月輝晃の短編集

月輝晃

第1話「手が羽の先になった男」

 ある日、男が目を覚ますと、両手が羽になっていた。

 32歳、独身、平凡な会社員。いつも通りの朝のはずだった。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、寝室を柔らかく照らしている。 ベッドから起き上がり、いつものように腕を伸ばして欠伸をしようとした瞬間、何か異様な感覚に襲われた。両腕が軽い。妙に軽い。そして、指先がどこにも感じられない。


「ん?」


 男は目をこすろうとしたが、そこにあったのは手ではなく、黒々とした鳥の羽だった。長さは腕の長さと同じくらい、滑らかで光沢のある羽根が、まるでカラスの翼のように広がっている。指はない。手首もない。ただ、ふさふさと広がる羽が両腕の先に広がっているだけだ。


「は!? 何!? 何これ!?」


 驚愕のあまり、男はベッドから飛び起き、羽をバタバタと動かした。すると、部屋の空気が揺れ、枕がベッドから滑り落ちた。羽は確かに力強い。風を起こせるほどだ。でも、男の頭の中は混乱でいっぱいだった。


「落ち着け、落ち着け……夢だろ? 夢に決まってる!」


 男は目を閉じ、深呼吸を繰り返した。そして恐る恐る目を開けた。羽はまだそこにあった。黒く、堂々と、まるで彼の腕の一部であるかのように。


「うそ……マジかよ……」


 男はしばらく呆然と立ち尽くした。時計を見ると、朝7時。いつもなら朝食を済ませ、出勤の準備を始める時間だ。しかし、今日はそんな気分になれなかった。いや、気分以前に、羽の手でどうやって朝食を作ればいいのか、まるで見当がつかなかった。


 ひとまず、男はキッチンへ向かった。腹が減っているのは事実だった。いつもならトーストに目玉焼き、インスタントの味噌汁というシンプルな朝食を用意する。冷蔵庫の前に立ち、健太は最初の試練に直面した。冷蔵庫のドアを開けることだ。


「よし、できる。できるはずだ。」


 男は右の羽を冷蔵庫の取っ手に引っ掛けようとした。だが、羽は滑らかで、取っ手を掴むどころか、ただ表面を撫でるだけ。力を込めると、羽が取っ手に引っかかり、ギギッと不快な音がした。


「うわっ、痛っ!」


 羽の根元に軽い痛みが走った。どうやら羽はただの飾りではなく、彼の神経と繋がっているらしい。男は焦りながらも、なんとか羽を曲げ、取っ手を挟むようにして引っ張った。ガタンと音を立てて、冷蔵庫のドアが開いた。


「よし! いけた!」


 小さな勝利に喜んだのも束の間、次の問題が待っていた。卵を取り出すことだ。冷蔵庫のドアポケットに並んだ卵は、健太にとって今や難攻不落の要塞のようだった。羽で卵を掴むのは不可能に思えた。


「いや、待てよ。羽で……こうやって……」


 男は羽を広げ、卵をそっと挟むようにしてみた。だが、力加減がわからず、卵がポケットから滑り落ち、床に落ちて割れた。


「うわああ! やっちまった!」


 黄色い黄身が床に広がり、男は頭を抱えた。いや、抱えようとしたが、羽ではそれもままならない。仕方なく、男は残りの卵を諦め、パンだけでも焼こうと決めた。


 食パン一斤はキッチンカウンターの上に置いてあった。男は羽でパンの袋を押さえ、なんとか一枚を取り出そうとした。だが、袋の口を結ぶプラスチックのクリップが、羽の手にはまるで悪魔の仕業のように扱いづらい。羽を器用に動かし、クリップを外そうと試みたが、袋ごとパンがカウンターから滑り落ちた。


「もう、ふざけんなよ!」


 男は叫びながら、床に落ちたパン袋を羽で拾おうとした。だが、羽は物を掴むようにはできていない。パンの袋は滑り、男の動きに合わせてキッチンの床を転がった。


「はぁ……はぁ……落ち着け。俺はやれる。やれるんだ。Yes I can't!……違うcan」


 男は自分を励ましながら、なんとか羽の先で袋を押さえつけ、口を広げた。パンを一枚、羽でそっと挟み、なんとか取り出した。パンには羽の跡がついていたが、そんなことはもうどうでもよかった。


 次はトースターだ。トースターのスロットにパンを入れるのは、意外にも簡単だった。羽でパンを軽く挟み、スロットに滑り込ませる。だが、問題はトースターのスイッチだった。レバーを下げるには、羽でうまく押さなければならない。


「よし、こうだ!」


 男は羽を広げ、レバーを押し下げようとした。だが、羽がレバーに引っかかり、トースターごとカウンターの端にずれてしまった。


「くそっ、なんでこんなことに!」


 何度か試みた末、男は羽の先でレバーを引っ掛け、なんとか押し下げた。トースターが動き出し、パンが焼ける香ばしい匂いがキッチンに広がった。


「ふぅ……やっとここまでか。」


 男は一息ついたが、戦いはまだ終わっていなかった。焼けたトーストを取り出し、食べるという最大の試練が待っていた。トーストが焼き上がり、ポンと跳ね上がる。男は羽でトーストを掴もうとしたが、熱々のトーストに触れ、思わず羽を引っ込めた。


「熱っ! 熱いって!」


 羽は熱に弱いのか、じんじんと痛みが走った。仕方なく、トーストを冷ますために放置し、その間にバターを塗る準備を始めた。バターは冷蔵庫の中で、プラスチックの容器に入っている。


 男は再び冷蔵庫のドアを開け、バター容器を羽で挟もうとした。だが、容器は滑り、冷蔵庫の棚から落ちそうになった。


「頼む、落ちないでくれ!」


 男は必死に羽を動かし、容器をなんとかキャッチした。だが、容器の蓋を開けるのはまた別の苦労だった。羽では蓋をしっかり掴めず、何度も滑ってしまう。


「もういい! バターなしで食う!」


 男は苛立ちながらも、トーストが冷めるのを待った。ようやくトーストが食べられる温度になり、羽でトーストを挟み、口元に持っていった。だが、羽は物をしっかり保持するようにはできていない。トーストは途中で滑り、膝の上に落ちた。


「もう……何なんだよ、これ……」


 男は疲れ果て、トーストを床に放置したまま、キッチンの椅子に座り込んだ。時計を見ると、8時を過ぎていた。いつもなら家を出ている時間だ。だが、今日は出勤どころではなかった。


 男は羽を見つめた。黒く、力強い羽。飛べるのかもしれない。だが、そんな好奇心すら湧かなかった。ただ、腹が減り、疲れ、苛立っていた。


「どうすりゃいいんだ……」


 男は呟きながら、羽をそっと動かした。風が起こり、キッチンの空気が揺れた。窓の外では、朝の街がいつものように動き始めていた。だが、男の朝は、羽の手によって完全に狂わされていた。


 朝食を終えるどころか、満足に食べることすらできなかった男は、ひとまず羽と向き合うことを決めた。この羽が何なのか、なぜこうなったのか、答えを見つけるために。だが、その前に、せめてコーヒーくらいは飲みたい。そう思った男は、再びキッチンで新たな戦いを始めた。


(終)

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