ドグマ・ルーアッハ
三科享史
プロローグ
“永遠の春”
「……ねえヴェイル、いつになったら悪魔を捕らえて来てくれるの?」
彼女は開口一番、痺れを切らしてそう言った。
穏やかな牧歌に歌われる光景のように暖かな草原で、淡い新緑の葉がキラキラと不規則に瞬く。柔らかく清々しい風が吹き上げると、彼女の美しい白金の髪がふわりと靡いた。彼女は景色の一部で、景色は彼女の一部だった。
永遠の春。
ヴェイルは右目を手で覆って庇いながら、ぼうっとそれに見惚れていた。彼女が歩き出したが、ヴェイルは歩けなかった。霞んだ視界が傾いて、ガクッと落ち込んだ——立っていることすらままならないとは。
「言ったでしょ、あなたの世界で『
「……ルアハ、物騒な話はやめにしないか?」
「ヴェイル! あなたはいつもそうやって……。あなたにしか私の声は聞こえないのよ。私たちには負うべき責務があるの」
「僕の声だって君にしか聞こえない。せっかく夢の中なんだ、難しいこと言わずに前みたいに遊んでくれたっていいだろ?」
「だからこれは夢じゃないって、何回も言ってるでしょ! あなたのその右目は——」
ルアハはそう言いながら振り返って、硬直した。
彼女の透明な瞳に、右目から溢れ出る血で両手を濡らした薄汚い少年が写っていた。ヴェイルは左目を見開いてぎこちなく笑ってみせる。
息を吸う音が聞こえた。
「——どうして、そんなことになってるの⁉︎」
「ごめん」
ルアハは駆け寄ってきて、ヴェイルの血まみれの頬を手ですくおうとした。しかし、ルアハの指はヴェイルの体を貫通する。夢なのに傷は治らないし、徹底して触れられないなんて酷いよなあ——とヴェイルは心の中で呟きつつ、彼女に擦り寄るように体を傾けた。
「悪魔憑きと戦ったの?」
「ん、いや、なんでもないよ。ただ突然切り付けられただけさ」
「何でもなくていきなり切り付けられるわけないでしょ⁉︎ きっと目を見られたんだわ……。もしかしたら私のことがバレたかも。早く口封じを……」
「無理だよ」
ヴェイルは少し鼻で笑いながら言った。
「だって僕には……武器もない、明日の食事もない、もう何もできない」
「ヴェイル⁉ しっかり……」
「もし、君の言ってることが本当だったとしても……君の望みを叶える力は、最初から僕にはなかった。今まで騙しててごめん」
「ヴェイル!」
彼女のこんなに必死な声は、ゲームでコテンパンに負かした時以来に聞いた。ヴェイルは声を漏らして笑った。瞼は下りていた。死ぬにはこれ以上ないロケーションだと思った。
「ヴェイル、ヴェイル! 目を開けて、食事がないってどういうこと? あなたは裕福な家の子供じゃなかったの?」
「夢の中でくらい、いいだろ? ここじゃ、怪我は治らないけど格好は自由だ。いい格好してさ、そしたらちょっとは君に似合う男に……」
「全部嘘だったって言うの⁉︎ 待ってよ、ねえ……」
「栄養も血も足りない。傷口が広くて感染も免れない。もちろん処置なんてできない。もう駄目なんだ、ルアハ、だから今だけ抱きしめてくれないか」
「っ……」
ヴェイルの口角は上がっていた。ふわふわした心地で、素直にルアハに甘えることができた。
「それは……それはできないのよ、ヴェイル……」
「…………」
「……ヴェイル? 聞こえてる? ねえ」
彼女の声がぼんやりと遠のいていく。
——文字通り、クソみたいな人生だった。
十一の秋、唯一の家族だった母を失った。勤め先で客に頭を殴られて、それで死んだそうだ。
その夜に、ヴェイルは知らない男たちに拐われて国境を越えた。そのまま待つ地獄と、檻を出て自ら掴み取る地獄——ヴェイルは後者を選択したが、その選択が良かったとは言えない。
街に生きる奴らが人間だとすれば、ヴェイルは痩せ細った意地汚い鼠だった。奴らの視線を避け、日陰に身を隠して残飯を漁る……しかし同族はそこにもいる。そして大抵の鼠よりも、ヴェイルは小柄で弱かった。
ルアハが夢に出てくるようになったのは、そうなってからすぐのことだった。永遠の春、つまり彼女は、ヴェイルを抱き留めるように包み込んだ。
救われたのだ。
「ヴェイル——死んじゃ駄目」
風がない。この世界も終わりが近づいている。
ヴェイルが死ねば、ルアハのことを知る人間はいなくなる。それは彼女も死を迎えるということだ。彼女は幻だから。
「……決めた。今、力を使うわ。これで、私は一旦消えちゃうけど……」
現実のヴェイルの惨状を知って、幻滅しただろうか。だが仕方がない。実際見栄だけの男だった。
ああ……、何のための人生だったんだろう。
「私の祝福は『予言』。ヴェイル、あなたが助かる未来を探り当ててみせる——」
深い闇に沈んだ意識が閉ざされようとした、その時、一筋の光が差した。それは彼女の白い腕だった。
彼女はその手のひらで何かを拾い上げた。いや、それはヴェイル自身だった。ヴェイルは目ではない何かで灰色の世界の形を認識していた。彼女は瞼を閉じ、祈るように頭を垂れる。
その額に、瞳のように見える菱形の紋様が現れていた。
——貫かれたような感覚、
彼女と出会った時と似ている。
「——ヴェイル、目を覚まして。そうしたら、立ち上がって、振り返って。そして歩くの。するとたくさんの人がいる中を、ある一家が乗った馬車が通るわ。その中の少年が、あなたを見つけてくれれば、あなたは助かる。分かった?」
「……?」
「その少年は……いえ。もう時間がないわ。今はただ、生きて、ヴェイル。さあ、目を覚まして」
……温度が戻ってくる。
ヴェイルは目を覚ました。
そうしたら、立ち上がって。
振り返って。
そして歩くの。
「…………」
それは、歩いているというより這いずるという方が適切な有様だった。
足音に心臓が竦んだが、そのあまりの多さにすぐに感覚が麻痺した。
その中心を割って進む軽快な音は、何を考えても手遅れだったあの夜、ヴェイルを故郷から切り離したものと同じだった。しかしあの時と違って、ヴェイルは既に全てを失っていた。
慌ただしい気配と共に、ヴェイルの左目の網膜に光が瞬く。
「——止めてくれ!」
知らない少年の声で馬車が減速する。彼は陽の光の透ける銀髪をさらりと風に乗せて、停止を待たずに身軽に飛び降りた。そして制止を振り切って迷いなくヴェイルに駆け寄ると、肩を掴んで顔を上げさせる。
「ッ目が。……大丈夫だ、おれが医者に診せてやるからなっ」
彼は圧倒的なまでの正義感を背負ってそう言って、そのまま、日の下にヴェイルを引き摺り出していった。
カラッとした、初夏の日だった。
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