第2話 外に行きたい

 雲の影が道をすべるように降りていく。

 それを追いかけるように、私は家と家の間を駆け抜けた。

 水色の家とピンクの家を過ぎ、道を左へ。

 赤青黄色と並んだ三件を横切ると目当ての家が見えてくる。

 綺麗な丸の家が並ぶ中、その家の形は片方に寄って膨らんでいた。


 家を作る時は、家主が必ず最初に息を吹き込む。

 この家の主は、自分が住む家に張り切って息を吹き込み過ぎたのだ。

 家作りはやり直しが効かないため、中には失敗して落ち込む者も居る。

 だが彼は、広くていいじゃないと大きく笑っていた。


 そんな明るい性格の持ち主の家は、外観から飾り付けられていた。

 硝子の細工を埋め込んだ壁は日差しできらきらと輝き、宝石がはめ込まれている様。

 大きく膨らんだ家に合わせて、広く切り出された窓をのぞき込む。

 長く光る桃色の髪の毛が、机に向かって熱心に作業をしている姿が見えた。


 窓をノックしようとあげた腕を、風がひゅるりと抜けた。

 窓の向こうの顔は顔を上げ、にっこり笑うと窓を開く。


「いらっしゃい、ファレファ」

「シドレラ! 聞いて!」


 そう言うと私は窓枠から家の中に乗り込んだ。


「んま、相変わらずお転婆なんだから」


 そう言いながらも窓、の下にはまるで私がここから入ることが分かっていたかのように布が敷いてあり、指の間まで丁寧に拭く。


「今日の秘密の演奏会はどうだった? 満足いく出来だったかしら」


「まあまあってとこかな、八十七点!」


 ふん、と背筋を伸ばし、つい強がってしまった。

 本当はよくて八十五点。

 ちょっとだけ、背伸びをした。


「それでねそれでね、凄いのを見たの! 見たって言うか、感じた? んだけど」


 シドレラは私がいつも使っている椅子をひいてくれた。

 椅子に座ると、シドレラも座って話を聞く体勢になる。


「花畑でね、聞いた事のない音が聞こえて。きっとあれは、おばあちゃんが言ってた音楽だと思う!」


「それで、見たっていうのは?」


「その音楽を聞くうちにね、気が付いたら私が知らない所にいて、台の上でかっこいい人達が演奏してるの。真ん中に、真っ赤なお花みたいな人が歌ってた!」


「知らない所に居て、演奏してる人を見た……」


 シドレラは口元に手を当てて、少し考える仕草をする。

 彼の手は大きくて、すらっと指が長い。

 指を目でなぞると、爪が今日は淡い水色に塗られていた。

 一本一本丁寧に整えられたそれは、桃色の手と合わさってとても綺麗。

 気分で塗る色を変えていると言うが、その中で右手の中指の爪だけがいつも赤く塗られている。

 何故そこだけ毎日赤色なのかと、一度だけ聞いた事がある。

 思い出を忘れないように。

 そう答えてくれたシドレラの顔はとても寂しそうで、私はそっとハグをした後その話はしないようにした。

 私がその手をじっと見つめていると、あら、ごめんなさいねとシドレラははにかんだ。


「さ、続きを聞かせて」


「えっと、その人達は見た事がない道具を持ってて、きっとあれがおばあちゃんの言ってた楽器だと思う! それで、お花みたいに綺麗な人が歌うんだ」


 私が歌う真似をすると、シドレラは目を見開いた。

 シドレラも、歌を見るのは初めてなのだろうか。

 私もさっき、初めて聞いた衝撃を忘れない。


「そんな遠くの人を感じる事が出来るなんて……」


 シドレラがふと何かを呟き、私の肩にそっと手を置いた。


「ファレファ、貴方にはきっと、特別な力があるわ」


「特別? 私に?」


 私は歌うのをやめて、両の手のひらを見つめた。

 私の手は、みんなと違くって両方が脆い。

 みんなが出来ることが、私には出来なかった。

 前までは、音を吹く事すら。


 ふと、大きな手が私の頭を優しく撫でた。

 私が何を考えているのか、分かっているみたいに。


「ミミ様が言っていたの。心を込めることが出来る人は、音楽を通じて心で通じ合えるって。あなたにも、その力があるのよ」


 私はさっきの感覚を思い返す。

 つんとしたお酒の香り。

 指先でなぞると、ちょっとベタついたテーブル。

 バラバラだった気持ちが、音楽が成り始めた途端にひとつになる瞬間。

 聞いている人の心地よい気持ち、演奏している人の高揚。

 お花の人の、心からの楽しいがまだ胸の中に残っていた。


「実はね、ミミ様も昔同じ力を持っていたんですって。話を聞いてみましょうか」


 肩をぽん、と叩かれて私は我に返った。

 さっきの感覚、これを突き詰めればもっと上手く吹ける気がする。

 私は首を縦に降った。


*************


「それは、託音たくいんだねぇ」


 おばあちゃんはカップにお茶を注ぎながら、私に教えてくれた。

 シドレラがあたしが、と立ち上がろうとするのを、おばあちゃんはにっこり笑って止めた。


「孫達にお茶を注ぐのが、わたしの楽しみなのよ」


「孫だなんて、そんな……」


「シドレラ。ここに住む子達はみんな、私の大事な家族よ」


 おばあちゃんは私の頭を撫でながら言った。

 シドレラは嬉しいような、でもどこか悲しそうな顔で頷く。

 かくいう私も、ミミおばあちゃんと血は繋がっていない。

 でもこうして私に優しさを注いでくれるおばあちゃんは、紛れもなくおばあちゃんなのだ。


「それでファレファ、託音で感じたものをおばあちゃんにももっと教えてちょうだいな」


 おばあちゃんはよっこらせ、と座るとお茶を一口すする。

 私もそれを真似て、ふぅっと冷ましたあとすすった。


「あち!」


「ふふ、慌てないのよ」


 お茶をゆっくり置いてもう一度ふぅふぅ息をふきかけたあと、私は見て、感じたものについて話した。


「まぁ、においに、触った感触まで」


「やっぱり、ファレファには特別な力があるのよ。良かったわね、ファレファ!」


 シドレラは自分の事のように喜んで、私の肩をぽんぽんと叩いた。

 しかし、おばあちゃんはゆっくり首を横に振る。


「いいえ、シドレラ。託音はね、誰もが扱える物なのよ。みんな、その使い方を忘れてしまっただけ」


 もちろん、ここまで強く託音を扱えるのは素晴らしい才能だわ。

 おばあちゃんはそう付け加えた。


「誰もが……」


 俯くシドレラの手を、そっとおばあちゃんが握る。

 彼の左腕には、隠してはいるものの痛々しい傷跡が残っているらしい。

 私には見せようとしないが、その怪我が原因で、もう音が出せないということも知っている。

 でもおばあちゃんは、その左腕をそっと撫でて頷いた。


「ええ。誰にだってその権利がある。いつかあなたが、自分を許してあげられる日が来たらね」


 シドレラはおばあちゃんの手を躊躇いながら取ると、静かに握り返した。


 ピューイ! ピューイ!


 誰かを呼ぶ笛の音が、村のどこかで鳴り響いた。

 シドレラはハッと顔を上げると、目元を拭う。


「困ってるみたい。あたし、行ってくるわ」


「レミシラの所ね。シドレラ、裏から薪と布を持っていってあげて。きっと今夜、生まれるわ」


 シドレラは頷くと、裏手へかけていく。

 おばあちゃんはその姿を見送ると、ゆっくり私に向き直った。


「ファレファ。おばあちゃんに、本当はまだ言いたいことが残っているんじゃないかしら?」


 どきり、と私の胸が鳴る。

 おばあちゃんにはなんでもお見通しなのだ。

 自分の中に渦巻いてる気持ち、これを伝えてもいいものかと、悩んでいたことまで。

 口を開こうとして、言葉が出ずに躊躇う。

 なんて伝えたらいいのか。

 口に出してしまったら、もう、元には戻らないんじゃないか。


 おばあちゃんが、そっと私の手を握る。

 細くてしわしわで、でも暖かい。

 この手は、いつだって私の味方をしてくれた。


「私、外に行きたい」


 絞りだした言葉が、口からこぼれた。

 言うのをためらっていた時は、あんなに言葉が出なかったのに。

 あふれた言葉が止まらない。


「あの時聞いた音、すごかった。思わず聞き入って、私も観客になっちゃうくらいに。お花みたいな衣装がきらきらしてて、みんなが見とれてた!」


 おばあちゃんはただそれを聞いてくれた。

 言葉一つ一つを受け止めて、頷いてくれた。

 それに促されるように、私の心の、もっと深い部分も湧き上がってくる。


「でも、あれはあの服を着たからきらきらしてたんじゃない。きっと赤いお花の人は、どんな格好だってあそこに立てば皆が心を奪われるんだ。私も……」


 これはきっと、良くない気持ちも混ざってる。

 真っ白じゃなくても、おばあちゃんは、ママは、愛してくれるかな。

 皆の前では、いい子でいたい。

 そんな気持ちが壁を作り、最後の言葉が塞き止められる。


 暖かい手が、私の背中に回った。

 私の腕は脆くって、周りの人を困らせちゃう。

 大事に大事にされてきて、でも少し距離を感じていたんだ。

 ママもそう。

 私の事を、めいっぱい愛してくれている。

 けど、私を大事にするあまり、私の手に触れるのを怖がっていた。

 いつしかハグをしてくれなくなったんだ。


 久しぶりに感じた、背中の温かさ。

 それが私の気持ちに覆い被さった壁を溶かした。

 もう、良い子では居られないかもしれない。

 でも、きっとおばあちゃんは愛してくれるんだ。


「私も、お花の人みたいにすごくなりたい。きらきらになりたい。みんなあの人ばっかり見て、ずるい。あの人を、超えたい……!」


 言葉と一緒に涙が溢れて止まらなくなった。

 私は両手では、涙を拭ってもこぼれてしまう。

 だから、あんまり泣かないようにしていたのに。

 しわしわの手が涙を拭ってくれた。

 その優しさにつられて、また滲む。

 何度も、何度も。

 おばあちゃんは私が泣き止むまで、涙を拭ってくれた。


「おばあちゃんもね、昔、外に行きたいって思った事があるの」


 ずび、と鼻をすすりながら、まだ視界がぼやける目で顔を見る。

 懐かしむように窓の外を見つめる先は、どこなんだろう。


「結局、追ってきたおじいさんに捕まっちゃったから、そんなに遠出は出来なかったけどね」


 おばあちゃんは手に持った杖を擦った。

 この杖は、おばあちゃんと結婚した、おじいさんの形見だって聞いた。


「私がどこにも行かないように、私より長生きするって言ってたのにねぇ」


 どこか寂しそうに杖の先を見つめるおばあちゃん。

 その横に座ると、さっきのお返しとばかりに私も優しく抱きついた。


「ふふ、ファレファはやっぱり良い子だわ」


 抱き返され、それを受け入れる。

 静かな時間の中で、家を通り抜ける風がふゆるると流れていった。

 満足して顔を上げると、細い目とまっすぐに見つめ合う。


「ファレファ、おばあちゃんから言えることはこれだけ」


 私は頷いた。

 これからのことに覚悟を決め、会えない間もさみしくないように、おばあちゃんの顔を目に焼き付ける。


「元気で、行ってらっしゃい」


 もう一度、深く頷く。

 頷いたまま、おばあちゃんの手にそっと触れて寂しさをごまかした。

 顔を上げるのは、滲んだ涙を飲み込んでからにしよう。

 ぽん、と頭に手が添えられる。

 顔を上げるまでもう少しだけ、時間がかかりそうだ。

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