第7話:もう来ないバスと、いつか来る誰か



LIFE GOES ON

第七話:もう来ないバスと、いつか来る誰か


「もう来ないバスを、待ってるだけなんです。毎週、この時間だけ」


小野寺咲のその言葉は、まるで重力のように、篠田湊の身体にのしかかった。

盛大な勘違い。みっともない自意識過剰。

穴があったら入りたい、とはこのことだ。今すぐこの場から消え去りたい。


「あ……そう、なんですね。すみません、変なこと聞いて……」

湊が、しどろもどろに謝罪の言葉を口にすると、咲はふっと顔を上げた。

そして、今まで見せたことのないような、悪戯っぽい笑みを、ほんの少しだけ口元に浮かべた。


「でも」

彼女は言った。


「バスは来ないんですけど、バスじゃない『お迎え』が、いつかきっと来るって、ずっと待ってました」


そう言って、彼女はニッコリと笑った。

それは、いつもの儚げな微笑みでも、かったるそうな無表情でもない。太陽みたいだ、と湊は思った。皮肉にも、ずっと遥に重ねてきた、あの太陽みたいな笑顔だった。


「え……?」

湊は、完全に思考が停止した。

バスじゃない、お迎え?

それって、つまり……どういうことだ?


「だから、篠田さんが来てくれて、ちょっと、びっくりしました」

咲は、楽しそうに言葉を続ける。

「私のお迎え、篠田さんだったんですね」


からかわれている。

湊は、瞬時に理解した。

この女、今まで見せてきた儚さや、かったるさは、全部演技だったんじゃないか。本当は、人の心を的確に見抜き、その上で弄ぶのを楽しむ、かなりの策士なんじゃないか。


「……どういう、意味ですか」

湊は、警戒心を最大に引き上げて問い返した。もう、この女のペースには乗せられない。


「さあ? どういう意味でしょうね」

咲は、くすくすと笑いながら、ベンチの隣のスペースをポンポンと叩いた。

「せっかく来てくれたんですから、座らないんですか? 私のお迎えさん」


その言葉に、湊はもう、何も言い返せなかった。

言われるがまま、彼女の隣に、ぎこちなく腰を下ろす。

もう来ないバス停のベンチ。隣には、何を考えているのか全く読めない、笑顔の女。

最悪で、最高の、日曜日だった。


「……毎週、待ってたんですか。バスを」

湊は、なんとか会話を繋げようと、当たり障りのない質問を投げかけた。


「ええ」

咲は、あっさりと頷いた。笑顔は消え、またいつもの、静かな表情に戻っている。

「二年前に、事故で……。彼が、いつもこのバス停で私を待っていてくれたんです。だから、私も、ここで彼を待つんです」


淡々と、まるで天気の話でもするように、彼女は言った。

その言葉の重みに、湊は息を飲んだ。二年。事故。彼。

断片的な情報が、彼女の抱える深い喪失を物語っていた。


「ここに来て、ぼんやりしていると、色々なことを思い出すんです。楽しかったことも、くだらないことで喧嘩したことも。……そうやって、少しずつ、忘れないように、忘れていくんです」


忘れないように、忘れていく。

その矛盾した言葉が、湊の胸に深く突き刺さった。


「めんどくさい女でしょう?」

咲は、自嘲するように笑った。

「そうですね」

湊は、正直に答えた。

「でも、俺も相当めんどくさい男なんで、お互い様かもしれません」


その言葉に、咲は初めて、声を立てて笑った。

その笑い声は、カラカラと乾いていて、でも、とても綺麗だと思った。


遠くのカフェの窓際で、海斗が親指を立ててグッドサインを送っているのが見えた。その隣には、いつの間にか遥も座っていて、少し複雑そうな顔でこちらを見ている。


そうだ。今日は、四人で会うはずだったんだ。

湊は、すっかり忘れていた。


「あの、そろそろ……」

湊が立ち上がろうとすると、咲がその袖を、そっと掴んだ。


「もう少しだけ」

彼女は、子供が駄々をこねるような声で言った。

「せっかく来てくれた、私のお迎えなんだから」


その瞬間、湊は、決めた。

この、最高にめんどくさくて、かったるくて、何を考えているか分からなくて、そして、とてつもなく寂しい女の隣に、もう少しだけ、いてやろう、と。


バスは来ない。

でも、日はまた昇る。

二人の奇妙な日曜日は、まだ始まったばかりだった。


(第七話・了)

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