第40話
自分の中に潜む怪異が、吐き気を催すほどに、ずっとずっと忌まわしかった。
怪異は、夜になると現れた。
他でもない、シグレ自身の体に、女性性というものを植え付けることで、怪異は現れる。
男女における性差が目立たない年までは、まだ我慢ができた。それに、眠っていればなんともない。だから、なんとか自分を誤魔化して生きてこられた。けれど、性差が目立つ年齢になってくると、日に日に変わってゆく、夜の自分の体が気持ち悪くなった。この体を切り裂いてやりたいくらいに、気持ちが悪かった。
シグレのこの特異な体質を、家族はひた隠しにしていた。夜は決してシグレを人前に出さなかった。行きたくてたまらなかった夏祭りも、修学旅行も、そのせいで全部行けなかった。そのくせ、日中に行われる夏祭りは、雪女を宿してきた女性たちがそうしてきたように、巫女の格好をさせられて飾り物のように扱われた。
家族は、シグレを籠の中の鳥のように大切に育てたが、同時に奇異の目をシグレに向けていた。
姉だけは、女の子になったシグレを、妹ができたようだと思ったのか、しきりに「可愛い、嬉しい」と口にしていたが、それは大人に向けられる奇異の目より、よほどシグレの心を傷つけた。
日に日に変わりゆく夜の体と、その体を傷つけたくてたまらなくなるほど膨れ上がる嫌悪、シグレを決して自由にさせない家風に、シグレの心は壊れる寸前だった。
そんなシグレが田舎の実家を出て、都内の大学にまで進学できたのは、アマネのおかげだった。
彼女は当初、祖父が見繕ってきたという妖異商としてシグレの前に現れた。その時は、大人の女性の姿をしていた。
彼女はシグレのうちの怪異を見抜き、妖異封じの赤い組紐を与えてくれた。それで髪を縛れば、夜の姿から免れることができると言って。
シグレが髪を縛り、両親の反対を押し切って都内の大学に進学できたのは、組紐のおかげだ。
やがて、都内での一人暮らしにも慣れた頃、再び、彼女が現れた。
「あなたの中の怪異を消すことができる」と、誘惑な言葉を纏わせて。
艶然と微笑んだ彼女は、人間離れしていてどこか恐ろしかったが、妖異に触れる妖異商ともなれば、このような妖しげな雰囲気を纏うのだろうかと素人ながらに思った。むしろ、それが腕の立つ妖異商の証のように思えて、シグレは彼女に望んだ。望んでしまった。
己の身のうちの、怪異を消してくれと。しかしそのために、彼女は氷海家の所有する妖物を要求した。これには、シグレも躊躇った。氷海家の所有する妖物は非常に強力なもので、一度怪異が生じれば、災害クラスの脅威をもたらすと聞かされていた。
決して持ち出してはならない、決して封を解いてはならない、決して他者に渡してはならない。
この禁を破ることは、シグレには当初できなかった。赤い組紐のおかげで男性として生きられるのだから、それで良いではないかと自分を誤魔化して、アマネとの取引は断るつもりだった。
だが、アマネはよほど、氷海家の所有する妖物を欲していたらしい。彼女がシグレの前に現れる頻度は増し、それは執着を帯びるようになり、彼女の甘言は、甘く蕩かす蜜のようにシグレの思考を絡め取った。
彼女が与えたのは甘い飴だけではない。シグレから赤い組紐を手遊びに奪い取っては彼を揶揄う真似をした。それに怒るシグレを「可愛い」と、弑虐性に満ちた笑みを湛えて愛でた。
その飴と鞭が、罠だと知りもしないで、シグレはアマネの取引を引き受けた。いや、本当はどこかで罠だと分かっていたかもしれない。それでも、シグレは一縷の希望に賭けたかった。自分の体に根付く女性性を、完全に排除したかった。それほどまでに、シグレは夜の己を嫌悪し、唾棄し、憎悪していたのだ。
結局、全てはアマネの道具に成り下がるだけの愚かな行為だった。
シグレの置かれた境遇を慮り、無理やり聞き出さずに、ただ黙って守ろうとしてくれたアマフサにさえ、心を開かずに。自業自得だ。
「お前は私のために、怪異になるの。でも、大丈夫」
溶けゆく記憶の中でアマネが婉麗に笑う。
「怪異になれば、男も女も関係ないもの」
こちらに差し伸ばされた、白魚のような腕が、先から崩れてキイキイと鳴きわめくネズミに変わる。怪異に飲まれて、やがて自分は彼女のような化け物になると分かった時は、もう全てが手遅れだった。
もう、助からない。己に潜む怪異を厭い、結局その末路が化け物になるなんて、なんという悲劇だろう。だが、禁を破って、危険な妖物をアマネのような者の手に渡した罰だと思えば、どこか気が楽になった。
ここで己は怪異に飲まれ、怪異になる。
だが、なぜだろう。
青い炎が溶ける意識の中に灯る。最初は小さかった炎が、轟々音を立てるまでに火勢を増す。青い火花を散らして、こちらを見ろと主張してくる。
あれは、狐火だ。ミカヅキが宿した怪異。
人の心を惹きつけるけど、見すぎるのはよくない、とミカヅキは言っていた。けれど、見てしまう。見入ってしまう。
火は道標だと、こんな時にアマフサが言っていた言葉もまた思い出す。
それでは、ミカヅキの灯す狐火はなんなのだろう。人の心を惹きつけるこの狐火は、悪いものなのだろうか。それとも、道標なのだろうか。帰るべき場所を示す道標だからこそ、こんなにも見入ってしまうのだろうか。見すぎるのは良くないというのは、どういうことだろうか。
答えを知りたくて、シグレはあの日、触れることのできなかった狐火へ手を伸ばす。
心に「帰りたい」という願いが俄かに生じる。でも、どこへ帰るのだろう。そもそも、帰れるのだろうか。
狐火に手を伸ばして、シグレは知った。狐火を見つめすぎると、帰りたいという気持ちが強くなる。でも、帰れる場所がない人は、気持ちだけを持て余して、きっと悲しくてたまらなくなる。だからきっと、狐火を見すぎるのは良くないことなのだ。
シグレは再び意識を溶かすに委ねた。それから長らく昏睡していたように感じたが、再び意識が呼び起こされた。
「シグレ!!起きろ!!」
やかましい少女の声が轟く。
帰る場所は、自分にはまだあると、その声が思考を呼び覚ます。
目を開けて、声のした方を見上げる。その時、彼女が氷の向こうで拳を叩きつけた。そこから、亀裂が走り始める。
なぜ、氷に包まれているのだろう。そんなことを考えた時、氷を殴り砕いて、青い炎を纏った火花のような少女が、頭上から降ってきた。
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