第23話 神の声に狂いそうな神官

 百年を生きた大魔女が、少女の素直さを取り戻して去った夜。

 スナック「アニマ」には、過去の栄光という名の甘い呪いが解けた後の、すがすがしい空気が流れていた。


「素直になる、か」

 元勇者のカイが、どこか遠い目をして呟く。

「俺が一番失ったものかもしれんな」

 王国の英雄として、人々の期待という名の鎧を纏い続けた結果、彼は自分の本当の心を誰にも見せられなくなっていた。


「カイ様は、素直ですよ」

 生真面目な元騎士アストリッドが、きっぱりと言った。

「ただ、少しだけ、言葉が足りないだけで」

「…フン」

 カイは、アストリッドのまっすぐな瞳から逃れるように、酒を呷った。


 ママのルージュは、静かに彼らの魂の交錯を味わっている。

 この店は、彼女にとって最高の劇場だ。

 毎夜、最高の役者たちが、最高の脚本にもない、魂の即興劇を演じてくれる。


 ニャーン。

 猫の鳴き声が、新たな魂の入場を告げた。


 入ってきたのは、一人の神官だった。

 清廉な白亜の法衣に身を包み、その身からは敬虔な信仰のオーラが放たれている。

 だが、その表情は安らぎとは程遠かった。

 常に何かの声に耳をそばだてているかのように、落ち着きがなく、その瞳は恐怖と疲労で深く窪んでいる。


 神官はカウンターに座ると、祈るように両手を組んだ。

 だがその祈りは、神に向けられたものではなく、目の前にいる魔剣の化身に向けられた、悲痛な救いの叫びだった。


「お助けください…ママ殿」

 彼の声は、囁くようにか細かった。

「神の声が…止まないのです…!」


 彼の魂は、無数の声で飽和状態だった。

 様々な人々の祈り、願い、嘆き。

 そして、それら全てを天上で聞き届けている、巨大で、計り知れない存在の声。

 彼の魂は、その聖なる声の洪水に溺れかけていた。


「私の名は、ヴォクス」

 彼は、絞り出すように言った。

「私は、神に選ばれ、その御声を直接聞くという、栄誉にして呪いを授かった、哀れな神官です…」


「神の声を、直接…?」

 アストリッドが、畏敬の念に打たれたように息を呑む。

「なんと誉れ高いことでしょう!それは、神官にとって最高の栄誉では…!」


「栄誉、だと?」

 ヴォクスは、力なく笑った。

 その顔は、聖職者のそれではなく、不眠不休の拷問に耐え続けている罪人のようだった。


「これが、栄誉だと言うのか…」

 彼は、頭を抱えた。

「一日中、いや、一瞬たりとも、声が止むことはないのだ。『息子が病から癒えますように』という母親の祈り、『今年の豊作を感謝します』という農夫の声、『なぜ我々だけがこのような苦しみに』という戦災孤児の嘆き…」

「そして何より、それら全てを聞き届け、世界全体を憂う、神の、あの巨大な悲しみが、私の魂に直接流れ込んでくるのだ…!」

「もう、耐えられない。雑音と、神の嘆きで、私の魂は張り裂けそうだ…!」


 彼の苦しみは、本物だった。

 聖女セラは、民の感情を「映す鏡」だった。だが彼は、その感情の源である「声」を、濾過することなく直接受信してしまっているのだ。


「かわいそうに」

 レナが、カウンターに頬杖をつきながら、魔法科学的な見地から分析する。

「要するに、脳に直接干渉するタイプの精神感応(テレパシー)だね。おまけにチャンネルは神様専用、と。多分、受信機(あなたの魂)のボリューム調整機能が、ぶっ壊れちゃってるだけなんじゃないの?」

「壊れている…?」

「そう。だから、ノイズも本題も全部最大音量で聞こえちゃう。そりゃ、頭もおかしくなるって」


 レナの無遠慮な分析に、ヴォクスは希望の光を見たように顔を上げた。

「そ、それを治すことはできるのか!?」

「んー、専門外だけど。魂の回路をいじるのは結構デリケートな作業だし、下手にやると廃人になるよ?ま、私ならできるけど」

 レナは悪びれもせず、面倒くさそうに付け加えた。

「やる気ないから、やらないけどね」


「神も、絶対ではない」

 今まで黙っていたカイが、静かに言った。

「俺も、かつて神託とやらを授かったことがある。だが、それは時に人を惑わせ、道を誤らせる。神の声に、ただ従うだけが、信仰ではない」

 その言葉には、神の存在を認めながらも、それに盲従することを拒否する、強い意志が感じられた。


 ルージュは、静かにヴォクスの魂を味わっていた。

 なるほど。聖なる声で満たされすぎて、逆に枯渇しかけている魂。

 信仰という名の奔流に、ただ流されるだけの、舟のない魂。


「お客様」

 ルージュの声が、ヴォクスの疲弊しきった魂に、染み渡るように響いた。

「あなたは、ご自身のことを、ただの『受信機』だと思っていらっしゃるのね」


「受信機…?」

 ヴォクスは、ルージュの言葉の意味を測りかねて、戸惑った。


「そうよ」

 ルージュは微笑む。その微笑みは、彼の信仰のあり方そのものを、根本から問うているようだった。

「あなたは、ただ神の声が聞こえてくるのを、受身に待っているだけ。あまりに多くの声が聞こえてくることに、ただ耐えているだけ」


「ですが、それが神官の務めでは…」


「本当にそうかしら」

 ルージュの瞳が、妖しい光を放つ。

「神の声が大きすぎるのではないわ。あなたの信仰が、『聞くだけ』という、あまりにも一方通行なものだから、その声の洪水に、あなた自身の魂が溺れてしまっているだけよ」


 ヴォクスは、言葉を失った。

 そうだ。私は、ただ聞いてきただけだ。

 神が何を憂い、民が何を望んでいるのかを。

 そして、その声に右往左往してきただけだ。


 ルージュは、静かにカクテルを作り始めた。

 重厚なブランデーのボトルを取り出し、グラスに注ぐ。

 そして、アーモンドの甘い香りがする、アマレットを。


 グラスの中で、二つの液体が美しく混ざり合い、深く、そして甘い琥珀色のカクテルとなった。


「『ゴッドファーザー』」

 ルージュは、そのカクテルを、ヴォクスの目の前に差し出した。

「名付け親。あるいは、洗礼を授ける代父という意味を持つ、強く、そして甘い一杯よ」


 ヴォクスは、その威厳のある名前のカクテルを、ただ黙って見つめていた。


 ルージュは、悪魔のように優しく囁く。

「あなたは、神に選ばれた、特別な子供なのかもしれないわね」

「でも、いつまでもただ声が聞こえてくるのを待っているだけの、物分りのいい子供で、本当にいいのかしら?」

「本当の親子というものは、時には喧嘩もするでしょう?反発もするでしょう?」


「祈りとは、本来もっと能動的なものではないかしら」

「ただ聞くのではなく、あなたの方から、神に『問いかける』こと」

「時には、『それは違う』と反論すること」

「一方通行の受信ではなく、『対話』すること」


「それこそが、成熟した魂が持つべき、本当の信仰の姿ではないかしら」


 対話?

 私が、神と?

 そんな、大それたこと…。


 ヴォクスは、目の前のゴッドファーザーを見つめていた。

 名付け親。

 そうだ、神は私に、声を聞くという力を授けてくれた。

 だが、その使い方は、私自身に委ねられているのかもしれない。

 ただ溺れるのではなく、その声の奔流の中から、本当に救うべき声を選び出し、そして、時には神の真意を問い質す。

 それこそが、神が私に与えた、本当の試練なのではないか。


 彼は、震える手でグラスを掴んだ。

 そして、その琥珀色の液体を、ゆっくりと口に含む。

 ブランデーの芳醇な香りと、アマレットの濃厚な甘さ。

 それは、まるで、神の厳しさと、慈愛を、同時に味わっているかのようだった。


 飲み干した後、彼は空のグラスを、静かにカウンターに置いた。

 彼の顔には、もう疲労の色はなかった。

 あるのは、巨大な存在と対峙する覚悟を決めた、聖職者としての、静かで力強い表情。


 彼は席を立ち、ルージュに向かって深くお辞儀をした。

「ありがとう、ママ。私は、間違っていました」

 その声には、もう迷いはなかった。

「私は、ただの声の受信者ではない。神の、対話者となってきます」


 彼は、初めて、自分の内側、そして天に向かって、静かに、しかしはっきりと問いかけた。

『神よ。あなたは、本当は何を望み、私に、何を為してほしいのですか』

 その問いかけに、彼の頭の中に響いていた雑音の洪水が、すっと引いていくのを感じた。

 そして、その静寂の中に、一つの、温かく、そして明確な答えが、聞こえた気がした。


 彼は、穏やかな顔で店を去っていった。

 その背中は、来た時よりもずっと大きく、そして気高く見えた。


 残された店内。

 アストリッドが、感銘に打たれたように呟く。

「…彼ならきっと、真の聖職者になれますね」


 ルージュは、ヴォクスが残していった空のグラスを、愛おしそうに見つめていた。

 彼の魂が、依存の信仰から抜け出し、自立した魂として歩み始めたのを感じていた。

 それは、聖女セラとはまた違う、もう一つの魂の救済の形。


 そして、彼女はあなたに問いかける。

 見えない声に、縛られていないか。


「ねえ」

「あなたは、ただ流れてくる情報に、溺れてはいないかしら?」

「時には立ち止まり、あなた自身の魂で、世界に『問いかける』ことも、忘れないでね」

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