第四部 肝胆を砕く
第18話
近所のコンビニで煙草を買い求め、ついでに、缶ビールやポテチを購入したアマフサは、我慢できずに買ったばかりの煙草ケースを開けた。
ビールやお菓子の入ったビニール袋を手首に引っ掛け、ズボンのポケットから愛用のジッポライターを取り出す。
胡堂屋の面した曙町の商店街に、アマフサのふかす紫煙が、尾を引くように後ろへ流れてゆく。
道中、顔見知りの雑貨屋の婆さんに声をかけられてしばし世間話をした以外は、特に寄り道することもなく、胡堂屋へ帰り着いた。
煙草を咥えたまま、店内に通じる引き戸を開けようとしたアマフサの指先が、ぴくりと跳ねた。
アマフサは指先で感じた違和感を確かめるように、手を開いたり握ったりしたが、すぐに違和感を振り解いて引き戸を開ける。
その先には、ミカヅキとシグレがいるはずだった。
静まり返った店内へ足を踏み入れたアマフサは、店の中央に佇む小柄な女性の姿を見て、咥えた煙草をポトリと地面に落とす。まだ火のついたタバコは、断面を赤く嗅がしながら、床へ灰を落とす。アマフサは煙草を落としてしまったことに気がつき、やや乱暴な仕草でタバコの火を踏み消した。
その様を見て、小柄な女性がくすりと笑った。
アマフサは視線を持ち上げ、その小柄な女性、いや、子供を鋭くみすえる。
「二人はどこだ。ここで何をしている」
子供は、アマフサの質問に答えなかった。
いささか時代錯誤な格好の、それでいて非常に美しい娘だった。肩より少し上の長さで切り揃えたおかっぱ頭の黒髪は、絹糸のようにさらさらで、色白の丸い顔には、くるみのように丸く艶やかな目が嵌め込まれている。その目を縁取る睫毛は濡れたように黒い。まだ10歳にも満たないと思われる幼い身体は、黒い絹織物の着物を纏う。着物の真っ黒な生地の上に、血のように赤い椿の紋様が刺繍されていた。その姿は一言でまとめると、人形のようだった。全てが完璧に整っていて、完璧に美しい。けれど、ただの子供のようにはとても見えず、その仕草や表情の作り方は、妙齢の女性を彷彿とさせる。
「久しぶりに会ったというのに、挨拶もないの?近況を心配する言葉もなし?私のことよりも、あの赤の他人の方が心配なの?」
子供はアマフサと距離を保ったまま、店の中央でコトリと笑った。
「わたくしのたった一人の父様なのに。薄情な人」
「質問に答えろ、二人をどこにやった」
アマフサに強い語気で詰問され、子供はいささか気分を害したのか、柳眉を寄せる。
「ああそう、そういう態度でくるの。わかってはいたけれど」
とっても切ないわ、と言葉を吐いて、娘は口元に浮かべていた微笑を消した。
「あの小娘と氷海の子は異界へ落として差し上げたわ。今頃泣いてるのではないかしら」
その泣いている様を強調するように、子供はわざとらしく着物の裾で手を隠し、それを目元へもってゆく。
アマフサは険しい顔をして、「一体どこへ送った」と問い詰める。子供は、目尻に浮かんだ涙を拭くような仕草を見せて、睫毛を持ち上げる。どこか気だるげなその表情は、普段のアマフサの表情とそっくりだ。
「異界と言ったら異界よ。とても面白い異界なの。二人は無事に戻ってこられるかしら。それとも、今頃牛に潰されてペシャンコになってるかも。ふふ、心配なの?父様」
おどけたようなその台詞に、アマフサは我慢できなくなったらしい。ズカズカと子供へ歩み寄ると、背を屈めて彼女の華奢な両肩を強く掴んでゆすった。子供は「痛い」と鼻に皺を寄せる。
「戻せ、今すぐ二人をここに戻せ!」
「それは無理」
「戻せ!!」
細い肩に食い込むアマフサの指の力がますます強くなる。子供の小さな体が衝撃に耐えられずグラグラと揺れる。
「わかった」
子供は観念したのか、投げやりな様子で了承した。
「じゃあ、あの二人に特別な贈り物を贈るわ」
「贈り物?」
子供の言葉に、アマフサの手の力が緩む。
それから、激しく揺らしたせいではだけかけた襟元を、両手できゅっとより合わせる子供の姿を見て、バツが悪そうに手を下ろした。
「ええ、二人があの異界から戻ってくるための、道標になるものよ。嘘じゃないわ。本当に助けになる贈り物だから。父様、喜んで」
ちっとも嬉しそうな顔を見せないアマフサへ、子供は話を続けた。
「私だってあの二人に死んでもらいたくて異界に落としたのではないのよ。ただ、今日はちょっと遊んであげただけよ。だって私は怪異だもの、人を驚かすのに理由なんていらないでしょう」
子供は、努めて消していた表情を、幕を上げるようにして取り戻した。大人のように落ち着いていた表情が、年相応の子供が親に甘える時のような、幼気な表情へ変わる。
「ねえ、そんなことより父様。私に触れてくれたね。ありがとう。今度は昔みたいに、もっと優しく触れて、そして手を繋いでほしいな」
「何を言っていやがる。今更、そんなこと」
アマフサの眼が揺れた。子供は動揺したアマフサを見逃さなかった。
「ひどいね、父様。えーっと、なんだっけ」
弑虐性に富んだ気迫が目に宿る。
「大人が子供を助けるのに、理由なんかいるのか、だっけ?」
今日、アマフサがシグレを前にして言った言葉を、子供はそっくりそのまま言った。アマフサの頬が引き攣る。
「自分の娘を助けなかったくせに、よその子供は助けるんだ。立派だね、父様、ほんとうにほんとうに、立派だね」
そうやって微笑んだ子供の姿がかき消えた。代わりに、子供の輪郭が乱れて人型に積み上がった大量のドブネズミが現れる。ドブネズミたちはバランスを崩したのか、雪崩のように床へ転がり落ちた。ネズミたちは、唖然として立ち尽くしたままのアマフサの足の間を、キイキイ騒ぎながらすり抜けて、部屋の暗がりの影の中に姿を消す。大量のネズミの集合体を目にしたせいか、アマフサは吐き気を覚えて口に手を当てがった。喉元まで競り上がった吐き気をどうにか堪え、アマフサはもち丸の様子を見に、中庭へつながるガラス戸を開ける。
「もち丸!」
愛犬の名を呼んだが、反応がない。いつもなら、眠っていても跳ね起きて、尾を振ってこちらに駆け寄ってくるのに。
「くそ」
ダンっと、アマフサは拳をガラス戸へ叩きつける。
「もち丸まで巻き込まれたか、……いや」
下へ向いたアマフサの視界が、ガラス戸についた小さな引っ掻き傷を拾った。
これは。
アマフサはしゃがみ込んで、もち丸がつけたであろうその引っ掻き傷を指でなぞる。
「......もち丸、二人を頼んだぞ」
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