第38話
絹を裂くような悲鳴は断末魔の声へと変わった。
口の中に一気に空気が流れ込み、ミカヅキはむせかえる。
肌を刺すような冷気を感じて、現実に戻ってきたのだと知る。現実の世界では、ミカヅキに抱きついていたはずのアマネが、青い業火に焼かれていた。
焼かれる側から、アマネの内部が露出する。陶器のような肌がぐずぐずと崩れると、中から無数のネズミの頭部が露出し、ネズミたちも狂ったように鳴き喚きながら、地面へ雪崩れ落ちてゆく。
崩壊は肌だけにとどまらず、彼女の艶やかな黒髪も、可愛らしい顔立ちも、美しい絹織の着物も、全てが人の形を業火の中では維持できず、輪郭が崩れ、、少女を醜悪な姿に歪ませる。
アマネは炎に焼かれながらも「やめろ、やめろ!」と狂ったように泣き叫び、崩れていく体を維持しようと自分で自分の体を抱きしめる。わずかに、こぼれ落ちたネズミたちが戻ってきて、アマネの崩れた部分に取り付き、再び癒着しようとしたが、火は容赦なく襲いかかる。
ミカヅキは、自分の狐火がここまで苛烈なものだったとは思いもしなかった。
目の前で苦悶の表情を浮かべる怪異を眺める。醜悪で、歪んだ怪異を。けれど、あの夢を見てしまっては、ただそれだけで言い表すのは躊躇われた。わかってしまったから。彼女と夢の中で一つになって、わかってしまった。アマネは本当に、アマフサのことが大好きでたまらなくて、昔みたいに可愛がって欲しかった。きっとそれは、彼女が怪異にならなければ簡単に叶っていたはずの、華胥の夢にもならずに叶えられた、確かな幸福だったはずなのに。
「アマネ、待って、今、その火を消すから」
苦しむアマネをそれ以上見ていられず、ミカヅキは火を消そうとした。しかし、アマネの背後からアマフサが現れたのを見て、ミカヅキは動きを止める。
あっと思う間もなく、そのままアマフサは、悶え苦しむ娘を、彼女の体を破壊しつづける炎を、ものともせずに、背後から抱きしめる。
「とう、さま」
アマネの苦悶の表情が和らいだ。炎に焼かれ、醜悪な本性を露出しながらもなお、彼女は、父に甘えた。
「私に、触れてくれ、た。とう、さま」
自分の体を包み込んでくれたアマフサの手に、そっと自分の手を重ねる。狐火は、アマネのみを焼いているようで、アマフサの体に炎がうつっても、彼の体を焼くことはない。
「ねえ、とう、さま。ずっと、こうして、いて」
「すまない」
アマフサは、背後から娘を抱きしめたまま、彼女の首筋に顔を埋める。
「約束を破って、すまない」
「とうさま?」
「お前とずっと一緒にいると約束したのに、俺はお前を、怪異の中に置き去りにした。怖くて、お前が怖くなって、俺は逃げた。お前を拒絶した。お前を1人にした。お前を、お前を」
「とうさま、ねえ」
見ていられなくなり、ミカヅキは狐火を止めた。見るも無惨な姿となったアマネは、目を背けたくなるほど醜悪だった。肌はこぼれ、ネズミの焼死体が露出し、もはや人の輪郭すら保っていない。それでも、顔はまだかろうじて、娘の姿で、その顔はとても嬉しそうに、父を見上げている。
「アマネのこと、好き?」
その声は、どこまでも無垢な子供のようで。これまでの、無垢な子供を演じていたアマネの声とは全く違う。本当の子供のようで。
アマフサは嗚咽をこぼした。
「好きだ。大好きだ。叶うなら、お前の成長した姿を見たい。お前が大きくなって、いい人を見つけて、結婚して、いや、結婚しなくても、とにかく幸せなお前を、俺は、しわしわのジジイになって、それを見たい。見たかった。」
呆然と2人の親子を眺めるミカヅキの傍に、人の気配が立つ。天野氏だった。彼の陰気くさい顔がますます悲惨なことになっているが、相変わらずの無表情を貫いている。
天野氏はただ無言で立っているだけで、声をかけることも、何か行動に起こすこともしない。
ミカヅキも、黙ってアマフサとアマネの最後の会話を聞いた。
アマフサも、華胥の夢を見たのだろうか。彼の理想とする幸福は一体なんなのだろうか。せめて、アマフサとアマネが、同じ夢を見ていたらいいと、ミカヅキは思った。
*
妻は、アマネを産むと儚くなった。
母親を知らずに育ったアマネは、きっと母親にも向かうはずだった分も含めて、めいっぱい父親であるアマフサに懐いた。
父様、父様と呼ぶ声は、古い記憶の1番底に積もっている。「父様」と呼ぶあどけないその声は、いつしか妄念と執着の層が降り積もって、悍ましい響きを絡ませたものに成り果ててしまった。けれど、今、「父様」と呼ぶその声は、昔と全く変わらない。記憶の一番底に積もった声に絡みついた情念を、青い炎が焼き払い、元のあるべき姿に戻したような、そんな、声。
青い炎に焼かれるかつての娘を目にした時、アマフサは反射的に駆け出し、後ろから抱きしめていた。
しばし落ちた華胥の夢の中で、人に戻ったアマネと穏やかに暮らす夢を見たことがそうさせたのか、とうに捨てたと思っていた親としての愛情がそうさせたのか。
きっとどちらでもないのだろうとアマフサは思う。これはただの罪悪感だ。娘を拒絶した自分への罪悪感。なんてずるい大人だろう。崩れた体でめいっぱいアマフサに甘えて、歓喜に打ち震える娘は、父の愛情を取り戻したと思っているのだろう。だがこれは罪悪感から起こったもので、もう、昔のようにアマネを愛することはできない。それなのに、「父様」と呼ぶ声がかわいらしくて、本当にかつての娘が戻ってきたようで、気づけば内心を吐露していた。
あの日、大きな震災があった日。
アマネは怪異に飲まれた。
人ではなくなってしまったアマネに、アマフサは約束した。お前がどんなふうになっても、父はお前のそばから離れないと。寿命をなくしたアマネとずっと一緒にいることなどできないし、こんなふうになってしまったアマネを残して1人で先に死ぬのも嫌だった。
手に入れた妖物で寿命を引き延ばし、アマネと少しでも長く過ごそうとした。それだけで、アマフサは満足だった。身体を失い、現象に成り果てた娘の気持ちなど考慮もせずに。
だから、アマネが肉体を欲したことに気づいてやれなかった。
アマネの口から言われて初めて気づいた。
その時のアマネはもう、アマフサの知る無邪気な子供ではなかった、
アマネに言われるがまま、彼女のために、彼女の依代とするために、罪もない孤児を2人も養子にして、アマフサは彼らをアマネに捧げた。
そこまでしておいてようやく、アマフサは取り返しのつかない過ちをしたことに気がついた。
子供を生贄に捧げた。自分の娘の願いを叶えることに。それは超えてはいけない一線だった。一線を踏み越えたアマフサへ返ってきた代償は、計り知れないものだった。
あれほど可愛らしかった娘が化け物にしか見えなくなった。今のように青行燈を引き起こし、身代わりを用意し、そして自分の新たな体となる少女に宿ろうとしたアマネを、アマフサはすんでのところで拒絶した。そうして1人、怪異の中に置き去りにした。
アマネはあの時泣いていた。
痛みも空腹も息も吸えなくて、生きているって感じもしなくて、虫やネズミを使わないと元の姿にもなれなくて、そんなので父様のそばにいても、苦しいだけ。それだけなのに、そんなに己のやろうとしたことは、醜悪なのかと。どれだけ娘に泣かれても、アマフサにはもうアマネが化け物にしか見えなくなっていた。
それが2人の決定的な決別となって、今日まで続いてきた。
アマネに捧げかけた子供は、自分よりも親に相応しい者の元へ里子に出した。二度と養子などとるまいと思った。
幾年も経て、まさか再び、ミカヅキという名前の養子を取ることになるとは思いもしなかった。
今度こそ、ちゃんと慈しんで育てようと思った。けれど、養子にとった子供に「お父さん」と呼ばれた時、何も変わっていない自分に気がついた。「お父さん」に「父様」の幻影がまとわりついて、離れない。あの日拒絶した娘は、ずっとそこにいた。
そして、かつてアマフサにやらせようとしたことを、ミカヅキとシグレを使って己の手でやろうとした。どれだけ父の愛情に飢えていたとして、許されることではない。それでも、今はただ、彼女を抱きしめてやりたかった。
夢でもいい、幻想でもいい、娘が喜ぶのなら、抱きしめてやりたかった。
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