カナタへ向かう

@banana-apple

第1話

 朝の陽光が街を柔らかく照らしていた。

 カナタの金髪はその光を反射して、まるで宝石のような輝きを帯びている。編み込まれた三つ編みが肩で揺れ、栗色の瞳には朗らかな笑顔が添えられていた。通りすがりの老婦人が「おはよう」と声をかければ、カナタはぱっと花が咲いたような笑顔で「おはようございます!」と返す。彼女は、生まれながらにして小さな太陽だった。


 校門へ向かう道を、ずんずん、ずんずんと迷いなく歩く。白いシャツの裾が風に揺れ、靴が小さく砂利を弾いた。門をくぐった瞬間、少し遠くで手を振る友達の姿が目に入った。

 カナタは一瞬で気づくと、全身で喜びを表すように大きく手を振り返した。

「おーい! おっはよー!」

 その声はよく通り、空の青さに溶けて、まるで鐘の音のように響いた。友達が「おはよー!」と駆け寄ってきて、自然と笑顔が広がる。


 歩きながらの会話は途切れることがない。

「昨日のドラマさ、最後びっくりしたよね!」

「うんうん、あのキャラがああなるなんて思わなかった!」

「それでさ、最近のアニメもさ――」

 通学路に小さな笑い声が絶えず続き、並んで歩く二人の姿はまるで物語の一場面だった。


 やがて教室に着くと、そこにも友達の輪ができていて、カナタは自然とそこに入っていった。

「今日ってテストあったっけ?」

「私、音楽の授業あんまり好きじゃないんだよねー」

「わかる! あとさ、その公式、どうやって覚えた?」

 そうやってくだらない話で盛り上がり、時間がするすると過ぎていく。

 教室の窓から差し込む朝の光が、彼女の髪を一層金色に輝かせた。


 ふいに、廊下から先生の靴音が近づいてきた。カナタは小さく肩をすくめ、にこっと笑ってから慌てて自分の席へ戻った。教科書を机の上に広げ、真面目ぶった顔で前を向く。けれど口元には、隠しきれない楽しさがまだ残っている。

 先生が出席をとりながら「もうすぐ運動会だ」とか「〇日までに課題を出すように」と告げる間、カナタは時折メモをとりながら、生返事で「はい」と返事をする。その姿は、どこにでもいる普通の生徒……けれど、どこか光をまとっていた。


 やがてチャイムが鳴り、体育の時間が訪れた。

 グラウンドはまだ朝露が残り、白線が陽に照らされて眩しかった。カナタはジャージの袖をまくり上げ、腕を軽く回して準備運動をする。彼女の髪が風に乗り、三つ編みの先が軽やかに揺れた。

「ねえカナタ、今日ってシャトルランだっけ?」

 隣の子が少し不安そうに尋ねると、カナタはにっこり笑って「うん!でも一緒に頑張ろ?」と軽く肩を叩く。その声に、隣の子は安心したように笑った。


 笛の音が鳴り、シャトルランが始まる。

 カナタは無理をせず、けれど決して歩かず、終始笑顔を絶やさない。汗が頬を伝っても、息が上がっても、彼女はどこか楽しげだった。周りの子が次々に止まっていく中で、彼女は最後の一人に手を振り「まだいけるよ!」と叫ぶ。その声は疲労で重くなった空気を少し軽くした。

 結局、クラスでトップクラスの回数を記録したにもかかわらず、彼女は胸を張らない。ただ笑って「お疲れさま!」と皆に声をかけて回った。


 教室へ戻ったころには、昼休みがやってきていた。カナタの机の周りには自然と人が集まる。

「カナタ、昨日の数学の課題やった?」

「うん、でもさあ、あの問題むずかしすぎてさ!」

 笑いながら答える彼女の筆箱からは色とりどりのペンが顔を出す。

「ここはね、こうやって計算したらできたよ」

 隣の席の子に教えながら、彼女はちょっとした絵をノートに描いて解説する。その絵に周りの子が「わかりやすーい!」と笑い声をあげる。カナタは照れたように笑った。


 その笑顔は、空の明るさの象徴だった。


放課後。教室の窓から差す西日が床を赤く染めていた。

 カナタは友達と、他愛もないおしゃべりを続けていた。昨日のドラマの続きを笑いながら語り合い、誰かの恋愛話に「えー!」と声を上げては、頬を手で押さえてにこにこしている。そんなときだった。彼女のスマートフォンが、軽やかな着信音を響かせた。


 「ん?」と画面を覗き込むと、そこには部活の顧問からのメールが表示されていた。

 『今日は急遽部活はお休みとします』

 それを見たカナタは小さく首をかしげた後、すぐにぱっと顔を輝かせた。

 「ねぇねぇ! 今日さ、部活ないって!」

 友達が「え、そうなの?」と目を丸くすると、カナタは楽しげに笑いかけた。

 「せっかくだからさ、どっか行かない? 最近話題の……そう、佐々木堂って知ってる?」

 友達の顔に「おお~!」という表情が広がる。カナタはその反応を見て、もう決まりだとばかりに手を叩いた。

 「よーし、行こっ!」


 放課後の街はどこか柔らかく、学生たちの賑やかな声が風に乗って漂っていた。カナタはリュックを軽やかに背負い、三つ編みを揺らして歩く。佐々木堂――新しくできたフルーツスイーツの店は、以前から気になって仕方がなかった。

 「ここのスイーツが美味しくて有名なんだって!」

 「前々から来たかったんだよね~!」

 友達とそんな会話を弾ませながら歩いていると、やがて目的地の店先が見えてきた。


 だが、そこには長い行列ができていた。

 「わぁ……すっごい人気なんだね」

 思わずしょんぼりと肩を落としたカナタだったが、すぐに気を取り直して笑った。

 「でもさ、こうやって待ってる時間も楽しいよね!」

 「だね~!」

 友達の返事に、カナタはまたにこっと笑う。その笑顔に、待つことの退屈さはどこかへ消え去っていた。


 長い時間をかけて、ようやく順番が回ってきた。

 「やったぁ! やっとだよ!」

 カナタは三つ編みを勢いよく揺らしながら、子どものように小走りで店内へ入っていく。その後ろ姿を見て、友達はつい笑ってしまった。彼女の歩く先には、甘い香りと、柔らかい照明で彩られた空間が広がっていた。


 席につくと、メニューを開くカナタの目は輝いていた。ページをめくる指先が小刻みに動き、今にも「これにする!」と叫び出しそうな様子だ。

 「ねえ、もう決めた?」

 「んー、どれも美味しそうで迷っちゃうね~!」

 友達が笑い、別の子が「あ、これも美味しそうだよ!」と見せると、カナタは「うわぁ~迷わせないでよ~!」と嬉しそうに頭を抱えた。


 やがて全員の注文が決まり、カナタは待ちきれないとばかりに、呼び出しボタンを勢いよく押した。

 「すみませーん、注文お願いします!」

 元気いっぱいの声に、店員さんも思わず笑顔になる。彼女は次々とメニューを指さしながら、まるで宣言のように注文を伝えていく。その様子を友達は微笑ましげに見ていた。


 数分後、テーブルに並べられたのは、まさしく「宝石」だった。

 色とりどりのフルーツが、きらきらと光を反射する。クリームが繊細な波を描き、グラスの中でアイスがほのかに光を受けている。

 「わぁ……!」

 カナタの瞳は星を宿したように輝き、彼女はその場で小さく跳ねた。そして、スプーンを握ると、ためらいもなくパフェへと伸ばした。

 ひと口目を口に運ぶと、彼女はほんの少し目を閉じ、ゆっくりと味わう。

 「…………っっっっおいしー!!」

 突如響き渡ったその大声に、店内の空気が一瞬止まった。けれど、それを恥ずかしがることもなく、彼女は両頬を手で覆って目を輝かせる。

 「こんなに美味しいの、初めてだよ!」

 店員が苦笑しながら注意にくると、カナタは舌をちょこんと出して「えへへ、すみませーん、ついこのパフェが美味しくて……!」とはにかんだ。


 その瞬間もまた、彼女は太陽だった。

そんな、慌ただしくも心満たされる日々の中で――

カナタはひとり、ベッドの上で一枚の写真を眺めていた。


画面越しに浮かぶのは、夏の空と、白い砂浜。

その青と白のコントラストの中で、彼女と友達は笑っていた。


「……あぁ、あの日のことだ」


写真の中の自分に語りかけるように、

彼女は静かに目を閉じ、記憶の扉をそっと開ける。



それは、夏休みのある日のこと。

太陽が高く昇り、空は雲ひとつない青に染まっていた。


「ねえ、海、楽しみだねっ」

電車の揺れに合わせて、小声でカナタは囁く。

少し緊張したような、でも嬉しそうな声だった。


「うん、でも……ちょっと恥ずかしいなぁ、水着姿……」

頬を指先でつつきながら苦笑いするカナタに、

「大丈夫、絶対似合ってるって!」と友達が笑いかけた。


やがて車窓から、海の青が見えてくる。


「わあ、見て!海だ!すっごくキレイ〜!」


「ほんと……綺麗……」

太陽の光にきらめく波を、ふたりは夢中で見つめていた。



駅に降りると、潮風が髪をくすぐった。

すぐ近くにあった更衣室でみんな着替えることになったのだが、

なかなかカナタが出てこない。


「……カナタ?」


戸をそっと開けて覗くと、

カナタはもじもじと足を擦り合わせ、顔を真っ赤にしていた。

水色のワンピース水着に、麦わら帽子。

胸元をぎゅっと押さえながら、「やっぱりちょっと…やだぁ〜…」と呟く。


「もー、可愛いんだから堂々としてなよ!」

友達が手を引っ張り、外へ連れ出す。


「だってぇ…減量うまくいかなかったし、ちょっとお腹ぷにってしてるし…」

そう言いながら、カナタは頬を赤く染めて、笑った。

まるで林檎みたいに、照れくさいその笑顔。


そのとき、ビーチボールを抱えた子がにこっと笑って叫ぶ。


「ビーチバレーしよっ!」


「うんっ、やろやろっ!」



最初は照れくさそうにしていたカナタだったけれど、

ひとたびラリーが続きはじめると、

無邪気に笑って、全力で飛び跳ねていた。


砂が舞い、太陽が肌を刺しても、

楽しさはそれを忘れさせてくれた。



ひとしきり遊んだあと、みんなで浮き輪を抱えて海へ。

波を蹴って走り、浮き輪を投げ、その上にダイブする。


キャーッ!と歓声が響き、

海の上ではしゃぐ声が重なる。

その合間には、日焼け止めの話や、

「このハンディファンすごい風出る〜」なんてガジェット話も。


「暑いね〜!」


「でも最高!」


陽射しの下、彼女たちは笑っていた。


昼になれば、パラソルの影で一休み。

クーラーボックスの中から取り出したお弁当を広げ、

カナタはひとくち、ふたくちと頬張る。


「おいひい、おいひい〜!」

口いっぱいに詰め込みながら、無邪気な笑顔。

その顔に、友達たちは笑いながら写真を撮った。



夕方。

海辺の空が茜色に染まり始め、

「そろそろ電車行かないと」と声があがる。


バタバタと着替えて、急ぎ足で駅へ。

再び電車に乗り込んだとき、カナタは少し寂しそうに窓の外を見つめた。


「楽しかったね…また行きたいね」

その言葉に、みんなが「うん」と頷いた。



――そして今。

その思い出を胸に、カナタは目を閉じて微笑んだ。


「……また、行けるよね。うん」


その呟きとともに、まぶたが静かに落ちる。

夏の夢を追いかけるように、眠りにつく。


翌日、カナタは前日の海の思い出を友達に語っていた。

教室の窓から差し込む春の光は、まるでその時の砂浜のようにあたたかく、

聞いている友人たちの表情もどこかほころんでいた。


その中の一人、ナナコはふと、懐かしい面持ちで語り始めた。


「……私はね、彼女に助けてもらったことがあるの」


その声は少しだけ震えていた。けれど、どこか大切な宝物を語るような、

そんな声音だった。


「あれは、4月のまだ寒さが残る頃だったと思う。

 私はずっと、一人でお弁当を食べてたの。輪に入るのも、話しかけるのも怖くて……

 ただ、教室の隅で黙々と、食べるふりをして時間を潰してたの。

 でもね、そんな私の前に、彼女が現れたの」


その瞬間、ナナコの視線は遠くを見つめていた。

まるで、時間が戻ったかのように。


「こっちを見たと思ったら、彼女の栗色の瞳がスッとこっちを向いてね、

 『君も一緒にお弁当食べよ!』って、なんの躊躇いもなく言ってくれたの。

 あまりに眩しくて、気がついたら頷いてた。……嬉しくて、心が震えたの」


ナナコはそこでふっと微笑んだ。


「それだけじゃなくてね。ちょっとだけ照れながら、

 『このお弁当、自分で作ったんだ〜』って言って、自分のおかずをひょいって分けてくれたの。

 『今日も上手くできてる!』って言ってさ、嬉しそうに笑って……。

 その笑顔が、本当に温かかった」


ナナコはその記憶を噛みしめるように、静かに目を伏せた。


「孤独だった私にとって、それはとてつもなく嬉しかった。

 ……あの光を、あの明るさを、失ってしまうのが怖いって思うほどに」


教室の時間が、少しだけ静まり返った。

言葉にならない気持ちが、そこに確かに満ちていた。


カナタは、少し恥ずかしそうに微笑んで言った。


「こちらこそ……出会ってくれてありがとう、ナナコ!」


その笑顔は、あの春の日と変わらぬ、無垢な輝きを放っていた。


そうやって思い出話に花を咲かせているうちに、すっかり帰りが遅くなってしまった。カナタは慌てて家路を急ぐ。玄関の扉を開けると、リビングの照明がまぶしくて、そこには腕を組んだ母の姿があった。


「深夜は危ないのよ? 早めに帰ってきなさいね?」


その言葉に、カナタは肩をすくめて「す、すみません……」とぺこりと頭を下げる。母は一拍置いて、少し柔らかい声で言った。


「いいわよ。さっ、ご飯、冷める前に食べちゃいなさい。」


その言葉にカナタのお腹がぐぅと鳴る。照れ隠しに笑いながら、食卓へと足を運ぶ。


テーブルには、反抗期真っ最中の弟が既に座っていた。無言でご飯をかき込むその姿に、カナタは小さく問いかける。


「今日も学校、楽しかった?」


「……おん」


ぶっきらぼうな返事。それだけで、会話は終わってしまった。カナタは少し寂しそうに微笑みながら、お箸を持ち上げた。(幼いころはあんなに甘えてきたのに……)


その頃、洗い物を終えた母も食卓に戻ってきて、カナタの話に耳を傾ける。


「今日ね、こんなことがあったんだよ〜。それでね……」


カナタが笑顔で話すと、母も思わず口元をほころばせた。先ほどの怒りなど、もうどこかへ消えていた。弟も、不器用ながらぽつりとつぶやいた。


「オレも、学校でさ……ちょっとだけな。」


なんとなく、家族の輪ができた気がした。ぽかぽかとしたぬくもりが部屋を満たす。ご飯を食べ終えた後、母と並んで皿を洗いながら、カナタは途切れないおしゃべりでキッチンを明るく彩った。彼女は、そう、生まれつきのおしゃべりだった。


弟は先に自分の部屋へ戻っていった。残った母とカナタは、洗い終わった皿を拭きながら、今日一日をゆるやかに振り返る。


その後、自室に戻ったカナタは、ベッドに寝転び、お気に入りの動画をスマホで再生しながら、ふとまぶたが落ちるのを感じた。


こんな日常が、ずっと続くと思っていた。


部屋に差し込んでいた。

その光は彼女の頬をかすめ、柔らかな髪をほの白く照らしている。


カナタはゆっくりと目を開けた。まぶたの裏に、光とともにざらついた映像の残像が残っていた。背中がびっしょりと濡れているのに気づき、寝返りを打とうとして思わず顔をしかめた。シーツが張りつくように湿っている。


最初はそれが何かわからなかった。

だが、数秒後に気づく。汗だ。冷たい、じっとりとした汗。


「…あれ?最近はそんな暑くないよね……?」


つぶやきながら上体を起こすと、少しふらついた。

心臓が不自然に鼓動しているような感覚。胸の奥で、別の何かが脈打っている気がした。


「変な夢でも……見たっけ……」


喉は渇いていた。けれど冷蔵庫まで歩くのが億劫で、代わりに昨夜の夢を思い返してみる。

──確か、何か見た。

蜘蛛と、エビと、人間がひとつになったような奇怪な“何か”。

形容しがたいほどグロテスクなもののはずなのに、どうしてか、怖くなかった。

ただそこにいて、彼女を見ていた。それだけだった。


「……うん、でも、怖くないよね。あれ」


無理やりそう思い込むように言葉を発し、立ち上がる。

けれど、どうにも体が重い。鉛のような重さではなく、内側からねばりつくような、何かに包まれているような。思考も、少し遅れて届くような。

──しかも、よくわからない“声”が聞こえてくる。


誰かが、ささやいているような。

水底で発せられた言葉のように、ぐにゃりと歪んで、意味を持たない音だけが鼓膜を揺らしてくる。


カナタはとりあえず、母を呼んだ。

階下から足音が響き、やがて扉が開く。


「どうしたの、カナタ? 顔色が……」


その声は優しかった。でも、どこか現実感がなかった。まるで、録音された音のように思えた。


「体調……悪いかも」

「そう……熱、測ってみようか」


母は心配そうに額に手を当てたあと、体温計を取り出した。

けれど、熱は平熱だった。それでも、母は今日を休みにしようと即決した。父にも連絡を入れると、彼はすぐさま休みを取って帰ってきた。


その頃には、カナタは既にまぶたの重さに耐えきれず、ベッドに横たわっていた。

再び眠りに落ちる。


──夢。


意識の奥に、奇妙な光景が浮かぶ。

読めない言語。意味のわからない文字列。曲線、螺旋、歪曲した幾何学。

それらが空間の奥に浮かび上がり、脈打ち、うごめいている。


まぶたの裏に焼きついて離れない。

普通なら、ただの意味不明な夢として流していたかもしれない。

けれど、今回は違った。不気味だった。妙に“生きて”いるように感じたのだ。


体を動かそうとしても、動かない。目をそらそうとしても、そらせない。

ただ、見ているしかなかった。異様な、気味の悪い構造体の群れを。

感情というより本能に近い、“何かがおかしい”という警鐘が鳴っていた。


──声がする。


「カナタ? 起きて……病院行くよ」

母の声だ。温もりを含んだ呼びかけに、ようやく意識が浮上する。


彼女は微笑んでみせる。夢のことを忘れたふりをしながら、顔を洗い、着替えた。

けれど、心の奥にざらついた何かが残っていた。まるで目の裏に砂を入れられたように、ひっかかる感触。


父の運転する車に乗り、近くの病院へ向かう。

検査を受けるが、どの数値も正常だという。血液検査も、脳波も、問題なし。

医者は首をかしげた。


「どこから見ても、健康体ですね……」

「でも、なんか……疲れてる顔してるよな」父がぽつりとつぶやいた。


医者の眼差しが、一瞬だけ鋭くなる。けれど、すぐに笑みに戻った。


「ストレスか何かかもしれませんね。しばらく様子を見てください」


──そうして、時間が過ぎていった。


家に帰る頃には、彼女の体調も少しマシになっていた。

悪夢の記憶も、だんだんと薄れていく。まるで、最初からなかったように。


けれど、夢の中で見た“曲線”は、ふとした瞬間に思い出された。

電柱の影。道路のひび割れ。文字の一画。

どれも、どこかあの夢に似ている気がした。


それでも彼女は、その夜、再び眠りにつく。

まだ、自分の心がほんの少しずつ侵食されていることに──気づかぬまま。


すっかり体も軽くなり、呼吸も苦しくなくなった彼女は、久しぶりに制服の袖を通した。太陽の光がまぶしい。朝露の残るアスファルトを踏みしめる感触が、なんだか懐かしい。

彼女――カナタは、少し緊張しながら学校へ向かった。今日はきっと、普通の日になる。あの夢も、変な声も、全部寝不足か何かだったんだ。そう思おうとしていた。


昇降口で靴を履き替え、廊下を歩きながら、カナタはクラスの友達を見つける。自然に声をかけようとした、そのときだった。


「いゃゎ°!」


口から出た、自分のものとは思えない音。耳慣れない奇怪な発音。言葉ではない、けれど何か意味があるような気もする。


――え?今、なんて?


自分の声に驚き、思わず口元に手を当てる。けれど、何事もなかったかのように微笑みながら、言い直す。


「おはよー!」


振り返った友達たちが、駆け寄ってきた。笑顔の中に、わずかな心配の色が混ざっている。


「さっきさ、なんか変な声聞こえたけど……大丈夫? 誰かに襲われたりしてない?」


「え?……あ、ううん、大丈夫。きっと幻聴じゃないかな?」

カナタは、心臓がどくん、と大きく打つのを感じながら笑った。

みんなの顔を見ていると、自分の耳がおかしいのか、本当に自分が発したのかもわからなくなる。


そのまま、何事もなかったように授業が始まる。次第に不安も和らいでいく――はずだった。


昼休み、友達と机を囲んで話す。いつものドラマの話で盛り上がっていたとき、また、それは来た。


「あのシーンって本当にさ°ょぬゃわだよね!」


沈黙。時間が一瞬だけ止まったような空気。


「……さよぬわ?って、なに?」


友達の一人が、首を傾げる。カナタは一瞬凍りつき、すぐに取り繕うように言葉を返した。


「えっ、あー、なんか頭に思い浮かんでさ〜、なんとなくだよ! すごいロマンティックって言ったの、私!」


言葉を濁しながら笑う。友達は顔を引きつらせたが、すぐに安堵したように笑い返した。


「あ〜、びっくりした! なんだ、新しい言葉遊びでも始めたのかと思った!」


「そ、そうそう、最近ちょっと本とか読んでてさ〜……」

カナタは視線を泳がせながら、曖昧に言葉をつなぐ。


友達の一人が、ふと真剣な表情になってカナタの手を握った。


「ほんとに……何かあったら、私たちに言ってね。カナタは一人でもすごいけど、私たちは、味方だから」


その言葉に、カナタは目を瞬かせ、うっすらと微笑む。

だけど、その笑顔の奥には、言いようのない不安が渦巻いていた。


――さ°ょぬゃわ、って……何? 本当に私が言ったの? なんで、こんな言葉が口を突いて出るの?


その正体不明の発音が、どこか頭の奥でうごめいているような気がした。

知っているようで、知らない。けれど、心のどこかが反応している。そんな奇妙な感覚。


放課後、教室を出ようとしたとき、廊下の先に友達の姿が見えた。思わず声をかけようと、息を吸って――


「いゃ°ゎ!」


まただ。あの声が出る。カナタの表情が一瞬で凍りついた。


口を押さえる。なぜ? なぜ私は、言葉を正しく発音できないの?

まるで、誰かが喉の奥から操っているみたいに、勝手に言葉が捻じ曲がってしまう。


不安と恐怖が押し寄せる。友達に聞かれたら、また変な子だと思われる。

何かが、確実に狂っている――自分の中で。


その日以来、カナタは友達と距離を取るようになった。

「また変な言葉が出るかも」という恐れが、彼女の言葉を封じ込めた。


教室の中で、彼女は次第に静かになっていった。声を出すことが怖くなった。

笑顔も、言葉も、まるで仮面のようになっていく――本当の「自分」を、誰にも見せないように。


そんな日々の中でも、なにかが変わり続けていることには彼女自身も気づいていた。ノートにふと書いた曲線の連なり、何気なく口をついて出る文字列──かつては意味不明にしか思えなかったものたちが、今は少しずつ、意味を持ち始めている気がする。


「……私、これ、わかる……」


誰にも言えない。それは常識という名の壁に触れてしまうから。自分が壊れているという実感は、日々を薄く蝕んでいった。


そんなある日、数学の課題をめぐって先生に呼び出された。


「おい、カナタ。ちょっと来なさい」


職員室の机の上に開かれたノート。その中身を見つめる先生の顔には、困惑を通り越した、ほんのわずかな恐怖すら浮かんでいた。


「これは……なんだ? 何を書いている? 意味のない記号の羅列にしか見えんぞ」


ノートには、数式とも言葉ともつかない曲線、捻れた符号、ぐにゃりと曲がった言語が幾重にも走っていた。それは彼女にとって“読める”ものだった。


「せ、先生……これは、宿題です。ほら、ここなんて《さ°ょぃく》って書いて──」


言いかけて、言葉が詰まる。


先生の目が、ぎゅっと細まる。「……さよ? なんだって? 真面目に答えているのか?」


問い詰める声に、背筋が凍る。怒られているわけじゃないのに、圧迫される。知らず、涙が頬を伝っていた。


「なゃ……かいてるの、ぃ……どうして……どうして、わかってくれないの……」


ぽつりぽつりと壊れていく言葉。その隙間から彼女の苦悩が滲んだ。先生は、その様子に思わず言葉を失った。


「……本当に、これが読めるのか……?」


彼女はこくんと頷いた。そして、震える指でノートを指しながら、朗読を始めた。


確かに文章として意味が通じていた。発音のいくつかはおかしかった。だが、不思議な抑揚と音の繋がりは、どこか説得力を持っていた。あたかも、彼女だけが理解できる“何か”を見ているようだった。


先生はしばらく黙ったまま彼女を見つめていたが、やがてため息をつき、「……わかった。今日はもう帰って、早く寝なさい」と優しく言った。


カナタは、泣きそうな顔のまま、ノートを胸に抱えながら職員室を後にした。


その夜──


布団の中で彼女はうずくまる。言葉が壊れ、文字がざわめく。音が、意味が、常識が、少しずつ剥がれ落ちていく。


「なんで……わたしだけが、こんな目に……」


「どうして、言葉が通じないの……」


そう呟いて、一粒の涙が枕を濡らす。やがてそれも乾いて、彼女はまた、ひとり眠りの底に落ちていった。

夢を見る。


それは夢であって、夢ではなかったのかもしれない。

何かが、じっと、彼女を見つめていた。


それは蜘蛛のような頭部を持ち、口のまわりには脚とも触手ともつかないものがびっしりと生え、蠢いていた。

その胴体は濡れた甲殻のように鈍く光を放ち、ゆるやかに脈動している。

腕はパンパンに膨れ上がり、どこか人間に似た形をなしているが、それにしては異様に毛深く──ただ、その毛のような繊維も生物のものには見えず、何か…布の裏地のような、不快な規則性を持っていた。


足は人間の形を模したかのような逆関節。つるつるとして、しかしどこか硬くも柔らかくもない、機械的に見える質感。


それが、こちらを──彼女を、カナタを、見ていた。


(目を…そらさなきゃ…)


そう思っても身体は動かない。

声も出ない。

ただ見つめる。

その存在を凝視してしまう。


近づいてくる。

あの何かが、カナタの方へ。

触れられる前に──


彼女は、跳ねるようにして目を覚ました。


息が詰まりそうな胸。心臓が耳の奥でドクドクと響いている。

一瞬、まだあの“それ”が部屋にいるのではと思ったが──

「カナター、ごはんよー」という、母の声に救われる。


(…夢、だよね?)


安堵と混乱の入り混じるまま、制服に袖を通し、鞄を持ち、日常へと滑り込んでいく。


朝のあいさつ。


「いゃ°ゎ!」


自然と出たその一言。

彼女には、それが変な言葉だという認識はもうない。

それどころか、その音に含まれる“意味の層”までが、手に取るようにわかるようになっていた。


母がこちらを見る。怪訝な表情。

でも、カナタからすれば“普通の会話”のつもりだった。


朝食もいつも通り。

(大丈夫、話せてる!きっと、ちょっと変な言葉が混ざってただけだ…!)


そう思い、心に自信を取り戻して学校へ向かう。


教室の中。

「明日の運動会、楽しみだね!」

満面の笑みを浮かべて声をかける。


……返ってきたのは、笑顔――に見えたが、目は驚きと困惑に揺れていた。


(あれ、今、ちゃんと…)


周囲のクラスメイトが、ヒソヒソと囁く。


「あの子…また変な言葉…」

「なんか最近ヤバいよね…」

「怖いし、近づかない方がいいかも…」


カナタは気づかない。

というより、その“奇妙な言葉”が異常だという感覚を、とうに失っていた。


「かぁやがみぇる、ね? 明日がたのしぃゎ」


うれしそうに話しかける。

だが、また友達は去っていく。

彼女は、わからない。


(なんで? ちゃんと話してるのに……)


その日、帰宅してすぐ、母に言われた。


「カナタ……病院に行きましょう。精神科。最近のあなたは、どう考えても……普通じゃないのよ」


言葉が通じていないのではない。

違う言語に生きてしまっている。


カナタは、ただ首をかしげる。


「いゃ、だぃじ°ょふだよ…」

笑顔を浮かべて、こう言った。


「ゎた、へゎぉ!」


母は震えながら言った。


「そんなわけ……ないじゃない……」


運動会を楽しみにしていたはずの日、

カナタは母の手に連れられて、精神科の扉をくぐる。


“それ”に見られた朝から、すべてが変わってしまった。

診察の番が回ってきた。

母は、彼女──ヒナタの髪の色が、まるで色味が抜け落ちたようでありながら、同時にどこか鮮やかにすら見える、その奇妙な視覚の揺らぎに戸惑いながら、診察室へと向かわせた。


心理検査がいくつも行われた。結果は「正常」。だが、明らかに異常だった。医師はその矛盾に眉をひそめ、「特例」という形で隔離病棟への措置を決めた。

彼女にはノートなど、いくつかの私物を持ち込むことが許された。けれど、それは彼女の「個」を守るためではなく、観察と記録のための方便に過ぎなかった。


病棟で彼女は意味不明の言葉を発しつづけた。

「いゃ°うぁう、らなぁ°わぁ!」

「いゃしきゎす°」

「ぜぇ、っ」

……何かを伝えたがっているようだったが、看護師たちにはさっぱり意味がわからなかった。だが、彼らは日々声をかけつづけた。最初こそ彼女も何らかの反応を示していたが、やがて彼女は「怪訝な顔」を見せるようになった。


そう、カナタの世界では──

「言葉」そのものが異端になっていた。


「何を言っているの?」

「わからないよ」

彼女がそう言っても、返ってくるのは謎の音だけだった。

言語の系が崩れ、世界との接続が絶たれていった。もはや、双方にとって互いの言葉は「通じない音」でしかなかった。


やがてカナタは、眠り続けるようになった。

目覚めても意識は朦朧とし、彼女は夢の中でこう呟いた。


「ひとつに、なる」


そして──カナタの意識は沈んだ。



ナナコは、彼女の異変を感じ取っていた。

学校でのカナタは、どこか抜け殻のようで、何をしても上の空だった。それでも笑っていた。空っぽの笑顔だった。

不安を拭えなかったナナコは、勇気を振り絞ってヒナタの母に連絡を取った。


「カナタさんは……特別な状態で……今は会えないんです」

「来ようなんて思わないでくださいね?」


言葉は柔らかいが、含まれる拒絶は鋭かった。

──それでもナナコは走った。

息は荒れ、肺が焼けるようだった。喉の奥が金属をこすったように痛む。血の味がした。


辿り着いた病院では、看護師が待ち構えていた。読まれていたのだ。

だが怯まず、彼女はその隙を縫って駆け出した。

願いはただ一つ。どうか、カナタが無事でいてくれますように。


病室の札に、彼女の名前を見つけた。

扉に手をかけた瞬間──**コン、コン、コン……**と音が聞こえた。

次第に音は勢いを増し、**ゴン、ゴン、ゴン……!**という重い響きへと変わっていった。


鉄のような匂い。薬品とは異なる、どこか生臭い金属の臭気。


ナナコはおそるおそる覗いた。


──そこにいたのは、三つ編みを揺らしながら壁に頭を打ちつけつづけるカナタだった。

「か°ゃな°ゎう……か°ゃな°ゎう……」


彼女は笑っていた。

だがその笑顔は──もはや「感情」などとは無縁のものだった。

表面だけが形を保ち、中身はもう空だった。


ナナコはその光景に腰を抜かし、思わず音を立ててしまった。

駆け寄ってきた看護師が彼女を抱え上げる。


「だから、来ないほうがいいって言ったのに……」


ナナコは運び出されながら、あの病室の窓を見つめ続けた。

まだそこに、カナタが──カナタの“殻”がいた。


その時、病室の中で壁に頭をぶつけつづけていたカナタが、一瞬だけ動きを止め、

その首がぎこちなく、わずかにナナコの方を向いた。


彼女は呼んだ──

「カナ──!」


……しかし、その目には何の光もなかった。

身体が勝手に反応しただけ。

友人への情や記憶ではない。

それはまるで、首もげトンボが風に揺れるような、ただの反射だった。


「ソレ」は再び壁に頭を打ちつけ始める。

ナナコの中の“カナタ”は、完全に壊れた。


あとがき


いやはや彼女は不幸でしたね、お悔やみ申し上げます〜。

ところで彼女を真に殺した犯人は誰なのでしょう?この小説を書いた私?未知の怪物?それとも先へと進んだあなた…?

答えはいくらでもあるでしょう。

…これは私の持論ですが、物語は読まれることで完成すると思っています。つまり読み切らなければ幸せな物語の世界があなたの中に存在するようになるのです。けれど先へ進んでしまったが故に、その楽園は地獄と化した。これって共犯だと思いません?

なーんて。

嫌な想像、できちゃいますね。

読んでくれて

ありがとうございました。

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カナタへ向かう @banana-apple

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