第77話 竜の半神、街を歩く
――日曜の昼下がりの東京・神楽坂。
春の陽気が残る坂道の途中、石畳のカフェテラスに、きらりと光が落ちた。
次の瞬間、そこにふわりと降り立ったのは銀色の小さな影。
白銀の毛並みと尾を優雅に揺らすその姿は、まるで絵本の中から抜け出したようだった。湯気を立てるマグカップを覗き込み、ふわふわの毛をわずかに震わせる。
『……ふむ、これは“抹茶ラテ”というやつか。甘い匂いだな』
その体長、わずか三十センチ。
竜神リリカの“半身”にして、世界で最も安全な竜――ラギルである。
「ラギル様だ!」
「うわ、本物!?」
周囲の客がざわめいたが、むしろ笑顔が増えていく。
誰もがその存在を知っており、そして“恐れる必要がない”――それこそが竜神の半神だった。
通りに面したテラス席は、あっという間に小さな人だかりになった。
だがラギルは騒ぎにも動じず、店員に丁寧に頭を下げた。
『恐れ入るが、この飲み物を少し味見してもよいだろうか?』
「え、ええ! もちろんでございますっ!」
店員の青年はテンパりながらも笑顔でカップを差し出す。
ラギルは器用に両前足でそれを抱え、舌をちょん、とつけた。
ほんのひと舐め。
だが次の瞬間、その瞳が星のように輝いた。
『……なるほど。抹茶の苦味と乳成分の甘みが絶妙に調和している。
人間の味覚とは、かくも繊細で奥深いものか』
その言葉に店員が固まる。
次いで歓声と笑いが沸き起こった。
「“味の講評”してる!?」
笑い声があふれ、カフェの雰囲気は一気に和やかになった。
ラギルは満足げに頷くと、翼の下から小さなカードを取り出す。
『ふむ。莉理香からこれを預かっているのだが――これで支払いはできるか?』
空間から、緑色の無記名Suicaがするりと現れる。
「Suicaで買い物!?」
「キャッシュレス対応してんの!?」
テラスの客が総ツッコミを入れる。
だがラギルは気にせず、どこまでも優雅だった。
その様子を、通りの向かいから一人の子どもが見ていた。
手にはドーナツ。
まだ半分も食べていないそれを握りしめ、意を決して近づく。
金色の瞳が優しく細められた。
ラギルは首を少しかしげ、微笑むように尾を揺らした。
『それは“甘い揚げ菓子”だな。だが我は甘味を摂りすぎると眠くなるのだ。
代わりに君が食べるがよい。竜のかわりに、ゆっくり味わってな。』
「……ねむくなるの?」
『ああ。竜も人と同じだ。眠りの間に記憶を整理する。
食べ過ぎると、夢が混ざってしまうのだ』
子どもは目を丸くしたあと、ふっと笑った。
そしてドーナツを一口かじる。
その笑顔を見て、ラギルも満足げに頷いた。
『よい笑顔だ。甘味の魔法とは、こういうものだな』
人と竜の、ほんの短い対話。
それは周囲の空気をやさしく温めていった。
坂を下る途中、ラギルはふと足を止めた。
ペットショップの前で、一匹の黒柴がリードを引きながら吠えていた。
尻尾を激しく振り、飼い主の女性を困らせている。
『落ち着け、何をそんなに騒いでいるのだ?』
ラギルが近づくと、犬はピタリと黙った。
そして、首をかしげながら短く鳴く。
ラギルはしばし見つめ返し、やがて小さくため息をついた。
『なるほど、そういうことか』
竜は飼い主の女性を見上げ、落ち着いた声で言う。
『この子はな、“おやつ”が少なすぎるのを不満に思っておる。
それと、そろそろ夏毛に換わる時期だ。今のブラシが柔らかすぎて、
毛並みが落ち着かんらしい。だからそこのショップに寄りたいのだと』
「……そんなこと、言ってたの?」
『ああ。感触の違和感があると嘆いておる。
人の言葉を持たぬが、心は正直だ』
黒柴は尻尾を振りながら、まるで「そう、それ!」と言いたげに跳ねた。
女性は思わず笑い、頬を押さえる。
「ありがとう、ラギルくん。言われなきゃ気づかなかったわ」
『礼には及ばぬ。言葉を持つ者が、代わりに伝えるのは当然のことだ。
それが“通訳者”の役割というものだろうさ』
そう言って尾を一振り。
黒柴は満足げに鳴き、女性の足もとに寄り添った。
穏やかな風が吹き抜け、通行人たちが携帯を構えはじめる。
「え、これラギル様!?」
「ほんとに会話してる……!」
数分後、SNSには新たなタグが生まれた。
《#竜神のペット相談所》
その動画は瞬く間に拡散され、
“東京の街で一番優しい竜”がまた一つ、伝説を増やした。
――その夜、ラギル本人のアカウントに、短い投稿が残された。
《ほどほどにな。竜も休みたい時はある》
その投稿からは、どこか照れくさそうな竜の顔が見える気がした。
***
――夜の繁華街。
金曜の夜、東京の裏通り。笑い声、エンジン音、そしてわずかに漂う酒の匂い――そのすべてが人間の営みを象徴するようだった。
そんな喧騒の片隅で、銀の毛並みを持つ小さな影が路地の入口に立っていた。
街灯の光が反射して、白金のように輝く。
『何か匂うな……』
ラギルの金色の瞳が夜の闇を細かくなぞる。
人には届かない音――擦れる靴の音、金属のぶつかる高音、息を飲む音。
夜の空気の中に、不自然な緊張が漂っていた。
次の瞬間。
狭い路地を歩いていた女性の肩を、若い男がすれ違いざまに押しのけ、バッグを奪い取った。
「――きゃあっ!」
悲鳴が夜を切り裂く。
男はそのまま路地を駆け抜け、薄暗い街角に消えた。
『……なるほど、匂いの正体はこれか』
ラギルは小さく息を吐いた。
近くにいたサラリーマンが驚きの声を上げる。
「な、なにあれ……竜?」
『警察は呼んだか?』
突然話しかけられた男は一瞬たじろいだが、すぐにスマートフォンを掲げて見せた。
「あ、ああ! 今通報しました!」
『では、警察が到着するまでに――我にできることをしよう』
ラギルは瞳を細め、静かに意識を広げた。
銀の光がひと筋、夜気の中で揺れる。
その光は逃走した男の足跡をなぞり、淡く尾を引いて路地の奥へと消えた。
それは、竜の“目印”――人には見えず、監視カメラにも映らないが、確かに存在する導線だった。
ラギルは静かに女性へと歩み寄り、柔らかな声で語りかけた。
『怪我はないか? 安心するがよい。犯人には“紐”をつけた。
間もなく見つかる。』
女性は震えながらも頷く。
周囲の人々もようやく落ち着きを取り戻し、通報の確認や事情の聞き取りを始めた。
ラギルは中華料理屋の店主のほうを振り返った。
『店主殿、君は今の場面を見たな? どの角度から、どんな服装だった?』
「え、あ、ああ……! 黒っぽいパーカーで、あっちの角から――」
『ふむ、感謝する。その先に防犯カメラがあったな』
ラギルが空を見上げると、街灯の光が彼の銀の羽を反射し、周囲が一瞬静まり返った。
『逃げた男には“目印”を残しておいた。
警官が来たら、それを伝えれば、きっと追跡が早くなるだろうさ』
屋台の灯りに照らされたラギルの横顔は、どこか誇り高く、それでいて穏やかだった。
その姿に、誰もが息をのむ。
――ラギルの力をもってすれば、犯人など一瞬で捕まえられる。
しかし彼はそれを積極的には行わないことを選んだ。
莉理香に無断で行動するリスクもあるが、あくまで法と人の手を尊重する。
それが、桐嶋莉理香の考え方であり、彼自身の誇りでもあった。
『過剰な力で秩序を乱してはならない。人の為せることであれば補助をすることが望ましい』
やがて遠くから、サイレンの音が響いた。
赤と青の光が路地を照らし、制服姿の警官たちが駆け寄る。
「――現場はここか!」
ラギルは翼をたたみ、警官の前に出て小さく頭を下げた。
『犯人には“目印”を残しておいたぞ』
警官は一瞬固まったが、すぐに真剣な眼差しで頷いた。
「了解しました。……具体的に、どんな“目印”です?」
『光の軌跡をこの場から犯人に繋いでいる。精霊術に詳しい者なら察知できよう。
人の手で十分辿れる範囲であるよ』
簡潔な説明だった。
警官は無線に指示を飛ばし、周囲の捜索を開始する。
そして十五分後――ラギルの示した通り、光の先の公園で犯人は無事確保された。
女性は救急車に乗る前、何度も振り返って手を振った。
ラギルは軽く翼を広げ、静かに一礼を返した。
この“竜神の一部が現場対応”という前代未聞の出来事は、ネット上で熱狂と議論を巻き起こした。
中でも話題になったのは、行為責任の所在だった。
行政は、「この場合、行為者はラギル本人か、それとも桐嶋莉理香か」という問題について大真面目に協議した。
結果、現実的な結論はひとつ。
――法的にはグレーだが、運用上は「莉理香に付随」。
ただし「行為の主体はラギル本人」と明記する。
この“折衷案”は、前例のない存在に対して人間社会がようやく見つけた、ぎりぎりの落としどころだった。
報道番組のキャスターが苦笑混じりに言う。
「――竜の善行は歓迎。正直、“止められないから好きにやって”が本音でしょうね」
スタジオの隣で、経済アナリストが肩をすくめる。
「ただ、気になるのは“社会的地位”ですよ。
ラギル氏は銀行口座を持てない。
クレジットカードも作れないし、税法上の扱いも曖昧です。
報酬がすべて桐嶋莉理香氏の名義で処理されるのは、さすがに不公平では?」
司会者が笑いをこらえきれずに返す。
「まあ……竜が給与振り込みのためにマイナンバーカードを作るのも変な話ですけどね」
《#竜にも権利を》
《#口座を作れない竜の副官》
《#無記名Suicaだけじゃ生活できない》
SNSのタイムラインでは、竜の経済的権利が真剣に論じられはじめる。
ある弁護士は匿名掲示板にこう書き込んだ。
「彼は“意識体”であり、“物理的な存在を持つが法的人格を持たない存在”です。
つまり、現行法上は法人格も個人資格も与えられない。
だが、実質的には社会貢献活動を行っている――なら、準公的な基金口座を代理で設けるべきでは?」
それに対して、政府関係者のコメントも続く。
「現時点で、竜個体に公的金融口座を与える法的根拠はありません。
しかし、桐嶋氏の名義を通じた報酬管理は適正と判断しています」
けれど、誰もが薄々感じていた。
――この問題は、単にお金の話ではない。
“人と竜”が同じ社会の中で働き、支え合うために、どこまで「人間のルール」を拡張できるのか。
ラギル自身は、そうした論争をよそに、夜の屋上で星を見上げていた。
小さな翼を揺らしながら、ぽつりと呟く。
『……口座がないと、甘味も自由に買えぬのだ。まったく、不便なものよ』
そのぼやきがSNSに転載され、翌朝にはまた新しいタグが生まれていた。
《#竜神にもデビットカードを》
《#小竜だけど経済的自立を》
笑いと議論の渦の中で、人々は少しずつ、
“共に生きる存在”としての竜の形を模索しはじめていた。
***
深夜。救護課の屋上。
風が静かに吹き抜け、街の灯りが遠くで瞬いている。
ラギルはひとり、手すりの上に腰を下ろし、夜空を仰いだ。
胸の奥に広がるのは、疲労ではなく、温かな満足感。
『……我は力を見せつけるために在るのではない。
共に生きるために、ここに在るのだ』
その言葉は誰にも届かない。
けれども、星明かりの中に、確かに静かな誇りとして残った。
街の灯が穏やかに瞬く。
人の笑い声がどこからか微かに届く。
『――莉理香。お前の守っている世界は、悪くないな』
小さく呟き、ラギルは翼を広げた。
銀の羽が風を捕らえ、宙へと浮かぶ。
夜空をゆるやかに旋回しながら、彼は下界を見下ろす。
光と喧騒、そして人の優しさが満ちる世界。
――この“共にある世界”という奇跡を、もう少し眺めていよう。
そう思いながら、ラギルは静かに、星々の海へと飛翔した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます