だった。


 その代わりのように。

 私はつくづくとあのひとの姿を眺めた。おや?と思ったのだ。出会ったばかりの頃あのひとは〈色の薄いオバサン〉だった。言うなれば、風景の色彩に紛れてしまい、存在することさえ見落としそうな色の薄さ。


 その印象は、日が経つにつれて変わっていった。色彩の鮮やかさが過剰なまでに増して、極彩色になったのだ。色彩に溢れているけど、どことなくチグハグでまとまりのない派手さ。それが、あのひとという存在の特徴だった。


 とりわけ目立ったのが、髪の色だ。初めは白髪混じりで曖昧に地味なグレートーンだった髪が、劇的に変わった。ある日突然、ハイビスカスのように鮮やかな朱色になった。椿のような深紅に変わった時期もあった。虹の七色をひと通り網羅していたように記憶している。


 来店したあのひとの髪が派手色に変わっていると、輪蔵場支店内に緊張が走った。誰ひとりもそのことを話題にはしなかったが、あのひとの気分と髪色は密接に関わり合っていることを、誰もが知っていた。


 それが、いま。

 三年ぶりに見たその髪色は、穏やかなグレートーンだった。ハイビスカス色が目に焼きついていた私は、カクンと拍子抜けがした。まるで、そもそもの振り出しに戻ったような気がした。


 その上、服装まで地味で目立たないグレートーンにまとまっていたことも、全然あのひとらしくなかった。らしくないどころか、違和感でいっぱい、どうにもヘンだった。

 でも。同時に思った。

 もしかするとこれは、あのひとにとっての当たり前かも知れない。つまり、輪蔵場町を出てよその街を訪れるときだけ、こんなふうにごくフツーのオバサンになるのだ。いわば常識遵守。目立たぬように。人々の記憶に残らぬように。なんのために?物議を醸し出すことなく、穏便に立ち去るためだ。そのために、あのひとはフツーのオバサンのコスプレをしている。そんな気がしてならなかった。


 繰り返しになるけど、言っておく。何度でも。そもそも私は、アガタクリコなんて名前じゃないのだ。生まれてこの方二十四年、十和田毬子という名前で生きて来た。それが心ならずもブレてしまったのはつい三年前のこと、往来商事の〈色の薄いオバサン〉に出会ったせいだ。たまさかにもジョークでもやけっぱちでも、私が自分からアガタクリコと名乗ったことは、ただの一度もないのだ。


 でも。

 私のことをアガタクリコと呼んだ人は、たしかにいた。ただひとりあのひとだけが、極めて一方的に真正面からそう呼んだ。それだけのことが、私の日常に大きな変異をもたらした。連鎖して起こった、悲しくもヘンな出来事の始まりになったのだ。


 それなのに、私はすっかり忘れていた。ついうっかり油断してしまった。でも、やむを得なかった気もする。はじめに言ったように、その日はうららかで暖かな春の陽ざしが溢れていた。ほんのいっときだけとしても、ほのぼのと幸せな気分に私を満たしてくれる午後だったのだ。


 私には故郷と呼べる場所がない。父親はいわゆる転勤族だった。あちこち移り住むうちに、そこがベストの場所じゃないことに慣れた。子どもだった私には、選択権がない。以前に住んだ町を懐かしく思ったり、戻りたいと願ったりしても無駄だと、とっくの昔に思い知っていた。


 そうして私は深く考えもせず、短大卒業時に住んでいた町で就職した。御影石銀行輪蔵場支店。どうせ落ちるだろうとダメもとで受けたら、採用されたのでびっくりした。

 父母が喜ぶ姿を見ると、そこに就職しない選択肢はうやむやになり、いつしか泡と消えた。それにつけても。私の人生のそこかしこに散らばっている、拾い切れないほどたくさんの違和感。その中でも最たるものがあの職場だったと、いまになって思うのだ。


 三年前の、夏が終わろうとする頃だった。

 その日の輪蔵場町は、きょうのこの街と同じように、明るくうららかな陽ざしが溢れていた。でも、勤務中の私はその陽ざしに触れることができない。こんなにヒマなのに。ぶ厚く堅牢な窓ガラスの向こうのまぶしい光を、目を細めて眺めるしかない。

 支店内の人工照明が鬱蒼として暗く、空調機器からの微風がいつもより冷ややかに感じられた。閉じ込められている。ヒマすぎる手持ち無沙汰のあまり、つい、つぶやきたくなる午後だった。


 支店内奥の壁面の真ん中には、大きな金庫室の扉が鎮座していた。内部も広く奥深く、新入りの私はまだそのすべてに足を踏み入れていない。出入口付近からおよそ三歩あまり、その範囲内で右往左往していた。


 奥の壁面には、真ん中の金庫室のほかに三枚の扉があった。左側のひとつは私たち行員の休憩室や給湯室がある通用口へつながっている。言わば行員用のエリアだ。右端の扉は応接室や会議室の入り口で、主に支店長や代理などの役職者が出入りした。大口の融資を申し込みに来た顧客が、担当者と真剣勝負のやりとりをするブースも中にあるらしい。


 私はまだその場面を見たことがないし、その空間に立ち入ったこともない。この先何年経っても、右端の扉の中に入ることがあろうとは思えない。何年もの長きに渡ってこの職場にいる自分を、そもそも想像できないからだった。


 金庫室のぶ厚く重たい大きな扉が全開すると、その陰に隠れてしまって目立たない、小さめの扉がすぐ横にあった。三枚目の扉だ。小さいと感じたのは、金庫室の扉と並んでいるがゆえの錯覚だ。そこもまた、新米の私などが立ち入る必要のない場所だった。貸金庫。それ以上の説明はされず、私も〈カンケイないところ〉として意識の外に置いた。


 その日は月末ではなく、支払い期日が集中しがちな5の倍数日でもなかったが、それにしても妙にポカンと暇な昼下がりだった。気づけば在席しているのは支店長代理と私だけ、他の行員は昼食休憩中だった。


 タイミングよく客足もパタリと途切れ、店内はひっそりと静かだった。すると食後の私は、逃れようのない眠気に襲われた。どうか窓口係の先輩行員A子さんが戻るまで、厄介なお客がひとりも来ませんように。マジに願ったところで、意識が途切れた。


 一瞬後に目覚めた。つもりだったが、実際どうだったかわからない。さっぱりと片づいていた机の上に現金山盛りのトレーがデンと置かれ、支店長代理が私を見下ろしていた。

「ご入金です。くれぐれもお客様をお待たせしないように。お願いしましたよ、十和田さん」

 支店長代理はいつもの濁声をグッとひそめてささやきながら、金庫室のダイアルをクルクルと廻すような仕草をした。ハリーアップの合図だった。ハッとして見まわせば、店内のひっそり感は変わらず継続中だ。してみると、私の寝落ちはやはり一瞬だったらしい。ほんの少しだけ安堵した。





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