第5話 残された世代

 午後3時42分。

 久留米悠真は、インフラ警備会社〈ライン・ガード〉の資材庫で、棚の最下段に腕を突っ込んでいた。ゴム手袋の指先が古い薄紙に触れ、乾いた感触が爪の脇を擦る。引き出すと、小さな封筒が2つ。黄ばんだままの文字で「封緘シール(旧)」「三角頭ビット」と記されている。


「在庫、まだ生きてたか」

 独り言に、背後から若い隊員が顔を出した。「それ、使う現場あるんですか?」

「ないのが普通だ」久留米は封筒を軽く振った。「けど、今日は“普通じゃない”」


 軍手を外し、事務机で納入伝票をめくる。封緘シールは6年前、解体業者の倉庫から一括買取。出荷履歴はゼロ。三角頭ビットは“古規格対応”として時々売れた形跡があるが、直近1年は動きなし。

 ただ、伝票の端に、ボールペンで書いた自分の走り書きが残っていた。《問合せ:室井工具(港北) 旧封緘 在庫》

 久留米はスマートフォンを取り、短縮ダイヤルを押す。


「――室井です」

「久留米だ。旧い封緘、まだ持ってるか」

「あるにはあるが、出せる枚数は少ねぇ。つい先週、まとめて持ってった奴がいてよ。珍しいと思ったぜ」

「どこの現場?」

「現場じゃねぇ。個人名。——“くろだ いわお”」

 久留米は短く息を飲み、メモの角を指で押さえた。「領収書、控えは」

「ある。番号は後で送る。お前んとこに貸しができたな」

「助かる」


 通話を切ると同時に、会社の内線が鳴る。久我からだった。

『麹町の入口で粉と三角穴、確認。市からは“逆止弁の癖”の指摘。こちらは北東翼で張る。——君はどう動ける』

「第七配水分岐場に行く。旧い逆止弁が残ってる」

『鍵は?』

「持ってるさ。昔はそこの巡回が俺の担当だった」


 午後4時17分。

 第七配水分岐場は、川沿いの桜並木の下に口を開けていた。地表に覗くのは腰高の鉄扉と、低い換気塔が2本。建屋はない。都市の皮膚の、目立たないほくろのような存在。

 久留米は腰のキーリングから、黒ずんだ真鍮のキーを選び、錠に差した。鈍い音で回る。扉が数ミリだけ浮き、内側から冷たい空気が顔に当たった。


 中は薄暗い。LEDライトを口に咥え、鉄階段を下りる。床は乾いているが、壁際に黄色い粉が薄く溜まっている。指で触れると、紙のように軽く、爪にわずかに残る。

 逆止弁の列に近づく。どれも古い鋳鉄製で、バルブハンドルの塗装が剝げ、地金がところどころ露出している。

 ひとつ、封緘シールが新しいものに貼り替えられていた。紙質が違う。角が丸い。貼り直しの跡がかすかに残る。

「剝がして、また貼ったか」

 封緘の端に爪を入れ、裏から覗く。三角頭のねじ。光が反射して、最近触れた痕を示す微細な弧が見える。

 バルブ本体には、小さくチョークで「△1」と書かれていた。

 久留米は苦笑する。「わかりやすいな。——“1分”の三角」


 耳を澄ます。遠くで水が走る音がする。ポンプの低い唸りは無い。ここは単なる分岐の入口で、圧は上流側の装置次第だ。

 1分のズレを作るなら、同期を切り、逆止弁の開度をごくわずかにいじり、圧力波を“遅らせる”。——それだけで、下流のセンサーは「時間」に誤差を持ち、記録は乱れる。

 入口で剝がした塗料は粉になり、排気で外に出る。黄色が外で見つかるのは、そのせいだ。


 階段を上がろうとした時、床に紙片があるのに気づいた。靴底に貼りついて剥がれたような薄い銀紙。

 拾い上げると、薄いミントの匂いが残っている。角が恣意的にちぎれている。

「ガム、まだ噛むのかよ」

 ぼそりと言葉が漏れた。

 黒田巌。現場の休憩中、必ずミント系のガムを半分だけ噛み、包み紙は四角から三角にちぎって、ポケットに戻した。理由を訊いたら、「四角いままだと、角がどこかに引っかかるから」と笑った。

 右足の外側が減る歩き方。真夏でも古い帆布のバッグ。封緘を剝がすとき、左手の親指を必ず保護テープで巻く癖。

 久留米は鼻先で笑い、目を閉じた。「生きてたか、黒田さん」


 外に出ると、夕立が近い匂いがした。風向きが少し変わり、川の匂いに金属の粉の冷たさが混じる。

 スマートフォンが震える。室井から、領収書の控えが画像で届いた。日付は1週間前。枚数は50。受取人欄には、やや癖のある筆圧の「黒田巌」。

 押印の形が少し欠けている。古い個人印によくある欠け方だ。

 久我に共有しながら、別の番号にかけた。

「古川さん。久留米です。黒田さん、最近見てませんか」

『見たよ。——古い配管の解体現場で、鋼管を撫でてた。仕事じゃない顔だった。話しかけたら、笑って“音を聴きに来た”って言ってた』

「音?」

『管の鳴り。入口で聴こえる“最初の音”だとよ。昔から変わらねぇ』

「……ありがとうございます」


 通話を切り、空を見上げる。雲の縁が緑がかっている。雨粒が大きいときの色だ。

 分岐場の鉄扉を再施錠し、首にかけたタオルで汗を拭う。

 そのとき、川べりの植栽の中で小さな光が揺れた。人影。身を潜める腕の角度。見慣れた足の運び。

 久留米は声を出さず、そちらに顔を向けもしなかった。身体だけをゆっくり車のほうへ動かし、ドアを開けるふりをして、バックミラーの角度を変える。

 鏡の中、植栽の隙間で、男がしゃがんでいる。帽子の庇。古びた帆布のバッグ。右足の外側が、少し傾いている。

 雨の第一滴がフロントガラスに落ちた。


 久留米はエンジンをかけ、ラジオの音量を上げた。

 スピーカーからニュースが流れる。——「都市の入口で発生した、一連の障害について——」。アナウンサーの声を遮るように、風が強まる。

 車の前を、植栽の影がかすめる。男は川沿いの遊歩道へ向かった。

 後を追うのは簡単だ。だが、ここは入口だ。追えば、儀式は破られる。破れば、次の“1分”は別の入口で作られる。

 彼がどこで、何を“聴く”のか。そっちのほうが重要だ。


 久留米は相手の進行方向に先回りする形で、川に沿ってゆっくり車を出した。雨は急に強くなり、ワイパーが早足になる。

 遊歩道の先に、小さな橋がある。橋の下には、古い排水の合流口が口を開けている。そこにも、三角穴の錠が残っていたはずだ。

 雨音に混じって、金属の擦れる、乾いた短い音が一度だけ響いた。

 久留米はアクセルから足を離し、ハザードを点けた。

 ミラーの中の男は、橋の影に消えた。


 ドアポケットから双眼鏡を取り出し、濡れた橋の裏面を覗く。合流口の脇に、手の形ほどの鉄扉。そこに、三角頭のねじ。

 帽子の庇の奥で、古い指がねじに触れた。親指には白いテープ。

 ねじは、ごく小さな音を立てて回った。

 雨脚がさらに強くなる。水の音に紛れ、都市の呼吸が加速する。


 久留米は無線を取り、短く送信した。「北東翼、入口の入口——接触。対象ひとり、灰色の帽子、帆布バッグ。右外側減り。儀式、開始」

 返ってくるのは、志摩の簡潔な声。「位置保持。圧の揺れ、監視中」

 伊吹の声が続く。「目は離すな。けど、手は出すな」

「了解」


 橋の下で、男がゆっくり顔を上げた。雨が庇から筋になって落ちる。こちらを見ない。見ないようにして、じっと聴いている。

 水の中を、何かが通り過ぎる音。

 都市の最初の1キロでしか響かない、低い共鳴。

 久留米は、昔の巡回で覚えた通称を、心の中で繰り返した。“始まりの音”。

 黒田巌は、それを聴きに来た。今日も。

 その音に、1分だけ手を加えるために。


 雨の幕が街を覆い、視界から色が抜ける。

 久留米は、ハンドルに置いた手に力を込め、ひとつだけ願った。

 ——入口が折れないこと。

 折れる前に、音の“微差”を止められること。

 そのために、ここに立っている。残された世代として。入口の鍵を、まだ知っている者として。

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