第2話 消えた水曜日


──午前6時59分

 神谷 想(かみや・そう)は、アラームの1分前に目を覚ました。


「……えぇ?……う〜ん」


 アラームの30分前なら、もうひと眠りできる嬉しさがある。

だが1分前では、何か損をしたような気分になる。


 鳴るか鳴らないか、という絶妙なタイミングでアラームを止め、そのまま身支度に入る。


「今日は……木曜日っと」


 歯磨きをしながら、壁のカレンダーに目をやった。


「歯磨き粉と、牛乳……と」


 だが、その手がふと止まる。


──水曜日が、また空白だった。


「水曜日だけ、何にもないんだよな……」


 なんとなく、ぼんやりとした違和感を抱えながらも、特に気にせず朝の支度を終える。




 職場に着き、いつもの自販機でホットコーヒーを買う。

 変わらないルーティン。変わらない日常。

想はそれを心地よいとさえ思っていた。


「普通が、一番だ」


 すると、同僚が声をかけてきた。


「よう、神谷」


「おはよう」


「昨日の会議、お前にしてはちょっと熱くなってたな。珍しいじゃん」


「……え?」


「え? 会議の話だけど。……お前、寝ぼけてんのか?」


「……あぁ、たまにはね。そんな日もあるよ」


 想は曖昧な笑みでその場をやり過ごしたが、内心は凍りついていた。


──会議? 昨日、そんなのあったっけ?


 スマホで日付を確認する。

木曜日。つまり昨日は水曜日。


 だが、水曜日の記憶が──まるごと、ない。


 あわてて先週の水曜日を思い出そうとするが、そちらもまったく浮かばない。


「……昨日の晩ご飯も思い出せないのに、一週間前なんて無理か……」




 帰宅後、想はリビングのカレンダーを眺めながら考え込んでいた。


 水曜日だけが、ぽっかりと空白だ。

他の日は予定やメモで埋まっているのに──そこだけ、何も書かれていない。


「……だから思い出せないのか?」


 カレンダーに書き込んである予定は、そこから記憶が引き出される。

だが水曜日だけは、記録もなく、記憶もない。


 想はふと思いつく。


「じゃあ、来週の水曜日に、忘れようがない予定を入れてみようか」


 目に留まったのは、近所に新しくできた居酒屋──「ワインラボ」。

看板が変に印象的だったのを思い出す。


「変な名前だけど……逆に、忘れようがないかもな」


 想はカレンダーに大きく書き込んだ。


『6/4(水) ワインラボ 19:00〜』




 日々は、何事もなく過ぎていった。

──そして、火曜日の夜。


 カレンダーの前で、想は独りごちる。


「明日は仕事終わりにワインラボ。……普通に楽しみだな」


 スマホでメニューを眺め、何を頼もうかと考えながら眠りの支度を整える。

予定を確認し、準備も万端。


 胸にわずかな期待を抱きつつ、静かに目を閉じた。




──午前6時59分

 想は、またしてもアラームの1分前に目覚めた。


「……えぇ?……う〜ん」


 アラームの30分前なら、まだ寝れる嬉しさがある。

だが1分前だと、やはり損をした気分になる。


 鳴る寸前にアラームを止め、身支度に入った。


「今日は……木曜日っと」


 歯を磨きながらカレンダーを見る。


「……あれ、今日は……シャンプーか。切れるの早いんだよなぁ」


 リンスよりシャンプーの方が減りが早い。

詰替え用の買い方にいつも悩む──そんなことを考えながら、想は朝の支度を続けた。




──だが、彼はまだ気づいていない。

 昨日、水曜日に“何があったのか”を、一切思い出せていないことに。




第2話 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る