生きていく
なお
第1話
ある朝、僕は人生に絶望していた。
人は口々に「いつからでもやり直せる」と言う。けれど、その言葉はやり直す力を持つ者だけに与えられる祝福だ。僕にはもうその力も、選び直す余裕もない。
そういう現実を前にしてもなお、世間はきれいごとを僕の耳元で囁く——「まだ頑張れ」と。
僕はその声を振り払いたくなった。
そして気づけば、足は屋上への階段を上っていた。
しかしアスファルトの階段を上りきると、そこには予想外の光景が広がっていた。フェンスのそばに僕よりも少し年上であろう女性が腕を組み、誰かを待つかのように立っていたんだ。
彼女は僕を見つめ、沈黙を破るかのようにこう言い放った。
「待っていたよ、君のことを。」
心臓が一瞬強く跳ねた。足が地面に貼りついたように動かない。なぜ彼女は僕がここに来ることを知っていたのだろうか。
彼女は僕の困惑をよそに、落ち着いた声で続けた。
「私は琴音。——天界からやってきた者よ。」
淡々とした声。その言葉は、まるで古びた夢の断片のように私の耳に落ちた。
「…天界?」僕は無意識に繰り返す。
琴音さんは、少しだけ目を細めた。
「そう、天界。私たちは、君たちが思うほど遠い場所にはいない。特に…死を考える人間のすぐそばにいるのよ。」
精神が摩耗していたからか、そんな馬鹿げた話をすんなりと受け入れてしまった。
琴音さんは手すりに寄りかかり、遠くの街を見下ろした。その姿は僕と同じ高さに立っているのに、別の次元からこちらを覗いているように見えた。
「私は死んだ人たちと話す。そしてその人たちはみんな口を揃えて言うの「後悔している。」ってね」
「死んでから後悔?」
「そうよ。『あれをやっておけばよかった』とか、『もう一度あの場所へ行きたかった』とか。死は全てを閉ざすけれど、閉ざされた向こうで初めて気づくこともある。だから君にはそのフェンスの先には行ってほしくないの。」
僕は眉をひそめる。
琴音さんはすぐには話さずに僕の顔を見て、ゆっくりと息を吐いた。
「君が感じているのはきっと苦しみだよね。でも同時に、それはよく生きるための欲求でもある。苦しみは、その人が抱える問題を解決し、より良く生きたいという願望の裏返しだから。そして君もその心を持っていることを忘れないで。」
その声は、不思議な重みを持っていた。
僕は言葉を返そうとしたが、喉の奥が固く閉じたまま動かなかった。
琴音さんの言葉は僕を優しく包み、僕の全身を駆け巡った。
痛みとも安堵ともつかないその感覚が、しばらくのあいだ体の中を漂い続けた。
琴音さんは続けて語った。
「道徳や倫理は誰でも語れる。立派な言葉を並べて、人は簡単に「生きる意味」を説くことができるの。でも、君の本当の心は君だけのもので、私にも触れられない。だから私は、ただそばにいるだけ。」
僕は「ありがとう」とだけ残し、階段を駆け下りた。冷たい風が頬を打ち、息が荒くなる。
僕には何かを成し遂げる力があるのか分からない。大きな夢も、立派な肩書きも、拍手を浴びるような瞬間も、きっと手にすることはないだろう。
でも僕は今日、屋上で息を吸い、階段を降り、こうして地面を踏みしめた。
その一歩は誰かに褒められることもないが、確かに僕が選んだ歩みだ。
これからも、僕は小さな歩みを積み重ねていくだろう。
そしてその歩んできた道のりを僕だけが知っている。
迷った夜、立ち止まった朝、誰にも話せなかった小さな失敗や、心の奥で密かに温めていた願い。
その全部が、僕の指先や胸の奥にかすかな温もりとして残っている。
その温もりは確かに僕だけのものだ。
生きていく なお @nao_a
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