半分こ。

@yugo10

第1話 ——空白の世界

 昼下がりの光が、事務所の窓から斜めに差し込んでいた。


 藤丘湊は、デザインチームの主任として、自席で進行中の案件に目を凝らしていた。


 背後から声がした。


 「藤丘主任、ここの色、少し抑えたほうがいいですか?」


 新人の島崎がノートPCを抱えて立っている。


 画面には彩度の高い背景と白抜き文字。派手すぎてバランスが崩れていた。


 「……そうだな、彩度を一割落としてみろ。背景が柔らかくなって、文字が際立つはずだ」


 「なるほど……ありがとうございます!」


 島崎は安堵の笑みを見せ、自席へ戻っていった。


 湊はその背中を見送り、ふと自分の胸の奥に小さな空洞を感じる。


 ——指導する日々。静かで、波のない時間。


 それは「主任」としての責任を果たすには十分だったが、心の奥では、かつての熱を失った空白が横たわっていた。


 「——藤丘、島崎。ちょっと会議室に来てくれるか?」

 

 不意に課長の佐々木の声が響いた。二人同時に呼ばれるのは珍しい。


 会議室の机上には数枚の資料が置かれていた。


 舞台公演の宣伝資料。その表紙を見た瞬間、湊の胸がひやりと固まる。


 ——脚本・主演:結城 澄。


 その名前が視界に入った瞬間、頭の奥で、何かを強く叩かれたような衝撃。


 心の奥に空洞として眠っていたものが、突如として疼き始める。


 「次の案件なんだが、大きい舞台だから二人で担当してもらおうと思う」


 佐々木は淡々と告げた。


 「えっ、私がですか?」


 島崎は驚きと興奮を浮かべた。


 「そうだ。藤丘とならいい経験になるだろう」


 湊は言葉を失う。


 ――結城 澄、避け続けてきた名前だ。


 これまでも、意識して舞台関係の案件を避けてきた。


 それでも——澄の名は、避けきれない形で目の前に置かれている。


 そのとき、佐々木がじっと湊の表情を見て眉をひそめた。


 「……どうした、藤丘。大丈夫か?」


 「……はい。問題ありません」


 湊は即座に答えたが、声はかすかに掠れていた。


 自分の動揺を悟られまいとするほど、胸の奥の空白は深く疼いていった。

 

 会議室を出ると、湊はそのまま休憩スペースに足を向けた。


 紙コップにコーヒーを注ぎ、カウンター席に腰を下ろす。


 少し遅れて島崎もやってきて、缶コーヒーを開けた。


 「いやあ……すごいっすね、今回の案件!」


 島崎が声を弾ませる。


 「俺、正直ミーハーかもしれないですけど、結城澄って名前見たとき鳥肌立ちました。大学のとき舞台のDVD観て、めちゃくちゃ憧れてたんですよ」


 湊の胸が、わずかに軋む。


 紙コップを持つ指先に、無意識に力がこもる。


 「……そうか」


 努めて淡々と返す。


 「はい! 俺、演劇は全然わからないですけど、あの人の舞台は素人でもすごいって思うくらい迫力あって……しかも今回は脚本まで自分でやるんですよね? こんな有名な人のポスターに携われるなんて、ほんと光栄です!」


 島崎は純粋に興奮している。


 その笑顔に、嘘や打算はひとつもない。


 湊はわかっていた。——その無垢さに嫉妬する自分がいることも。


 「……責任重大だ。浮かれすぎるなよ」


 短く言うと、島崎は「はい!」と勢いよく頷いた。


 そのやり取りが終わったあと、湊は紙コップの残りを一気に飲み干す。


 熱さが喉を滑り落ちていくのに、胸の奥は冷えたままだった。

 

 少し間を置いて、湊は視線を島崎に戻した。


 「……島崎。先方との打ち合わせの日程調整お願いできるか。窓口に連絡して、候補日を三つほど押さえておいてくれ」


 「了解です!」島崎は缶コーヒーを片手に力強く頷いた。


 その真っ直ぐな声に、湊の胸の奥はまた小さく軋んだ。


 避けたかった名前を扱いながら、主任として後輩に指示を出している自分——その矛盾が、確かな重みとなってのしかかっていた。


 島崎が席を立ち、休憩スペースに静けさが戻る。


 湊は紙コップを握ったまま深く息を吐き、ポケットからスマホを取り出した。


 気を紛らわせるように検索サイトを開く。

 

 ——『結城澄、初の脚本・主演舞台を発表。来春公演決定』


 画面には、制作発表会でマイクを持つ澄の姿。


 以前と変わらない、その存在感。


 本文には、彼女のインタビューも引用されていた。


 「今回の舞台は、“声を持つことと失うこと”をテーマにしています。人は声を通して世界とつながり、同時に声を失うことで別のつながりを見つけることもある。観客の皆さんに、その両方を感じてもらえたら嬉しいです」


 湊の胸に、冷たい衝撃が走った。


 声——。その言葉が、眠らせてきた記憶を容赦なく刺激する。


 稽古場の隅で台本に書き込みをしていた彼女の横顔、紙に細い文字で「声」を刻んでいた日々が、瞬間的によみがえる。


 胸の空白が、音を立てて広がっていく。


 湊は視線を逸らそうとしたが、画面から目を離せなかった。


 (……また関わることになるなんて)


 スマホを伏せ、深く息を吐く。


 それでも心の奥に走った痛みは消えないまま、次の鼓動を待っていた。


 胸に広がるのは、長く見て見ぬふりをしてきた空白。


 ――その空白が、再び彼女の名によって揺さぶられ始める。

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