無防備な少女は、それでも前を向く ~無力な僕は彼女たちの唯一の希望らしい~

ローワン

第1話 日常、そして


放課後のチャイムの余韻が、まだ廊下に微かに残っていた。

高槻湊たかつきみなとは、指定された教室の、少し立て付けの悪いドアに手をかける。


ガラリ、という音と共にドアを開けると、そこには気まずい、冷たい沈黙が満ちていた。まるで真空パックされたかのような、息苦しい空気が湊の肌に触れる。


「あ……湊」


教室の中央に座っていた幼馴染の春香はるかが、彼に気づいて小さな声を上げた。


「やぁ、春香。春香も呼び出し?」

「う、うん。なんでだろうね……」


彼は軽く手を上げて応え、その場の誰ともそれ以上言葉を交わすことなく、一番後ろの空いている席へと向かい、静かに腰を下ろした。


(春香が呼び出されてるってことは成績のことじゃないな)


ここから、この放課後の空き教室に集められた災難な生徒たちの観察が始まった。

彼の視線は、まずもっとも遠い窓際に立つ黒髪の少女へと向かう。

彼女だけが、この教室で座ることを拒否していた。


橘夏姫たちばななつきだ)


腕を組み、校庭を眺めているその横顔に、感情の色は浮かんでいない。

橘夏姫。頭脳明晰、スポーツ万能。陸上のやり投げで全国大会に出場するほどの有名人だ。


その名声以上に目を引くのは、モデルのように完璧に整った顔立ちだった。大きな黒い瞳に、きりりと引かれた意思の強そうな眉。その冷たいまでの造形美は、男子生徒が気安く声をかけるのを躊躇わせる何かがあった。まさに高嶺の花、という言葉がしっくりくる。


彼女の周りにはいつも、人を寄せ付けない空気が流れていた。誰にも媚びないその鋭い眼差しは、孤高という言葉がよく似合った。


次に、彼の視線は教室の中央へと移る。

隣り合って座っているのは、幼馴染の春香と、クラスメイトの真冬。


小日向春香こひなたはるか。肩までの色素の薄い茶色の地毛に、どこか自信なさげな大きな茶色の瞳。顔のパーツひとつひとつが、完璧に整っているわけではないが、それらが彼女の小さな顔の上で組み合わさると、不思議と愛らしい調和が生まれていた。


とくに少し困ったように眉を下げて笑う時の表情は、見る者の庇護欲をかき立てる。それは、昔から隣で見てきた湊が、誰よりもよく知っている彼女の魅力だった。


隣の雪峰真冬ゆきみねまふゆは、最近転校してきたばかりのクラスメイトだ。

ふんわりとした栗色の髪を一束にまとめている。まるで人形のように整った顔立ち。夏姫が氷の彫刻のような、人を寄せ付けない美しさなら、真冬は精巧に作られたビスクドールのような、どこか人間離れした美しさだった。


常に浮かべた穏やかな微笑みと、誰に対しても分け隔てないその優しさは、多くの男子に「自分は特別なのでは」という致命的な勘違いをさせた。転校してきてからまだ日は浅いが、すでに何人もの勇者が彼女に告白し、そして見事に撃沈していったのを湊は知っている。


何より目を引くのが、その豊かな胸の膨らみだ。彼女は少し大きめのカーディガンでその豊満な体のラインを隠しているが、すでに男子の間では噂になっていた。


「大丈夫、春香ちゃん?きっと、すぐ終わるよ」

「うん………でも、なんだか嫌な予感がするっていうか………」


真冬が心配そうに囁き、春香が俯きながらか細い声で応えるのが聞こえた。

春香は落ち着きなく自分の指先をいじっている。

少し大きめのブラウスが、彼女の華奢な体をさらに心許なく見せていた。


最後に、湊は彼女たちの斜め後ろに座る少女に目を向けた。

上履きの色から、後輩だとわかる。初対面のはずだ。


彼女はスマートフォンに視線を落としていたが、湊が席に着いたのを察すると、すっと立ち上がり、彼の隣の空いている席に何の躊躇もなく腰を下ろした。


高槻湊たかつきみなと先輩、ですよね?湊先輩ってよんでもいいですか?私、一年の綾辻楓あやつじかえでって言います。よろしくお願いします」


甘えるような声と共に、ふわりとシャンプーの香りがした。


「あ、ああ。よろしく」


楓はにっこりと、あざとく完璧な笑顔を彼に向ける。

ボブカットの黒髪に包まれたその顔は、まるで小悪魔的な猫のようだった。少し吊り上がった大きな瞳。小さく整った鼻筋。そして、きゅっと上がった唇の端。


その計算され尽くした表情には、それが演技であると頭では分かっていても、心が抵抗することを許さない、圧倒的な説得力があった。


(…いや、距離近くないか?普通、初対面でこんなに詰めるか?)


思わず顔が熱くなるのを感じる。

湊がその人懐っこすぎる態度に戸惑っていると、


不意に、


ザザーッ ザザーッ


教室のスピーカーから耳障りなノイズが鳴った。


湊が思わずスピーカーに目を向けた。


そして気づく。

世界から、ふっと音が消えたことに。


窓の外から聞こえていた野球部の掛け声も、

サッカー部のホイッスルも、

吹奏楽部の楽器の音も、


何の予兆もなく、すべてが消え失せたのだ。


少女たちの動きが、ぴたりと止まる。

窓の外の景色が、水彩絵の具のように滲み始めた。


そして、次の瞬間。


湊の目の前が、真っ白な光に包まれた。

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