しこめ
くまたろー
婚姻
第1話 作家未満
今日も新聞の一面は、盛んに満州の情勢についてあれこれ取り上げている。その記事を斜め読みするのにも飽きて、私は新聞を畳の上に投げ出した。
鏡台に向かって化粧をしていた女が、思い出したようにこちらを振り返る。女は芸者としての名を幾松といった。私が父の秘書のようなことをして、後をついて回っていたとき、どこぞのお店のお座敷で知り合った女だ。一年前、父と喧嘩して家を飛び出したとき以来、私は幾松の元で暮らしている。何をするでもない、ヒモそのものの暮らしだ。しかし、幾松は私を追い出そうとはしない。理由を尋ねれば、年下の男に好かれているのはいい気分だからと答えが返ってきた。
「そういえば、先日、お座敷でお父さまの噂を小耳に挟みましたよ」
「うちの父の?」
「ええ、
「ああ、そう」
「おや、随分と冷たいこと。お前さまのお父上でしょうに。ご葬儀は終わったようですが、ご実家の方々は聖さんを探しているようですよ」
「私を? なぜ?」
「なぜって……聖さんは大事な息子じゃありませんか。家に戻ってほしいと思うのは、身内として自然な気持ちでしょうに」
そう言う幾松の顔は強張っていた。私は出ていってしまうのが不安なのかもしれない。そう気付いて、私は三味線を畳の上に放り出した。肌寒いからと洋服の上に羽織った幾松の着物の裾を引きずりながら歩いていく。幾松の前でひざまずき、私は背中から彼女を抱きしめた。
きつい白粉のにおいに、ほんの少し吐き気を覚える。
「家族が私に何の用があるんだか。家業の宿屋は弟が継いだ。私がいわゆるニスツタアで客商売に向かないことは、家の者は誰もが承知している」
「にすつ……? 何なの、それは?」
「独逸語で、遊び人という意味だよ」
「まぁ、あなた、独逸語ができるのね。すごいじゃない!」
「親父が、息子たちのことを教養のない成金の子と言われるのが嫌で、私たちを大学に行かせたのさ。だが、あれはまぁ、私たちのためというよりは親父自身の体面のためだろうね。いずれにせよ、私は親父の見込み外れで大学で小説と遊びだけ覚えてきた。「戻ったところで、私には居場所なんかないんだよ」
幾松の傍だけが私の居場所だと囁けば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。嘘ばっかりと言いながらも、満更でもない様子だ。
やがて、刻限になって支度をした幾松が家を出ていった。私はといえば、幾松の置いていった小遣いを掴んで、彼女の借家を後にする。出掛けた先は飲み屋だった。注文を済ませた私は、おもむろに原稿用紙を取り出す。ペンを走らせていると、店の給仕の娘・由衣が「今日も小説の執筆ですか?」と言いながら、料理を運んできた。私は彼女に曖昧に微笑んでみせる。先ほどから、ペン先は原稿用紙の上でさまようばかり。まったく進まない小説を前に、思い出すのは父のことだ。
一年前、私はすべてが嫌になって家を飛び出した。きっかけになる出来事があるにはあった。だが、それ以前から自分には客商売は向いていないと感じていたのも確かだ。宿屋の主としてお客を相手にしたり、従業員に指示を出したりするより、もっとやりたいことがあった。
小説家になりたいと考えていたのだ。
そんな私の夢を、父はいつも否定した。『お前のような性根の座らない男には、筆一本で食べていくことなどできまい』と。そんな父につくづく嫌気がさして、家を飛び出したのだと言ってもいい。
家を出たとき、私は本当に夢を叶えるつもりで幾松の元に転がり込んだ。けれど、そう簡単にはいかなかった。長い間、温めつづけていた小説を出版社に送ったが、色よい返事が来なかったのである。以来、私は小説を書くことが怖くなった。また自分の作品が評価されなかったらと思うと、どうしても筆が進まないのである。
新しい小説は一向に完成しない。それでも、幾松はいつか私が小説家になると信じている。彼女が私に小遣いを渡し、ヒモのような暮らしを許しているのも、そのためだろう。私は幾松に夢を見せてやっているというわけだ。いつか、小説家の妻になれるという夢を。
運ばれてきた料理を平らげ、執筆に戻る。しばらく原稿用紙に文字を書き連ねているうちに、時間は過ぎていった。店の客足は絶えないが、満席になるほどでもない。そういう店を選んで長居させてもらっている。
やがて、店の終業時刻が近づいてきたところで、私は会計をして店を出た。と、ガラリと引き戸を開けて、私を追ってくる足音が聞こえてきた。振り返れば、給仕の由衣が立っている。
「聖治さん、待ってください」由衣は体当たりするかのように抱きついてきた。「私、今日はもう仕事終わりなんです。少し待っていてくださったら、一緒に帰れます」
由衣に熱っぽい目で見られて、私はドキリとした。が、すぐに怯む気持がこみ上げてくる。私は以前、父にはさんざん男として情けないと罵倒されたものだ。幾松といい由衣といい、いったい私のどこがいいのだろう。私は傍から見ていても、私は世間で模範的とされる男の理想像からはかけ離れているだろうに。理解不能だ。もっとも、幾松の好意にすっかり甘えている私が言えた義理ではないが。
「今日は少し用があるから」
そんな言い訳をして、私は由衣に背を向けた。由衣は諦めて店に戻ったらしい。ガラガラと引き戸を閉める音が背中にぶつかる。
私は静かに息を吐いて、家に着こうとした。
そのときだ。
「聖治」
低い女の声が響く。私はハッとして声のした方を振り返った。そこには着物を着た小柄な老女が立っている。その老女を私は知っていた。
私の母親だ。
母は両脇に体格のいい若者を二人、従えていた。うちの宿の下働きか何かだろうか。思い出そうとしたが、彼らの顔に見覚えはない。
「母さん……。なぜここが?」
「探偵を雇ったんですよ。お父様が亡くなったというのに、お前は家に寄りつきもしないから」
「私は家を捨てたんだ。もう戻らない」
「いいえ。戻ってきなさい。探偵の調べでは、お前は家を出てから一度、出版社に小説の原稿を持ち込んだけれど評価はされなかったと言うではありませんか」
「そんなことまで調べたのか」
私は薄気味悪さを感じた。しかし、母は構わず続ける。
「お前に小説の才能はないのだから、さっさと諦めてまっとうに働くのが身のためですよ」
「父の跡はもう弟が継いだじゃないか。私はもういいだろう……! 放っておいてくれ!」
そう叫んで私は身を翻した。夜道を走って逃げようとする。と、そのとき母が両脇の若者たちに「頼みましたよ」と声を掛けた。振り返れば、若者たちが風のように駆けてくるのが見える。
私は全力で走った。しかし、すぐに若者たちに取り押さえられてしまう。地面に押さえつけられて、暴れてもびくともしない。もがく私の前に母がゆっくり近づいてきた。
その母を見上げて、私は叫ぶ。
「なぜだ!? あの家に私の居場所はないのに、どうしてそっとしておいてくれないんだ!?」
「どうしてもお前が必要なんですよ、聖治」
「私が必要だって? そんなのは私を連れ戻すための嘘だろう!」
「いいえ、本当です。嘘だと思うなら、戻ってきて確認すればいい」
「信じられるわけがない……」
なおも私が言うと、母はため息を吐いた。私を取り押さえる若者たちに向かって、声を掛ける。
「仕方ありません。探偵さんたち、聖治を殴っても構わないから、大人しくさせてください」
母がそう言った直後、私は首筋に衝撃を感じた。意識が急速に遠のいて、何も分からなくなる――。
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