ありふれた誰かの物語

舘花 縫

ありふれた誰かの物語

 たとえば、お気に入りのハンカチを雨の日の水たまりに落としてしまうこと。長いこと一緒に暮らしているぬいぐるみがほつれてしまうこと。おなかが痛くならないこと。何よりも大切でかけがえのないあの人が、今日家に帰って来ないこと。


 起こるはずもない、でも、今すぐにでも起こるかもしれない不安。


 わたしの大好きで大切な毎日には、そんな心憂う出来事は必要ない。けれど。





 子どもの頃からわたしはわたしが大嫌いだった。


 小柄で痩せぎすだったわたしは、小学校時代、〝まえへならえ〟では一度も手をまっすぐ伸ばすポーズをしたことがない。肌は生まれつき弱くてひどくがさつき、顔はいつも、ぶち猫のようにまだらに赤く腫れていた。自由奔放でいう事を聞かない髪の癖のせいで、大人になるまで前髪さえ作れなかった。


 わたしはわたしがマジョリティであることを意味する「普通」ではないことに気づいたとき、とても悲しかった。それは、不運にも手にできなかったものが、本当はすごく遠い場所にあることを知っただけではない。


 誰よりもそれに早く気がついたわたしにとって、クラスメイトが自分と他人の境界線を知ってからは苦しい日々だった。わたしの顔を指して「それどうしたの」と聞いてくるのはまだいいほうで、口だけは固く結び、もの言いたげな視線でじろじろ見てくるのは質が悪い。「何見てるの」と言い返したところで、クスクスと陰口の種にされるだけだ。


 わたしは「普通」には入れなかった。いつの間にか〝じゃないほう〟に属していた事実は、わたしに大きなショックをもたらした。


 でもそれよりも、心のどこかで〝じゃないほう〟をさげすむ自分がいたことのほうが驚きだった。表にせずともはっきりと嘲弄していた人々の一部に、わたしもなっていたのだから。


 こうして、わたしの自己に対する評価は暴落することになった。




 大人になるにつれわたしは色々なことを学んだ。


 縮れていた髪は美容室で高いお金を払い、艶やかなストレートに変わった。アレルギーの検査もして、何年も皮膚科に通い、あの頃に比べたら顔色もだいぶマシになった。幼いながらに悩んでいたことの大半は、お金で解決できるものだった。


 唯一変えることができなかった身長も、今では気にならない。今のわたしを好きだと言ってくれる人に出会えたからだ。





 ガチャガチャ、と玄関の鍵を開ける音に、わたしはガスコンロの火を止める。パタパタとスリッパを鳴らして駆け寄ると、ちょうど夫が帰宅したところだった。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 夫はエプロン姿のわたしを視界に入れると、やっと張り詰めていた気を緩ませてにこりと笑う。


「外までいい匂いしてた。腹減ったよ」

「ほんと? 今日はシチューを作ったの。ほら、この間作ったとき、また食べたいって言ってくれたから」


 ありがとう、と夫はまた嬉しそうに笑う。


 荷物を置き、風呂場へ直行した夫を見送って、わたしはキッチンに戻った。


 炊きたての白いご飯をよそうのは、いつかお揃いで買ったお椀。夫の同僚に結婚祝いでもらったペアグラスにお茶を注ぐ。出来立てを食べてほしくて、シチューは火にかけた鍋のままにしておいた。


 風呂から出たら、夫は髪を乾かす間も惜しんでキッチンへやってくるだろう。そしてわたしと鍋を交互に見て「うまそう」と言ってまた笑う。向かい合ってテーブルについたら、きっと今日の出来事をたくさん話してくれるはずだ。




 幸せで、大好きで、大切なわたしの暮らし。満ち足りていて不足はない。


 それでもたまに、過去のことが頭をよぎる。


 心無い声に傷ついたこと。わたし自身も心無い言葉の一端を担ったこと。泣いたこと。誰かを悲しませたこと。それらがただの古傷ではなくて、少しずつ、誰もが気がつかないくらいのスピードで、今に向かって浸食しているように思えること。


 幸せとは脆く儚いものだ。だからわたしは、それを失う日を恐れている。


 わたしは「今」を維持することに必死だ。わたしたちを取り巻くすべてに注意を払い、警戒し、あらゆる脅威からわたしの大切なものたちを守りたいと思う。


 でも同時にすべてから守ることができないのも知っている。いつかハンカチを落としてしまう日は来るし、ぬいぐるみだって永遠の命はない。おなかが痛くなることも、それ以上に体が痛むことだってあるだろう。もちろん何よりも愛する夫が二度と帰って来なくなる日も、いつかは訪れる。


 わたしの大好きな日々はやがて消えてしまう。でもすべてを理解してわたしは愛する。


 何かを大事にすること、好きだと思うこと。それはきっと、いつか太陽の光で蒸発してしまう水たまりに、小さな如雨露じょうろで水を注ぎ続けることだ。

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