第3話 ルビー・チューズデー~記憶の香る午後~
五月の光が、坂の石畳に静かに揺れた。
曇り空を透かして届く光は、少し冷たかった。昨日の雨がまだ乾ききらず、カタリナ坂の石畳はしっとりと濡れている。
坂の中腹にある小さな店。扉の脇には、真鍮のプレートで「LUNA」とだけ刻まれていた。
都心から少し外れたこの街で、アンティーク香水瓶を専門に扱うセレクトショップ。取り扱う品も、内装も──すべてが、成瀬カナの目と手で選び抜かれたものだった。
元は広告代理店でキャリアを積み、次に転職したのは大手化粧品メーカーのマーケティング部門。数字にも、戦略にも強く、自分の価値には自信があった。
それでも、香水そのものよりも──気づけば「香りを留める瓶」のほうに、心が惹かれるようになっていた。
「LUNA」は彼女が立ち上げた新しいフィールドだった。ビジネスとして安定するように体制を整え、店番は信頼できるスタッフに任せる日が多い。
けれど今日は、なぜか自分で店に立ちたくなった。その理由は、うまく言葉にならなかったけれど。
午後の光が、斜めに店内へ差し込む。棚の奥に並ぶ香水瓶の中で、ひとつだけがふと光を返した。
マルーンでは重すぎて、バーミリオンには艶がありすぎる。ワインレッドは少し翳りが強い。
──そう、これはルビー。
澄んでいて、やわらかく、記憶の底に浮かぶような赤。その瓶にはラベルもブランド名もついていない。
数年前、年配の女性が「これは私の思い出なんです」と言って、そっと託していったものだった。
売ることも、手放すこともできないまま──棚の奥に、そっと残っている。
「……香水瓶って、正直なんですよ。」
ふと漏れた言葉に、自分でも少し驚く。
触れた記憶が、全部残ってしまう。ガラスは、そっと、それを閉じ込める。
扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代前半くらいの若い女性。
濡れた裾を気にしながら、ガラス棚の前に立つ。ふと手に取った一本を、光にかざした。
「……きれいですね」
彼女はぽつりと言った。
「アンティークって、どこかとても、懐かしい感じがして。」
「とても綺麗でしょう。香りは消える。でも、瓶はずっと残るのよ。」
カナは微笑んだ。
「誰かの記憶が、まだ揺れているかもしれないわね。」
若い女性は少し首を傾げたあと、微笑み返してきた。
その笑顔が、自分のかつてに重なった気がした。
あんなふうに、ただ「美しい」と言って、屈託も無く笑っていた時期が、確かにあった。
その後、彼女は何も買わずに「また来ます」と言って出ていった。
数分後、カナはスタッフに一言だけ声をかけて、扉を押した。
「少し出るわ。夕方には戻るから。」
トレイに並ぶ新入荷の瓶をちらりと見て、軽く頷いた。
喫茶シャノワールの前を通りかかったとき、若い男が扉を開けた。
その隙間から、くぐもったギターの音がこぼれる。
──Goodbye Ruby Tuesday…
誰が選曲したのかはわからない。でも、その旋律が耳に入ったとき、足が自然に止まった。
「……ルビー・チューズデーやわ。懐かしいな。」
カナは小さく呟き、また歩き出す。
もう、あの頃には戻れない。
それでも、自分で選んだ道は、確かにここへ続いていた。けれど、前へと進むことはできる。
香りが風に流れるように、記憶は背中からついてくるだけ。
カタリナ坂の屋根の上に、五月の光が少しずつ差し込み始めていた。
──次は、きっと、違う色の話。
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