ベスト犬ワン

大善山

犬神 

犬神 『ベスト犬ワン』

概要

東京・葛飾区立石を舞台に、落ちこぼれの青年が突然犬の姿になり、人間関係と家族の絆に向き合っていく物語。家族と愛をテーマに、笑いと涙が同居する現代のお伽話である。


あらすじ

奥山大介は25歳、高校中退後は仕事も続かず、パチンコや競馬などに明け暮れる半グレ生活を送っていた。母親のさやが営む小さな食堂に帰ることも滅多にない。ある晩、酔った勢いで駐車場の車に石を投げ、通りすがりの野良犬をもてあそぶ。そこへ顔が犬の老人が現れ、「少しの間、犬の気持ちを味わってみなさい」と杖で頭を叩く。目を覚ました大介は、自分が犬になっていることに気付く。


戸惑う彼は、母の食堂に帰るが言葉は通じず吠えるばかり。さやはそれでも「お腹空いてるの?」とチャーシューを与え、優しく頭を撫でる。その後、ひったくりから母のバッグを取り返し、交番勤務の警官・大沢武に褒められる。飼い主がいないと知った署は保健所行きを検討するが、武は自宅で預かると宣言。大介は大沢家に引き取られ、妻の洋子、空手部の娘さくら、柔道部の息子健太郎と交流を深めていく。


大介は犬として奔走しながらも、自分が以前軽蔑していた「家族の温かさ」に触れる。さくらと健太郎の忘れ物を届けたり、誘拐事件を嗅覚と推理で解決したりと活躍し、三度も表彰される。その一方で、大沢武の西部警察への憧れ、隠しごとが妻にばれて喧嘩になる姿など、家庭内のドタバタにも巻き込まれる。


物語の後半、大介は母の体調不良を察知して武に伝え、救急搬送に貢献する。誘拐事件では工事現場の音に反応し、さくらと健太郎を救出した。功績を重ねるうちに、大介は次第に人間としての価値観を取り戻し、母への罪悪感や家族の愛に気付き始める。最後に再び犬神が現れ「犬として生きれば人間の記憶は消える」と告げるが、大介は家族への思いを断ち切れず人間としての人生を選択する。


一年後、大介は父の遺した食堂を継ぎ、立派な店主として汗を流している。大沢家は客として訪れ、五右衛門(大介が救った子犬)は立派な秋田犬に成長。大介は“ワンコ”だった頃の面影を残しながら、今度はアキラそっくりの野良犬を引き取り、家族のように迎え入れる。店の壁には、かつて犬だった大介の「尋ね犬」ポスターが貼られ、犬神風の仙人が遠くから微笑む。笑顔と涙が交錯しながら物語は幕を閉じる。



プロローグ


葛飾立石の雑踏に紛れて、奥山大介は今日もふらふらと歩いていた。25歳、職歴も定まらず、高校は中退。パチンコ、競馬、安い酒。そんな日々が彼の日常だった。母親のさやが営む小さな食堂に帰ることもめったになく、帰ればカネをせびるだけ。友達と呼べるのは、工事現場で知り合った年下のアキラくらいで、彼もまた行き場のない青年だった。


その夜も、大介は酔っていた。缶チューハイの空き缶を蹴り飛ばしながら、駐車場の車に石をぶつけては笑っている。そこに一匹の野良犬が通りかかった。


「おいおい、こっち来いよ」


大介はポケットからビーフジャーキーを取り出し、犬の鼻先にちらつかせた。犬が喜んで寄ってくると、大介はそれをヒョイと引っ込め、自分の口に放り込む。腹を空かせた犬は吠え、それが耳障りで大介は苛立った。

「うるせえ!」

靴先で犬を蹴飛ばす。犬は悲鳴を上げながら飛ばされ、暗がりに消えた。ふと横を見ると、小さな老人が立っていた。着物に杖、しかし顔は犬そっくりだ。目は潤んでいて、どこか人間離れした気配を纏っている。


「なんだ、お前…化け物かよ」


「お前さん、少しわしらの気持ちをわかってみんかのう」


老人はそう呟くと、杖で大介の額をコツンと叩いた。大介は思わずよろけ、近くのベンチに倒れ込む。頭がぐわんと揺れ、意識が遠のいていった。


犬神風仙人

目が覚めると、見慣れた世界が歪んでいる。視線が地面すれすれで、周囲の物が巨大に見えた。誰かが話しかけてくる。


「あら、おはよう。よく寝た?」


ジョギング中の若い女性が近づいてきて、大介の頭を撫でた。その手の感触に違和感を覚えながらも、なぜか気持ちがいい。起き上がろうとすると、体は四本足で動いていた。


「え…? なんだこれ、俺の体じゃない…」


口から出た声は言葉にならず、ワン、と短い吠え声が漏れる。目の前を通り過ぎていく散歩中のドーベルマンが、低い唸り声を上げて威嚇してきた。大介は本能的に尻尾を丸め、相手が通り過ぎるまで震えた。心臓の鼓動が早い。落ち着いたころ、隣のベンチで寝ているアキラに気づく。


「おい、起きろよ…アキラ!」


必死に叫ぶが、アキラにはただの犬の吠え声にしか聞こえない。アキラは眠そうに身を起こし、ポケットからビーフジャーキーを取り出して投げる。


「うるせえんだよ、これ食って黙ってろ」


大介の体は反射的にジャーキーに飛びつき、バリバリと噛み砕いた。脂の旨味が口いっぱいに広がり、思わず尻尾を振っていた。咄嗟に鏡代わりの水たまりを覗く。そこに映っていたのは、茶色い毛並みの中型犬——自分の姿だった。


「なんじゃこりゃ…!」


しかしその声も、ただの遠吠えとなった。


第1幕

1.母のもとへ


混乱しながらも、大介は自分の足が自然と馴染みの路地を目指していることに気付いた。鼻先には、懐かしい香りが運ばれてくる。チャーシューの甘い匂い、味噌の風味…。母・さやが営む「奥山食堂」の仕込みの匂いだった。


裏口の扉はいつも通り半開きになっていた。大介は器用に鼻先と前足で押し開ける。厨房では、さやが黙々と仕込みをしている。彼女の背中は小さく、白髪が増えた。


「ワン…ワン!」


大介は呼びかけたが、声は吠え声だ。さやは振り返り、犬の姿の大介を見ると微笑んだ。


「お腹空いてるのかい? ちょっと待ってな」


さやはチャーシューを切り分け、一切れを手のひらに乗せて差し出した。大介は夢中で頬張る。肉汁が舌に染み渡り、思わず唸り声が漏れた。「こんなに旨かったか?」と驚く。さやは犬の頭を優しく撫でながら、独り言のようにつぶやいた。


「うちの大介はね、どこで何してるのか…もういい年だけど、ちっとも帰ってこないよ。たまに帰ってきても手伝いもしないで、寝てばっかり。あんたがいてくれたらねぇ…」

さやの視線の先には、小さな写真が飾られていた。そこには若い頃の大介と、亡き父・五郎が並んで写っている。笑顔の父は5年前、心筋梗塞で厨房で倒れて亡くなった。さやは写真をなで、亡き夫を思い出していた。大介はその光景を見て胸が詰まる。しかし犬の姿では何も伝えられない。ただチャーシューの残りを求めて吠えることしかできなかった。


うますぎる味がしみ込んだチャーシュー

2. ひったくりと初めての手柄


そのとき、外からバイクの音が聞こえた。店の前に二人乗りの原付が停まり、後ろの男がさやの背後から鞄をひったくって逃げようとした。



「きゃあっ!」


「このヤロー!」


犬の本能と、息子としての怒りが同時に湧き上がった。大介は猛然と飛び出し、二人乗りのバイクを追う。原付のスピードは遅く、犬の脚の方が速かった。横から飛び掛かってバランスを崩させ、バイクを倒す。ひったくり犯は倒れ込んでうろたえた。


「ワンッ!!」


大介は歯を剥き出しにして威嚇し、犯人たちは震えあがる。そこへパトロール中の制服警官が駆けつけた。大沢武、40歳。西部警察のような活躍を夢見るが、実際は交番勤務でくすぶっている男である。彼は大介のそばに立ち、犯人たちを手際よく逮捕した。


すごいぞ、お前! ありがとう!」


大沢武は笑顔で犬の頭を撫で、敬礼した。周りの通行人も拍手し、さやは涙を浮かべて礼を言った。


しかしその後、警察署で問題になった。ヒーロー犬の飼い主がいないことに気付いた署員たちは、保健所に連れて行くかどうか議論する。若い女子署員が心配そうに大介を見た。


「首輪もないし、飼い主がいないなら保健所行きですか?」


署長は首をかしげて同意しかけたその時、大沢武が手を挙げる。


「待ってください! この犬は俺が引き取ります! 庭もあるし、世話ぐらいできます!」


署長は苦笑しながらも許可した。


「じゃあ、大沢君、よろしく頼む」


こうして大介は、思いがけず警察官一家の家で暮らすことになった。


3. 大沢家での新生活


大沢家は武の妻・洋子(生保レディ)、長女・さくら(中学生で空手部)、長男・健太郎(小学生で柔道部)の四人家族だ。玄関をくぐると、さくらと健太郎が飛びついてきた。


「パパ! この犬どうしたの? かわいい!」


「こら、やめろって…ガキども、近寄んな!」


大介は唸り声を上げるが、二人は怯まない。洋子は遠巻きに見ながら苦笑した。


「お手柄犬なんでしょ? でも本当に飼い主いないのかしら…」


「飼い主が見つかるまでうちに置いておくよ」と武が答えると、子どもたちは歓声を上げた。洋子は少し戸惑いながらも、結局うなずいた。


その夜、武は「感謝状と賞品だ!」と興奮気味に松坂牛を取り出した。大介のお手柄を讃えて贈られたのだ。


「今日は特別だぞ! お前もよくやったな」


大量のすき焼きの匂いが部屋中に広がり、大介は唾液が止まらない。しかし、犬の身の上であるため、勝手に食べることはできない。洋子は皿に肉を載せ、大介にも分けてくれた。


これは俺の肉だ

「ご苦労様ね」


大介は夢中で肉を食べる。「うめぇ…うますぎる!」頭の中で叫ぶが、口から出るのはウーッという唸り声だけだった。武がビールを美味そうに飲む姿を見て、体の奥から酒への渇望が湧く。


「おう、お前も飲みたいか?」


そう言って武は小さな容器にビールを注ぎ、大介の前に置く。大介は一気に舐め尽くした。のどに広がる炭酸の刺激と苦味に、彼は思わず尻尾を振る。


「へえ、犬も酒飲めるんだね」と洋子があきれ顔で笑う。


その後、家族でテレビを見ていると、「ルパン三世 次元大介特集」が流れていた。健太郎がテレビ画面を指差す。


「この犬、名前どうしよう? ダイスケにしようよ!」


「いいんじゃない?」さくらが笑う。大介は耳をピクッと立てた。自分の本名で呼ばれて、どこか照れくさいような、認められたような気持ちになった。


こうして大介は「ダイスケ」と名付けられ、大沢家の一員として暮らし始めた。しかし、彼の心はまだざわついていた。母のこと、アキラのこと、自分の過去の行い…そして、再び人間に戻れるのかどうか。犬としての新しい日々は、戸惑いと学びの連続だった。


大介は犬としての生活を通じて家族の温かさに触れ、少しずつ変わり始める。だが、彼の冒険はまだ始まったばかりである。


第2幕

1. 新しい家族の中で

大沢家での犬としての生活が始まった。朝、武が制服を着て交番へ向かい、洋子が営業の準備をし、さくらと健太郎が学校へ走っていく。大介は庭の犬小屋に繋がれ、ドッグフードを与えられた。


「俺がビールと肉を食ってた頃が懐かしいぜ」と心の中でぼやきながらも、犬の身体は用意された餌に素直に反応し、尻尾まで振っていた。


散歩の時間になると、さくらと健太郎がリードを持ってやってくる。公園を駆け回り、投げられたボールを追う自分に驚きつつも、大介は不思議と嫌な気分にはならなかった。汗をかきながら笑う二人の横顔を見ていると、胸の奥にかすかな温かさが広がるのだった。


夜になると、武は晩酌をしながら刑事ドラマを見て溜息をつく。


「くそ…西部警察みたいな事件、俺んとこには回ってこないのか」


彼は自室のクローゼットに渡哲也のポスターを貼り、モデルガンを隠していた。夜中、誰もいない時にそれを取り出し、鏡の前でポーズを決める。


「よし、決まった! 俺もいつか…」


その様子を何度も見かけた大介は心の中で呆れつつも、どこか羨ましくもあった。誰かの憧れや夢に真剣になれるのは、悪くない。


2. 探索と再会

ある日、武が「自主パトロールだ」と意気揚々と出かけた。スーツに身を包み、モデルガンをこっそり忍ばせ、庭の犬に向かって指を差す。


「留守番頼んだぞ! 何かあったら吠えろよ!」


大介は武の背中が見えなくなると、庭のフェンスを越えた。「ちょっと散歩に行ってやるか」——久しぶりに自由を味わえる高揚感が体を駆け巡った。


街へ出ると、懐かしい匂いと喧騒が迎えてくれた。パチンコ屋の前で、以前自分の弟分だったアキラが煙草をふかしているのが見えた。大介は思わず駆け寄る。


「アキラ! 俺だ、兄貴だ!」


だがアキラは眉をひそめ、「なんだこの野良犬、くそ!」と言って足を振り上げた。大介は慌てて身を翻し、蹴られる前に逃げる。かつての自分の存在は犬の姿では届かない。胸の奥がズキリと痛んだ。


次に、大介が通っていたスナックの前を通りかかると、お気に入りだったリリが買い物袋を抱えて歩いていた。大介は彼女の後を追い、吠えて存在をアピールする。


「リリ! 俺だよ…お前に会いたかったんだ」


しかし彼女は「うるさい犬ね」と眉をひそめ、足早に去ってしまう。犬の姿では、どんなに叫んでも伝わらない現実。大介は肩を落として歩き出した。


3. 母の面影

疲れた足は自然と母の営む奥山食堂へ向かっていた。裏口の扉はいつも通り半開きになっている。香ばしいチャーシューとスープの匂いが漂ってきた。


厨房ではさやが黙々と仕込みをしている。大介は吠え声を上げた。


「ワンッ…」


さやは振り返り、犬の大介に気づいて微笑んだ。


「お腹空いてるのかい? ちょっと待ってな」


さやは余った餃子を皿に盛り、犬の大介に差し出した。大介は黙ってそれを食べる。柔らかい皮と肉汁が口に広がり、思わず尻尾が揺れた。


さやはその頭を撫でながら、ふと呟いた。


「うちの大介はどこで何してんだか…いい年なんだから、少しは落ち着いてくれればいいのに。たまに帰ってきても寝てばっかりで、店も手伝わないし…」


その言葉を聞き、大介は喉の奥が締め付けられるのを感じた。今までどれだけ母に心配をかけていたのか。餃子の味がしょっぱく感じるのは、醤油のせいだけではなかった。


静かに食べ終えると、大介は店を後にした。犬の姿のままでは何も伝えられないが、母の背中を遠くから見守ることだけはできた。


4. 秘密の暴露

その夜、武が帰宅すると家族は早々に夕食を終えていた。武は缶ビールを手に、自室へと向かおうとしたが、玄関で洋子に呼び止められた。


「ちょっと、あなた。これ…どういうこと?」


洋子の手には一枚の名刺と、封筒に入った札束。大介は昼間にそれをクローゼットから運び出し、洋子の前に落としていたのだ。洋子はじっと武の目を見つめている。


武は顔を青ざめさせる。


「ち、違うんだ! これは…その…」


言い訳も空しく、洋子の鉄拳が炸裂した。翌朝、武は青あざを隠しながら出勤し、交番で同僚に「どうしたんですか?」と訊かれても笑ってごまかすしかなかった。


大介は庭からその様子を眺めながら、「まぁ、自業自得だな」と鼻を鳴らした。武に対する腹いせは果たしたものの、どこかで罪悪感も芽生えていた。


5. 母の危機と再びの賞

数日後の昼下がり、庭で日向ぼっこをしていた大介は突然胸騒ぎを覚えた。風向きが変わり、鼻腔に焦げた匂いとは別の、鋭い不安の匂いが漂う。


「母ちゃん…!」


大介はフェンスを飛び越え、全速力で奥山食堂へ向かった。裏口を押し開けると、さやが厨房の床に倒れ、胸を押さえている。顔色は青白く、汗がにじんでいた。


「ワンワンッ!」


叫んでも言葉にはならない。大介は慌ててその場を飛び出し、交番まで走った。武がデスクに向かって書類を整理している。


「ワン! ワン! ガウガウ!」


激しく吠える犬に、武は驚きながらも大介の異常な様子にただならぬものを感じた。


「何だ? 何かあったのか?」


大介が食堂の方向へ走り出すと、武は自転車に飛び乗り後を追った。厨房で倒れているさやを発見すると、すぐに無線で救急車を呼ぶ。


数分後、救急隊が駆けつけ、さやは病院へ運ばれた。診断は過労による狭心症の発作。幸い早期発見だったため大事には至らなかった。


後日、署長は再び大介を交番に呼び出し、感謝状と松阪牛を贈呈した。


「奥山さんを助けたのは、この犬のおかげだ。立派な功績だよ」


武は複雑な表情でその様子を見ていた。再び犬に手柄を奪われた気分だったが、心のどこかで大介に感謝している自分もいた。感謝状と肉は洋子の管理下に置かれ、武のへそくり計画はまたしても露と消えた。


6. 小さな恩返し

ある朝、さくらが寝坊して飛び起きた。制服の裾を引きずりながらパンをくわえ、玄関を駆け出していく。テーブルには、彼女の弁当が置きっぱなしになっていた。洋子はそれに気づき焦った。


「しまった、弁当持って行ってない! でももう間に合わない…」


リビングにいた大介は弁当箱を咥え、洋子の前に差し出すように見上げた。洋子は驚き、そして理解したように微笑んだ。


「…お願い。さくらに届けてあげて」


大介は弁当を口にしっかりと咥え、校門へ向かった。校庭では朝練が始まっており、突然犬が現れたことで生徒たちがざわついた。


「犬だ!」「かわいい!」


大介は人波を縫ってさくらのクラスの列に近づき、彼女の前に弁当を置いた。さくらは目を丸くし、少し涙ぐんで弁当箱を受け取った。


「ありがとう、ダイスケ! 本当に助かった!」


周囲から拍手が起こり、さくらは誇らしげに弁当を抱きしめた。大介は尻尾を振りながら胸の奥が温かくなるのを感じた。家族の役に立つことが、これほど嬉しいとは思っていなかった。


こうして第2幕は幕を閉じる。犬としての生活の中で、大介は新しい家族と少しずつ絆を深め、自分の存在意義を見出していく。しかしまだ彼の冒険は続く。次の幕では、新たな危機と大きな決断が彼を待ち受けている。




第3幕

1. 子犬との出会い

夏の終わりの夕暮れ、町をさまよっていた大介は、公園の植え込みから小さな鳴き声を聞いた。段ボール箱の中には、生後間もない子犬が震えている。雨で濡れた毛皮、悲しそうな瞳——過去の自分にどこか似ている気がした。


「どうした、お前…捨てられちまったのか」


大介は子犬をそっと咥え、奥山食堂へ運んだ。さやは驚きながらも、子犬を抱き上げ、少し残っていた餃子を細かくちぎって与えた。


「おや、あんたの子かい? かわいそうにね。うちで食べていきな」


餌を貪る子犬を見ながら、大介は胸が熱くなった。母の優しさは、犬にも人間にも変わらない。そこへ、大沢家からさくらと健太郎が迎えにやってきた。


「ダイスケ! あれ、この子犬…」


二人は目を輝かせた。武は最初こそ渋い顔をしたが、さくらと健太郎の熱意に負け、子犬を家に連れて帰ることを許した。新しく迎えられた子犬は、長くてくるんと巻いた尻尾を振っている。


「名前どうしようか」「えーっと…五右衛門とかどう?」


「いいじゃん! ちょっと昔風でかっこいい!」


こうして、子犬は「五右衛門」と名付けられた。大介は最初こそ面倒くさそうにしていたが、無邪気にじゃれついてくる五右衛門を見ていると、自分がいつしか兄貴分のような気持ちになっていることに気づいた。


2. 武の妄想と犬たちの暴走

日曜日。武は念願の休暇をもらい、自宅で西部警察ごっこに没頭していた。クローゼットの裏には渡哲也のポスター。鏡の前でモデルガンを構え、背中で風を切る。


「バン! 犯人逮捕!」と叫んでいる姿を、洋子と子どもたちは呆れ顔で見ている。


「また始まったよ、パパの妄想…」「早く、行きましょ」3人家族は買い物へ


一方、大介と五右衛門は庭で日向ぼっこをしていたが、武が「自主パトロールに行ってくる!」と出かけるや否や、いたずら心が芽生えた。リビングの掃き出し窓を鼻と前足で開け、冷蔵庫の扉を押し開けると、中にはビールとハムがぎっしり。


「五右衛門、見てみろよ。今日はごちそうだ」


大介はビール缶を咥え、器用に栓を開けて流し込み、五右衛門にはハムをちぎって与えた。二匹はソファに寝転がり、夢見心地でテレビを眺めた。だが、武が帰宅した時の怒号は雷のように響いた。


「このバカ犬ども! 俺のビールとハムがぁぁ!」


怒り狂った武は、その夜、犬たちの夕飯を野菜だけにした。大介と五右衛門は皿いっぱいのレタスとにんじんを見て唸り声を上げた。


「ふざけるな! 肉をよこせ!」


だが、武は腕組みして冷たい笑みを浮かべるだけだった。洋子と子どもたちは肩を竦めて笑いをこらえた。


3. 未遂の銀行強盗と逆恨み

数日後、町の銀行に現金輸送車が到着した。裏通りに停まっていたオンボロ車の中で、三人の男が焦っている。でかい体の悪人1、痩せた悪人2、そして頭(かしら)と呼ばれるボス。


「よし、行くぞ! 一発で大金持ちだ!」と頭が囁く。だが、エンジンをかけようとすると、車はうんともすんとも言わない。


「おい、バッテリーが…」「ガソリンもねぇ!」


そこへ窓を叩く音。「あんたたち、ちょっと免許と車検証見せてもらえる?」交番勤務の大沢武だった。


「え、いや、その…」


免許証も車検証も出てこない。しかもその車のナンバーはすでに抹消登録済み。無免許・車検切れで即逮捕となった。武は無線で応援を呼び、犯人たちは犯行に及ぶ前にあっさり連行された。


「うう…せっかくの計画が…」


留置場の中で悪人1と2は悔しがり、頭は怒りを募らせる。「あの警官…許さねえ。やつの家族に手を出してやる」と恨み言を吐いた。


4. 誘拐事件発生

その翌週の放課後、さくらと健太郎は塾帰りに路地裏を歩いていた。そこにワゴン車が近づき、後ろから覆面姿の男たちが飛び出してきた。あっという間に二人は車内に押し込められ、口を塞がれた。


「おい、静かにしろ! お前らは人質だ!」


暗い倉庫に連れ込まれ、パイプ椅子に縛りつけられたさくらと健太郎。二人は互いに目を合わせ、状況を確認する。


一方、大沢家では洋子が電話を受けていた。


「子供を預かった。300万円用意しろ」


「え…どなたですか?」


「おい、名前は言うな!」と頭が慌てて電話の向こうで叫び、部下の口を塞ぐ。だが「三宅」と名前を出してしまった声ははっきり聞こえた。洋子はすぐに武に電話し、警察は逆探知を始めた。


武は歯噛みしながら机を叩く。「300万円? おかしい…安すぎるだろ。もっと要求してこないのか?」それを聞いた署長は額に手を当てた。「大沢君、そういう問題じゃない!」と嘆く。


電話の向こうからは、遠くで聞こえる重機の音や風の音が微かに漏れ聞こえた。人間の耳には雑音に過ぎなかったが、大介には聞き覚えがあった。あの音は工事現場特有のハンマーの音、近くを走る電車のレールの音——彼は以前働いた現場を思い出した。


「分かった…あそこだ!」


大介は吠えながら家を飛び出し、通りへ駆けた。五右衛門も彼の後を追って走る。


5. 倉庫での決戦

錆びた倉庫では、頭と悪人1・2が金の分配について揉め始めていた。


「おい、やっぱ300万なんて安すぎるだろ!」「どうするんだよ、このままじゃ捕まるぞ」


その隙に、さくらは空手部で鍛えた太ももを使って椅子の脚を蹴飛ばし、縛られたロープを緩め始めた。健太郎も隣で手首の縄を擦り合わせる。


「ケンちゃん、今だ!」さくらが小声で合図すると、健太郎が勢いよく立ち上がり悪人2の背後に回り、柔道の背負い投げを決めた。悪人2は床に叩きつけられ、うめき声を上げる。


「なにっ!? このガキ!」


悪人1が殴りかかってきたが、さくらの回し蹴りが顔面に炸裂し、でかい体がぐらりと揺れた。その隙に大介が飛び込む。犬の鋭い牙が頭の腕に噛み付き、男は悲鳴を上げて転倒した。


「やめろ、このクソ犬!」


頭がナイフを取り出し大介に向ける。しかし五右衛門が背後から吠えながら飛び掛かり、ナイフを弾き飛ばした。頭はバランスを崩し、もんどり打って倒れた。


そこへサイレンを鳴らしたパトカー数台が駆けつけ、武と数人の警察官が突入した。


「全員動くな! 警察だ!」と武が叫び、悪人たちは成す術もなく逮捕された。


縛りを解かれたさくらと健太郎は、武と洋子の腕に飛び込んだ。


「パパ! ママ!」

「よかった…無事で…!」


大介と五右衛門も吠えながら喜び、家族全員が抱き合う。武は大介の頭を撫で、心から礼を言った。


「ありがとうな…お前がいなきゃ間に合わなかった」


6. 栄誉と嫉妬

誘拐事件が解決し、悪人三人は厳罰に処された。警察署では、犬のダイスケと五右衛門に感謝状が贈られた。今回はなんと警視総監賞。金一封と高級牛肉が添えられている。


「またお前らが主役か…」と武は苦笑しながらも、内心誇りを感じていた。テレビ局の記者たちがやってきて、手柄犬として二匹を取材した。子どもたちの学校でも話題になり、健太郎は女子生徒たちに囲まれてヒーローのように扱われた。


「健太郎くん、柔道やっててすごい!」「かっこいい!」と、もてはやされる息子を横目に、武は複雑な表情で頭を掻いた。


「俺はどうせ脇役さ…」


洋子は笑いながら武の肩を叩いた。「家族が無事だったんだから、それで十分じゃない。」


7. 最後の選択

その晩、庭にある犬小屋の前で、大介は月を見上げていた。五右衛門は隣で丸くなって寝息を立てている。すると、ふわりと風が吹き、どこからともなくあの小さな老人——犬の顔をした仙人が現れた。


「よくやったな。お前さん、ずいぶんと変わったのう」


大介は身を起こし、老人を見つめる。


「あんた…!」


「さて、約束の時が来た。お前が犬でいるか、人間に戻るか。どちらを選ぶかは自由じゃ。ただし犬を選べば、人間だった記憶はやがて薄れてゆく。人間に戻れば、犬としての記憶は夢のように遠のくかもしれん」


大介は庭先を見渡した。五右衛門の寝顔、窓越しに見える武、洋子、さくら、健太郎の笑い声。遠く離れた奥山食堂で一人働く母の姿も脳裏に浮かんだ。


犬として生きるのも悪くない。自由で、家族に愛され、自己犠牲すら学んだ。だが、母の店はどうなる? 親孝行もろくにできないまま、このまま犬で終わるのか? 大介の心は揺れた。


「…俺は…人間に戻りたい。母ちゃんのことも…この家族のことも…忘れたくない。全部覚えていたいんだ」


老人は頷いた。


「そうか。では、もう一度チャンスを与えよう。今度はしっかり生きるのじゃぞ」


彼が杖を振ると、柔らかな光が大介を包み込んだ。


8. 新しい朝

翌朝、大沢家の庭に誰かが倒れていた。さくらが掃き出し窓を開けて目を見開く。


「きゃっ!? 誰…?」


そこには、首輪をつけたまま裸で横たわる青年がいた。ボサボサの髪、見覚えのある目つき——奥山大介だった。

驚いて叫ぶ声に、洋子と健太郎も駆け寄ってきた。武も慌てて庭へ出て、彼を見下ろす。

「お、お前…」


青年は目を覚まし、状況を理解すると、あわてて立ち上がった。首輪を外し、フェンスの向こうへ駆け出していく。物干し竿に掛かっていたジャージの下だけを掴み、必死で身につけながら路地に消えた。


「……」


武はしばらく呆然とその後ろ姿を見送っていた。どこかで見たような顔。記憶の片隅に引っかかる。ふと、酔っぱらって交番のベンチでうなだれていた若い男を叱りつけた夜のことが脳裏をよぎる。


「お前いい加減にしろよ、若いんだから真面目に働け!」


その時の青年と今の姿が重なった。武は眉を寄せ、首を傾げる。


「あいつ…どこかで見たな。あの若造…まさか…」


彼は口を閉ざしたまま、庭に落ちていた犬の首輪を拾い上げた。それは確かに、ダイスケのものだった。洋子は困惑しながらも首輪を見つめ、さくらと健太郎は茫然と立ち尽くした。


家族の心には、言葉にできない違和感と、どこか懐かしい感覚が残ったまま、朝の光が射し込んでいた。




9. エピローグ 一年後

一年が経った。奥山食堂には暖簾が揺れ、昼時の香ばしい匂いが通りに漂っている。店内では、奥山さやが常連客と笑いながら談笑している。そのカウンターの向こうで、ハチマキを締め、鍋を振るう若い男の姿があった。


「はいよ! 闘魂定食一丁!」


それは奥山大介だった。長年の放浪と怠惰を捨て、父が遺した食堂を継ぎ、母と二人三脚で汗を流している。腕には筋肉が付き、目つきは真剣そのものだ。


その日、大沢家四人と五右衛門が店を訪れた。五右衛門は立派な秋田犬に成長している。


「おばさん、久しぶりです。闘魂定食ください」とさくらが笑顔で注文すると、大介は鍋を振りながら答えた。


「はいよ! ガッツリ食えよ!」


巨大な丼にご飯五合、カレー、トンカツ、ショウガ焼き、唐揚げが山盛り。家族は目を丸くし、スマホで写真を撮った。武は泣き笑いしながら箸を握った。


「すごいな…親父さんを思い出すよ。あの人も同じもの作ってくれたっけな」


さやは微笑みながら頷いた。店の壁には、「尋ね犬 ダイスケ 見かけた方は連絡ください」と書かれたポスターが今も貼られている。犬だった頃の大介の写真だ。誰にも真実を話していない大介は、そのポスターを見つめると、そっと笑った。


食堂の裏では、一匹の白い犬がクーンと鳴いていた。頭だけうっすら茶色いその犬は、どこかアキラに似ている。


「お前、腹減ってるのか? ほら、食え」


大介はチャーシューの端っこを犬に差し出す。犬は嬉しそうに尻尾を振り、彼の手を舐めた。


通りの向こう、夕日が差す公園のベンチの陰に、あの犬神の老人が佇んでいた。静かに頷き、満足したように微笑むと、風とともに姿を消した。


物語はここで幕を閉じる。半人前だった男が犬として学んだ家族の愛と責任。それが彼を真の大人へと変え、母と新しい家族を繋ぐ絆となった。大介の人生は続いていく。挫折と失敗を抱えながらも、今度こそ「家族」と呼べる人々と共に。

























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ベスト犬ワン 大善山 @ohnozen1963

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