粘性至高

Vii

 

 星が、私の手元をぼんやりと暴き出す。

 全ての人工物は、その働きを失い、来たるべき、予定調和の明日に備えていた。

 スタンドライトのスイッチを捻る。カチリ、という乾いた音が、夜の深さを一層際立たせる。

 私だけが、今日に、取り残されていた。


 カーテンを開ける。

 カエルのげぉげぉと喚く声が、部屋の静寂を溶かし出す。

 網戸を通り抜けた風が、草いきれの匂いを連れてきた。

 じめじめとした、夏の塊が、私の肌に粘っこく纏わりつく。


 その音が、その熱気が、支配者の誕生を祝うファンファーレのように聞こえた。

 これは、戴冠式だ。

 いま、夜は、私のものとなったのだ。

 僅かな背徳感と、それを上回る圧倒的な万能感。

 それらが、夜の女王の生誕を、より確かにする調味料となる。


 辺りを見渡してみる。

 ぼてっとした大きなお腹だけ、くすんで黄色っぽく変色した、くまのぬいぐるみ。

 みぃちゃんとお祭り、と、まるっこく、踊るような文字で小さく書かれたカレンダー。

 しかしその安楽も、永遠不朽のものではないぞと囁く、机に雑多に置かれた、宿題の山、山、山。

 積まれたプリントの束からは、まだ真新しいインクと紙の匂いがする。

 そして、我が手には、円柱の容器。

 韓国のお土産と、昨日、姉がテレビを見ながら放り投げてよこしたものだ。

 プラスチックのそれが、今夜だけは、まるで聖櫃のように思えた。

 その中には、ぬめりをもった、生命の過剰が、無機質に、しかし確かに収められている。

 完璧だ。


 聖櫃は、ぽふり、という、空気の抜ける、少し間抜けな音を合図に、解き放たれた。

 白々しいくらいに鮮やかな青色が、網膜の細胞を刺激する。

 遅れて、給食エプロンの、人工的な、花の汁が染み付ついたような、ツンと鼻につく匂い。


 指を入れるのを、躊躇った。

 それは、まだ誰にも汚されていない、生まれたての魂のようで。

 この指一本で、完璧な調和を乱してしまうことが、恐ろしかった。

 禁じられた領域への、最初のノックだったから。


 目を瞑って、人差し指をゆっくりと近づける。

 見たくなかったのだ。私が、この聖域を侵犯する、その決定的な瞬間を。

 その先が、わずかに震えていることは、自分でもよく分かっていた。


 私の指先は、音も立てずに、ずぷずぷと、青い生命の沼に引きずり込まれた。

 ひんやりと、しかし生命の微熱を隠し持っているかのような、矛盾した温度。

 私の指紋の溝を、抵抗なく、しかし執拗に埋めていく。私の形を覚えていく。


 もう、ためらう必要はない。この子は、私を受け入れたのだから。


 素早く指を抜く。ぽっかりと、大きく一つ空いた穴は、ひくひくと震えながら、やがて外側から、沈み込むように埋まっていった。

 私の侵入の痕跡を、まるで無かったことにするように。私の罪を、許してくれるように。

 その健気な姿が、どうしても愛おしくて、たまらなく愛おしくて、もっと、めちゃくちゃに壊して、私の形だけを覚えさせたくなってしまう。


 聖櫃から、その柔らかな体を両手で掬い上げる。

 ずしり、とした心地よい重み。これが、私の王国の、たったひとりの国民。私の、全て。


 両手で包み込むようにこねると、くちゅ、くちゅ、と、満足気な、湿った音が鳴る。

 誰にも聞かれてはいけない、秘密の会話。

 しかし、指の隙間から溢れ、手首を伝い始める。

 それは私を求めているかのようだった。私の熱を、私の匂いを、もっと欲しがっている。


「……欲しがりさんね。いいわ、もっとあげる」

 手のひらで平たく押し潰し、指を絡め、内側に畳み込む。

 私の汗と、私の皮膚の匂いを、その体の隅々まで染み渡らせるように。


 ひとしきり戯れた後、私はその青い塊を机の上に置いた。

 私の体温を吸って、さっきよりも色が濃くなった気がした。

 それはもう、買ってきたばかりの無垢な青色ではなかった。

 重力に逆らえず、だらしなく垂れていく様は、まるで諦念のようだ。


 指でつまんで持ち上げてみる。伸ばすと、虹色の薄い膜ができる。

 世界の全てを映しこむくせに、次の瞬間には破れてしまう、儚い宇宙。

 その儚さが、私を焦らせる。この美しい宇宙を、私だけのものとして、どこかに永遠に閉じ込めてしまいたい。

 そうだ、もっと確かな、変わらないものに、この子の存在を刻みつけてしまえばいい。

 私の意のままに形を変える。丸く、長く、薄く。この無抵抗な滴りは、完全に私の支配下にあるのだから。


 私の視線は、獲物を探すように、薄闇の支配地をさまよった。


 プリントの山。カレンダーのまるい文字。くまのぬいぐるみ。

 それらは昼間の世界の残骸だ。

 夜の女王である私には、もはや関係がない。

 私の王国に必要な法はただ一つ、私が望むこと、それだけ。

 そして今、私はこの従順な国民を、私の玉座へと迎え入れたいと願っていた。

 私の、一番奥深くて、柔らかくて、誰にも見せたことのない、秘密の玉座へ。


 机の上でだらしなく広がっていた青い体を、私は再び指でそっとかき集めた。

 今度は細長く、私の小指ほどの太さに形を整える。ひんやりとした感触が、期待に火照る指先をなだめるようだった。

 椅子からそっと腰を降ろし、スカートの裾を捲り上げる。

 網戸を抜けてくる生ぬるい夜風が、露わになった太ももを撫でていくのが分かった。

 まるで、世界が私の戴冠式を祝福し、そのすべてを肯定してくれているかのようだった。


 下着の薄い布一枚を隔てて、そこはまだ未知の領域だった。

 自分の指ですら、ほんの入り口をなぞったことしかない。

 そこに、私ではない「何か」を受け入れる。

 その考えは、恐怖よりも強い興奮となって、私の全身を駆け巡った。


 下着をずらし、その入り口を露わにする。恥ずかしさはない。

 夜は、すべてを許してくれる。

 細長く整えた青い臣下を、その湿った割れ目にそっと押し当てた。



 ひやっ、と冷たい感触に、思わず体がびくりと震える。

 私の熱でぬるくなった表面とは違う、その中心部の、まだ誰にも触れられていない純粋な冷たさ。

 それはまるで、禁断の果実を口にする前の、最後の警告のようだった。

 でも、もう引き返せない。



 ゆっくりと、ほんの少しだけ力を込める。

 ぬるり、とした感触と共に、その青い先端が私の体に吸い込まれていった。

 抵抗は、ない。

 むしろ、もっと奥へと招き入れているかのように、私の体はその異物を受け入れていく。

 狭い膣内が、ぬるぬるとした塊によって押し広げられていく奇妙な感覚。

 痛みはない。

 ただ、未知の何かが私の内側を満たしていくという、背徳的な充足感だけがあった。


 ずぷ、ずぷ、と湿った音を立てて、青い体は私の奥深くへと沈んでいく。

 半分ほど入ったところで、私は一度動きを止めた。

 自分の体の中に、自分ではないものが存在している。

 その事実だけで、頭がくらくらとした。


 この子は今、私の内側から、私の全てを感じている。

 私の鼓動を、私の体温を、私の秘密を。

 罪悪感が、愉悦感が、背徳感が、全能感が、後悔が、興奮が、溶け出し、混じり合い、ひとつの巨大な渦となって、私の中で炸裂する。

 ああ。

 ああああ。

 汚してしまった。いや、汚させられたのだ。

 この、意思を持たない怪物に。



 夜の女王は、今夜、この、醜悪で、おぞましき、粘性至高に、だらしなく、身も、心も、堕とされたのだ。



 私は残りのすべてを、一気に受け入れた。

 奥まで到達したそれは、私の体温でゆっくりと溶けていくかのように、内壁に沿ってその形を変え、ぴったりと張り付いた。

 冷たさと、ぬめりと、そして確かな存在感。

 それが、私の中心で静かに脈打っている。


 ゆっくりと目を閉じる。

 空っぽだったはずの私の内側は、今や、忠実な臣下によって完全に満たされている。

 外の世界の音は遠のき、ただ、自分の体の中で蠢く青い生命の気配だけが、やけにリアルに感じられた。


 ああ、完璧だ。これで、この子は永遠に私のもの。

 私の秘密の場所で、私の形を覚え、私だけのために存在し続ける。

 夜の女王の戴冠式は、今、ここに、滞りなく完了したのだ。

 私の王国は、私の体の中に、永遠に築かれたのだから。

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粘性至高 Vii @kinokok447

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