アクアンパラダイス

花森遊梨(はなもりゆうり)

SIDE 平山珠緒

平山珠緒は、ようやく帰宅した。部屋は散らかり放題だ。テーブルの上には、製薬の資料が無造作に積まれている。学生と会社員の二足のわらじを履いている自分には、部屋を整理する余裕などなかった。自分でも、こんな生活が続くことに辟易としている。


携帯の画面がちらっと光り、メッセージ通知が表示される。画面を見ると、栞からのLINEメッセージがポップアップされている。



おしりん: 「明日プール行かない? 珠緒の「生きてる感じ」してるとこ、見てみたいんだよね」



珠緒は少し顔をしかめた。今は本当に動く気力がない。栞のあまりの元気さに、どうしても心が重くなる。


テイル・デカキン: 「私、そんな元気ないよ…」

 

 

メッセージを送った後、再びソファに背を預けると、すぐにビデオ通話の着信が鳴った。画面には、栞の元気そうな顔が映る。背景は明るい部屋、栞の自信に満ちた姿が、珠緒の心にちょっとした刺激を与える。

 

 

栞は手を振りながら、元気よく言った。「あ、繋がった。珠緒さぁ、明日プール行かない?」

 

 

珠緒はすぐにうんざりしたように答える。「もう、やめてよ。私 はそんな元気ないって…」

 

 

栞は彼女の声を聞いても、むしろ嬉しそうに笑いながら言った。「だからこそ行こうよ!だって、珠緒のことだし、どうせ夏が終わったら、またどこにも出かけずに文句ばっか言うでしょ?」

 

 

連絡先を交換してまだ2ヶ月。この時点で栞の珠緒に対する解像度は高すぎる、コミュ強に実際に関わるとこれである。

 

 

「……しょうがないな。」と珠緒は言った。心の中ではすでに栞に押し切られていることを感じていた。「じゃあ、明日行くよ。でも、ほんとにすぐ帰るからね。」

 

 

「決まり!」栞は画面越しにガッツポーズをし、満面の笑顔を見せた。「準備しといてね、明日は楽しもう!」

 

 

よそ行きの服装とはいえ、ベレー帽は失敗だった。

上半身の白いシャツも、下半身のほつれたデニムのショートパンツもいい感じに太陽の熱と光を受け流してくれている、首元には細めのシルバーのネックレスも以下略だ。問題は私の頭にちょこんと乗ったベレー帽だ。暗いネイビーのウール素材はそれらに受け流された分まで熱と光をたっぷりと吸収し、私の頭皮をダイレクトに熱している。

「なんで私がこんな夏のレジャーなんかに連れ出されてるんだか」

「それはね〜、“生きてる感じ”が欲しかったからです」

声の主は、やけに軽い調子でそう言った。振り返らなくても、本気じゃないように見えて、なぜか本音を突いてくる。

「わたしに? 生きてる感じ? いやそれ、完全に間違い電話」

 

栞はにやにやしながら、ポーチから日焼け止めを取り出す。

 

「「じゃあさ、死んでる感じで泳いでみてよ。ゾンビみたいにさ」

「……プールの警備員に捕まるでしょ、それ」

「見たいなあ〜、平山珠緒(20)、ゾンビスイム」

くだらない。くだらないのに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになる。
こういうふうに無理やり引きずり出されることを、私は本当は嫌いじゃないのかもしれない。

珠緒は顔を手で覆った。

 

「お願い、駅に戻って。まだ引き返せる」

と言ってみたものの、駅からはもうシャトルバスで20分。今さら戻る体力なんて、どこにも残っていない。



車内の冷房が、火照った肌をやっと冷ましてくれた。
外の熱気が嘘のように遠くなって、思考がやっとまともに戻ってくる。ふと自分の服を見下ろすと、白いシャツの薄さに気づく。
陽射しを浴びた生地の向こうに、黒い下着がくっきりと透けていることに気づいた。すぐに「まあ、いっか」と思う。行く先はプールだし、間も無くこの状態からシャツすらなしの状態で人前に出るのだし。


珠緒は、ふと横に座る栞に目を向けた。最初は気にしなかったのに、突然、栞の姿が妙に目に入った。スポーティーなタンクトップ。真っ白で、シンプルなデザインなのに、どこか高級感を感じる。自分んと違って何も見えない胸元には、そういう見えない部分に対する抜け目のない気遣いを感じるし、下半身のショートパンツはタイトすぎず、タンクトップに引き続いてカジュアルながらもどこか品がある。極め付けが足元を彩るのはあえてのシンプルな白いスニーカー。栞の服装には、やっぱり計算された抜け感が感じられる。私でもアマゾンで買い揃えられる上下の服はともかく、靴箱の奥にもあったはずの白いスニーカーに手入れが行き届いていているのは負けを認めざるを得ない。カジュアルな服でも本気で着こなせば文字通りの魅力的な装備になるのだ。


見上げたドーム状の建物は、思ったよりも大きかった。
白く反射する曲線の屋根が、真夏の青空の中で浮かぶように光っている。
中に入ればどうせ濡れるのに、足元からじんわり汗が浮いて、シャツの背中が肌に張りついた。

「……なんでここまで来てんのよ、私」

吐き出すように言った言葉は、自分に向けたものだった。隣で栞がテンション高くチケットを買ってる。ポニーテールを揺らして、財布を取り出す仕草まで無駄に元気。
一方私は、入り口の横に立ってるヤシの造花の前で、現実逃避するように影を探していた。


中に入ると、いきなり空気が変わる。冷房でも自然の風でもない、湿度の高い、ぬるっとした温室のような空気。
鼻の奥に漂うのは、わずかに塩素の匂い。水の気配と熱気が混ざっていて、息を吸うだけで全身がだるくなる。

天井は高く、透明なガラスドームが光を拡散している。
直射日光は当たらないはずなのに、まるで外よりも眩しい。
プールの水面が、光を乱反射させてキラキラと床に模様を描いていた。

水着に着替えて、足だけを先に入れた瞬間、冷たさに膝が跳ねた。
でも、水に浸かってしまえば、逆にこの体温と合ってくる。不思議な感覚。
流れるプールには子ども連れが多くて、浮き輪と叫び声が絶え間なく流れてくる。

「リゾートって感じじゃない?」
栞が浮き輪に体を預けながら言った。

リゾート。そう呼ぶにはどこか作り物っぽい
ヤシの木も人工。岩のような装飾も本物ではない。でもそれが逆に、ここが「現実の延長線じゃない場所」だってことを強調している気がした。

屋外ではないのに、光があって、風も動いて、水もある。この不思議な非日常感が、きっと人を連れてくるんだろう。


 

栞は迷うことなくバッグから水着を取り出した。深いネイビーブルーのハイレグビキニは、シンプルながらも絶妙なカッティングで彼女の身体を包み込んでいた。腰のラインがくっきりと際立ち、まるで彫刻のように引き締まった脚が水着の布面積を最小限に留めている。

「これくらいがちょうどいいの」と栞は涼しい顔で言い、装いに何の迷いもない。肌は透き通るような白さと艶やかな輝きを放ち、光を受けて微かに反射する。プールサイドを歩くたびに、彼女の背筋はまっすぐに伸び、自然と視線を引き寄せる。

一方で、珠緒は黒のシンプルなワンピース水着を選んでいた。表から見ると露出は控えめだが、背中が大胆に空いていて、狙っていないのにどこか艶っぽい。着替え終わって鏡の前に立つと、珠緒は思わず自嘲気味に呟く。

「……は?誰に媚びる気よ私」

栞はそんな珠緒に軽く笑いながら、「無理に見せようとしなくていい。でも、水着って結局は自分の気持ちの表れだよね」と言った。

珠緒は栞の堂々とした姿に圧倒されつつも、どこか羨望のまなざしを隠せなかった。

 

 海を模したプールには、ゆっくりと人工の波が打ち寄せていた。酷暑への耐性でもついたのか、誰もがその音を気にも留めていない。

砂浜の色に塗られたプールサイドのタイルには、濃い影が落ちていた。珠緒はラッシュガードの袖を引きながら、日陰に腰を下ろす。


「珠緒ー、アイス買ってきた〜」栞が走ってくる。髪は濡れて、首元に貼りついている。片手にソーダバーを二本、もう片方には自分用のチョコモナカジャンボ。

「…歩く姿だけでマウント取ってくるのやめない?」

珠緒が眩しそうに言う。

「へへーん、黄金比だから〜」

栞は得意げに腰をひねって見せたあと、わざとらしくアイスの棒を片手で持ち替えた。

そして、ぽとり。

青いソーダバーが、地面に落ちた。

「……」

「やっちゃった♡」

まるで偶然を装った必然のように、栞がにっこり笑った。

「……それ、わざとでしょ」

「バレたかぁ〜。じゃあ、もう一本お願い♡」

珠緒は溜息をついて立ち上がる。

「はぁ……はいはい、奴隷ちゃん行ってきまーす」

「ありがと〜♡」

栞はぴょんと足を組み替え、椅子に寝転んだ。まるで王女様気取りだ。歩き出した珠緒は、売店に向かいながらぼやく。

「ムカつく黄金比のくせに。…笑顔で頼まれると、なんかもう……社会的に断れない感じ、あるのよね……」

「ねぇ、また行こっか」

「どこに」

「んー…今度は海とか、温泉とか」

「どれも体力使うじゃん。やめとこ」

「じゃあ、部屋借りてだらだらするとか」

「ホームレスに対してその提案は地獄でしょ」

 

 

「……まあ、また気が向いたら付き合ってあげるわよ」

「やった♡」

 

栞が腕を組んで、強引に珠緒の肩に頭を乗せた。

 

「重い」

「黙って耐えろ黄金比マット」

「マットじゃないし黄金比でもないし…ってか耐える理由がわからんし…」

 

ふたりの声が、再開した波の音遠ざかる蝉の声に紛れていく。

 


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