第15話 運び屋の幽霊
誇り高き竜が己の宿命を受け入れ去った夜。
スナック「アニマ」には、彼の残した灼熱の魂の残滓が、静かに漂っていた。
「血と砂、か」
元勇者のカイが、自分のグラスに残った赤い酒を見つめ、呟く。
「俺も、多くの血を流し、多くの砂を踏み越えてきた。その先にあったのが、この退屈な平和だと思うと、割に合わんものだ」
「あら、勇者様。平和が一番ですよ」
生真面目な元騎士アストリッドが、微笑んで言う。
「戦いのない日々こそ、私たちが目指すべき理想です」
「理想ねぇ。退屈は魂を殺すよ、お嬢ちゃん」
天才魔法使いのレナが、カウンターで退屈そうに爪を磨いている。
議論は、いつものように噛み合わない。
だが、その噛み合わなさこそが、この店の奇妙な調和を保っていた。
ママのルージュは、静かに彼らの言葉に耳を傾けている。
カイの渇きも、アストリッドの理想も、レナの退屈も、全てが彼女にとっては愛おしい魂のささやきだ。
そして、カウンターの隅。
いつもの席で、一人の男が黙って紫煙を燻らせていた。
運び屋、クロウ。
彼の過去は、誰よりも深い闇に包まれている。
彼の魂は、まるで錆びついた鉄のような匂いがする。
彼はいつも、この店の物語の、傍観者に徹していた。
だが、今宵。
彼こそが、物語の当事者となる運命だった。
店の空気が、すぅっと冷たくなった。
夏の夕暮れが、一瞬で真冬の夜になったかのような、急激な温度変化。
そして、カウンターの空席に、いつの間にか、一人の男が座っていた。
その身体は、向こう側が透けて見えるほど薄い。
幽霊だ。
男は、ぼんやりとした顔で店内を見回していた。
自分が死んだことすら、まだよく分かっていないのかもしれない。
だが、彼の視線が、カウンターの隅にいるクロウを捉えた、その瞬間。
その半透明の瞳が、驚愕に見開かれた。
「…クロウ?」
その声は、風の音のようにか細かった。
「お前…生きて、いたのか…?」
クロウの動きが、完全に止まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼が顔を上げる。
その目は、信じられないものを見るように、大きく見開かれていた。
いつも冷静沈着な、この男が浮かべたことのない表情。
「……ジン…?」
クロウの唇から、絞り出すような声が漏れた。
「お前こそ、なぜ…そんな姿で、ここにいる…」
「ジン、だと…?」
カイが、訝しげな声を上げる。
クロウが、あれほど動揺する姿を、彼は初めて見た。
半透明の男、ジンと名乗った幽霊は、悲しそうに微笑んだ。
「ああ、見ての通りだ、クロウ。俺は死んだ。しくじったんだよ、最後の仕事でな」
彼は、自分が死んだ経緯を語り始めた。
ジンもまた、クロウと同じ、次元を渡る運び屋だった。
ある日、彼は一つの依頼を受ける。
『とある組織に狙われている女性に、この小さなペンダントを届けてほしい』
簡単な仕事のはずだった。
「だが、それは罠だった。俺は待ち伏せに遭い、あっけなく殺された。このペンダントを、彼女に届けることもできずに…な」
ジンは、自分の半透明の胸元を、悔しそうに握りしめる。
「この心残りのせいで、俺は成仏できずに、こうして彷徨っているらしい」
「組織、だと?」
クロウの声が、低く鋭くなる。
「どんな奴らだ」
ジンは、そこで初めて、クロウ以外の人間がいることに気づいたように、店内を見回した。
そして、まるで古い友人に再会したかのように、馴れ馴れしく言った。
「なんだ、お前。こんなところで、新しい仲間と仲良くやってるのか。ずいぶん変わったな、クロウ」
その言葉には、チクリとした皮肉がこもっていた。
「俺が死んだあの時、お前はどこで何をしていた?俺たちの掟を破り、組織を裏切って、一人だけ逃げたと聞いたがな」
店の空気が、一気に険悪になった。
「裏切り…?」
アストリッドが、信じられないという顔でクロウを見る。
クロウは、何も答えなかった。
ただ、黙ってジンを睨みつけている。その目は、後悔と、怒りと、そしてどうしようもない悲しみに揺れていた。
「あなたたち、知り合いだったんですね」
ルージュが、静かに尋ねる。
ジンは、ルージュを見ると、少しだけ驚いた顔をした。
「ほう、これはこれは、美しいママさんだ。なるほど、クロウが骨抜きにされるわけだ」
彼は、軽薄に笑う。
「知り合い、なんてもんじゃないぜ、ママさん。俺とこいつは、かつて裏社会で最強のコンビと呼ばれた、ライバルであり、たった一人の親友だったのさ」
親友。
その言葉が、クロウの魂に深く突き刺さった。
ルージュは、二人の魂を、じっくりと味わっていた。
なるほど。同じ鉄の匂い。だが、片方は錆びつき、片方は熱を失っている。
二つで一つだった魂が、無理やり引き剥がされたような、痛々しい歪み。
「お客様」
ルージュの声が、ジンの軽薄な態度を、優しく遮った。
「あなたの魂は、とても悔しがっているわね。任務を失敗したことを?」
「ああ、そうだ。運び屋のプライドにかけて、引き受けた荷物は必ず届けなければならなかった…!」
「いいえ」
ルージュは、静かに首を振る。
その瞳は、ジンの虚勢の奥にある、本当の心残りを見抜いていた。
「あなたが本当に悔やんでいるのは、荷物を届けられなかったことじゃないわ」
「その依頼主の女性に、あなたの『無様な死に様』を見られてしまった。そして、彼女の前で、かっこよく任務を完了できなかった」
「あなたのちっぽけなプライドが、成仏を邪魔しているだけよ」
ジンの動きが、止まった。
彼の半透明の顔が、驚愕に歪む。
「な…なぜ、それを…」
ルージュは続ける。
「あなた、その依頼主の女性に、想いを寄せていたのでしょう?」
「だから、いつもの慎重さを欠いて、無茶をした。いいところを見せようとして、罠に嵌った」
「任務の失敗を悔いているんじゃないわ。恋に敗れ、無様に死んだ、惨めな自分自身を、あなたが一番許せないでいるだけ」
「黙れ…!」
ジンは叫んだ。
全てを、暴かれてしまった。
そうだ。俺は、あの人のことが好きだった。
彼女を守るためなら、命も惜しくないと思っていた。
だから、たった一人で敵地に乗り込んだ。
そして、無様に殺された。
彼女の目の前で。
「最低の死に様だ…」
ジンは、頭を抱えた。
「こんな姿で、彼女の前に現れるわけにはいかない…かといって、このまま消えることもできん…。俺は、どうすれば…」
ルージュは、そんな彼の魂の慟哭を、満足そうに味わっていた。
そして、静かにカクテルを作り始める。
グラスに、ガリアーノとホワイト・カカオリキュール、そして生クリームを、そっとフロートさせていく。
三つの層が、美しくグラスの中で分かれた。
「『ゴースト』」
ルージュは、そのカクテルを、ジンの目の前に差し出した。
「白い幽霊。まさに、今のあなたのためのカクテルよ」
ジンは、その白いカクテルを、ただ黙って見つめていた。
ルージュは、悪魔のように優しく囁く。
「任務の失敗は、恥じゃないわ。恋に敗れるのも、恥じゃない。無様に死ぬことだって、恥じゃない」
「でも、自分の魂にまで嘘をつき続けるのは、何よりも醜いことよ」
「さあ、どうするの?そのくだらないプライドを、ここで飲み干していく?」
ゴースト。
幽霊。俺自身か。
ジンは、目の前の白い液体を見つめていた。
プライド。そうだ、俺は、ただの意地で、この世に縛り付けられていただけなのかもしれない。
彼は、クロウを見た。
昔と何も変わらない、仏頂面の親友。
こいつなら、どうするだろうか。
その時、今まで黙っていたクロウが、重い口を開いた。
彼の声は、低く、そしてどこまでも不器用だった。
「…その荷物」
「俺が代わりに、届けてやる」
ジンの目が、大きく見開かれた。
「…クロウ?」
「だから、とっとと消えろ、間抜け」
クロウは、ジンの方を見ようともしない。
ただ、自分のグラスを見つめながら、吐き捨てるように言った。
「お前の心残りは、俺が片付けてやる。だから、もういい加減…安らかに眠りやがれ」
それは、彼なりの、最大限の友情の証だった。
ジンの半透明の身体が、ふわりと光を放ち始めた。
魂の呪縛が、解けていく。
彼は、満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、もう軽薄なものではなかった。
「…ははっ。やっぱり、お前には…一生、勝てねえな」
彼は、カイやアストリッド、そしてルージュに向かって、軽く頭を下げた。
「…世話になったな」
そして、最後に、クロウに向かって、昔のように悪戯っぽく笑った。
「じゃあな、相棒。達者でやれよ」
その言葉を最後に、ジンの身体は無数の光の粒となり、静かに、そして穏やかに消えていった。
残された店内。
アストリッドは、ハンカチで目元を押さえている。
レナは、少しだけつまらなそうに、欠伸をした。
クロウは、何も言わなかった。
ただ、ジンのいた席に、そっと自分の酒を半分だけ注ぐと、それを一気に飲み干した。
ルージュは、ジンのために作った『ゴースト』を、静かに片付けながら、彼の魂が安らかに天へ昇っていくのを感じていた。
そして、彼女はあなたに問いかける。
過去という名の、幽霊。
「ねえ」
「あなたの心の中にも、成仏できずに彷徨っている、古い友人はいないかしら?」
「たまには、献杯してあげるのも、悪くないものよ」
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