第6話 サマー・ゴールド〜坂がリズムを待っていた、夏の日の午後〜

蝉の声が電線を伝わり、坂の朝に溶け込んでいった。

今日は、カタリナ坂が音楽のためにだけ存在している一日になる。


御影坂上十番通り──通称、カタリナ坂。

その石畳に、今朝はケーブルと譜面台が散らばっている。


「おーい、港南モジャ研、通しリハ何時からだっけ!」


アロハシャツの中年男性が、坂の上から怒鳴る。


バタつくスタッフ、動かないスピーカー。音響の青年が汗を拭きながら、ミキサー卓に張りついている。


通りの花屋は開店前。


それでも、この坂は確かに、今日だけ音楽のためにある。


杉本リョウは、ピアノの脚をネジで留めながら、静かに深呼吸をした。


都立港南大学モダンジャズ研究会、二回生。二十歳。


学内の演奏会やライブバーのセッションには何度も出た。けれど、この坂で鍵盤に触れるのは初めてだった。


音楽が“聴くもの”だった子供の頃から、“鳴らすもの”になった今。

──同じ景色に、違う立ち位置で戻ってきた。


「リョウくん、こっちテンポ160でいくよ。」


テナー担当の先輩が手を振る。

リョウは短く頷いた。


楽器の音がまだ混ざり合わない午前中。


準備でごった返す坂を、1人の少女が歩いていた。日傘もささずに、Tシャツの袖をまくり上げている。歩幅が速いのに、視線だけはステージをちらちら見ている。


──あれ、地元の子かな。


ピアノカバーを外しかけたとき、不意に声が飛んできた。


「ジャズって、なんか自由すぎて苦手。」


振り返ると、さっきの少女だった。


制服でもない、私服でもない。

スカートに小さな楽器のキーホルダーが揺れていた。


「……そう?」


リョウは短く返す。気が利いたことは言えない。


「何考えてるかわかんない音って、怖いじゃん。」


「そうかな。言えないことが、音になるだけだよ。」


少女はきょとんとした顔をしてから、ふっと笑った。

そのまま、何も言わずに去っていく。 ただ、足音だけが妙に耳に残った。


リョウはピアノの鍵盤に手を置いた。金属の反射が、もう真昼の熱を帯びていた。

今日は、音でしか言えないことを、全部出してやる──そんな気分だった。



午後三時。

カタリナ坂の陽は、ちょうど照り返しの角度を変える。


リョウは商店街の中央、小さな特設ステージに立っていた。

周囲では、LUNAのスタッフがミントソーダを配り、Chat Noirのカフェ席は、既に満席。


軒先に吊るされた風鈴が、MCのマイクにかすかに混ざる。


「──都立港南大学モダンジャズ研究会より、『カタリナ・ブルース・カルテット』の皆さんです!」


拍手とともに、演奏が始まる。


1曲目は『Take Five』。


先輩のテナーサックスが柔らかく吹き抜けると、街の喧騒がほんの少し、音に引き寄せられたようだった。ドラムが加わり、ベースが重なり、坂道にリズムが根を張る。


リョウはピアノの鍵盤に触れると、指先から温度を確かめるように音を重ねた。街の景色が、ほんの少し遠のいていく。


──これが、この坂の音か。


2曲目のイントロが鳴り出す頃、視界の端に誰かの影が見えた。

日傘もないまま、通りの木陰に腰掛ける少女。あの時の、彼女だった。でも、目は合わない。けれど彼女の足は、リズムに合わせて、ほんの少しだけ揺れていた。


ラストは、リョウがアレンジした『My Favorite Things』。


少しだけテンポを落とし、コードの響きを深くした。メロディはそのままに、どこか祈るような音。


──言葉にしなかったことを、全部音にする。

──音にしなかったことは、きっと言葉にもできない。


最後の音が消えると、拍手と歓声が降ってきた。それでも、リョウは客席を見なかった。ただ、彼女の反応だけが気になっていた。


楽器を片付け、機材の裏手に回ったとき──


「ねぇ。」


不意に声をかけられた。振り返ると、彼女がそこにいた。缶ジュースを手に、少し汗ばんだ顔で立っている。


「…ピアノ、ちょっとズルいね。」


「は?」


「言わなくても、伝わっちゃう。あたし、そういうの苦手だったけど、今日だけは、うん。」


そう言って笑った彼女の目には、確かな湿り気があった。


「……クラリネット、まだ持ってるの?」


リョウの問いに、彼女は少しだけ口を閉じた。


「なんで、クラリネットの事、分かったの?」


「うん、そのキーホルダー。」


「実家にある。でも、今は……吹けない。色々あってさ。」


「そうか。」


短く返したあと、リョウは視線をそらす。


「でも、今日の音は好きだった。……また、どこかで、聴かせてね。」


少し俯いたまま、彼女はそう言って背を向けた。足音だけが、坂道の石畳に残った。



夕暮れが、街の輪郭をやわらかく染め始めていた。

ジャズフェスの熱気が通りを抜け、テントはたたまれ、スピーカーが運ばれていく。


Chat Noirの外席では、早くも夕暮れのビールを楽しむ声が聞こえ始めていた。


リョウは坂の上にある、KITANO GARDEN近くの石段に座っていた。


譜面と鉛筆。本番では使わなかったフレーズを、五線譜の余白に書き足していく。


──あの時、あと2小節、言いたいことがあったのにな。


ポケットからスマホを取り出すと、先輩からメッセージが届いていた。


「撤収終わり。お疲れー!また港南モジャ研でセッションしようぜ!」


それを閉じると、ふと、風の中に音が混じっているのに気づいた。


クラリネットの音だった。遠く、街のどこか。正確には聴こえない、けれど確かにあった。


どこかで、彼女が吹いているのかもしれない。

あるいは、彼女の記憶のなかで、音が少しだけ蘇っただけかもしれない。


それでも、いい。


誰かの心に、ほんの少し音が届いたのなら── 今日、この坂で弾いた意味があったと思える。リョウは譜面を閉じ、ペンを胸ポケットに差し込んだ。


坂の下では、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


「名前くらい、聞いとけばよかったな。」


苦笑いのように呟くと、夜の風が頬を撫でていった。あの夏の午後の、金色の光と音は、もうどこにもなかった。


けれど確かに、あの坂に。あの夏の午後、金色の音は確かに響いていた。



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