ガラスの鎖
食器を片付け、キッチンの流しから水の音が消えると、リビングに静けさが戻った。
窓の外は雲ひとつない青空で、朝の柔らかい光がカーテン越しに差し込んでいる。
「今日は、何する?」
私がそう聞くと、紗英は少し考えてから答えた。
「……どこか、外に出ませんか?」
「珍しいね。いつも家がいいって言うのに」
「今日は……ちょっとだけ、違う景色が見たいんです」
その言い方に、私の胸がまた少しだけ高鳴った。
この日のために彼女が何かを考えてきたのかもしれない。
朝のキスの余韻を引きずったまま、私たちは出かける支度を始めた。
支度を終えると、紗英は玄関先で小さく息を整えた。
「……じゃあ、行きましょう」
その声は穏やかだけど、どこか緊張が混じっている。
駅前まで歩く道は、朝よりも少し暖かくなっていて、風が心地いい。
隣を歩く紗英は、時折私の袖に指先を触れさせてくる。
無意識なのか、それともわざとなのか——そのたびに心がくすぐられた。
「で、どこに行くの?」
「秘密です」
「またそういう言い方……」
答えを引き出そうとしても、彼女はただ静かに笑うだけだった。
電車に揺られること二駅。降りたのは、見慣れない小さな商店街のある駅だった。
古びた看板、花屋から漂う甘い香り、遠くで響く鐘の音。
紗英は迷うことなく路地に入り、古いビルの横を抜けていく。
「ここ……?」
目の前に現れたのは、小さな美術館だった。
白い壁とガラス張りの入口。中は静かで、冷たい空気が流れている。
「たまに来るんです。人が少ないし、落ち着くから」
そう言って、紗英は私の手首をそっと取った。
絵画の並ぶ廊下を進む間、彼女はずっと手を離さなかった。
大きな窓から光が差し込む展示室で、私たちは立ち止まった。
そこには一枚の大きな油絵——青い海と、岸辺に立つ二人の女性が描かれていた。
「……なんか、私たちみたいだね」
「そう……ですね」
紗英は視線を絵から外さず、指先で私の手の甲をなぞった。
その仕草が妙に熱を帯びていて、言葉を飲み込むしかなかった。
美術館を出ると、空は夕方の色に染まり始めていた。
橙色の光が街並みに影を落とし、少し冷たい風が頬を撫でる。
「少し歩きませんか?」
紗英がそう言って、私より半歩前を歩き出す。
後ろ姿を追いかける形になりながら、その細い背中を無意識に目で追っていた。
やがて、路地の先にある小さなカフェに辿り着いた。
木の扉を開けると、鈴の音が軽やかに響き、温かい空気と甘い香りが迎えてくれる。
窓際の席に座ると、外の通りを行き交う人々がぼんやりと見える。
「ここ、隠れ家みたいですね」
「……気に入りました?」
「うん。紗英が連れてきてくれたから、余計にね」
そう言うと、彼女は少し照れたように視線を落とし、メニューを開いた。
私はその仕草を見て、思わず口元が緩む。
ケーキセットを頼み、運ばれてきたのは苺のタルトとカフェラテ。
紗英はフォークでタルトを小さく切り、口に運んだあと、ふと私を見た。
「……食べます?」
「え、くれるの?」
「特別です」
差し出されたフォークをそのまま口に入れる。
苺の酸味と甘いカスタードの味に、ほんの少しだけ紗英の温もりが混ざっている気がした。
「……うん、美味しい」
「タルトですか、それとも……」
「両方」
その答えに、彼女は小さく笑った。
カフェラテを飲む仕草も、窓の光を受けて少しだけ揺れる睫毛も、全部が静かに胸を締め付けてくる。
「……こうやって二人で外に出るの、なんだか不思議ですね」
「不思議?」
「はい。仕事でもなく、用事でもなく、ただ一緒にいるだけなんて」
「それ、私にはすごく嬉しいことなんだけど」
言葉にすると、彼女の瞳が少しだけ潤んだように見えた。
店内の静けさと、外の夕暮れのコントラストが、時間をゆっくりと流していく。
カフェを出ると、空はすっかり藍色に変わっていた。
街灯が一つずつ灯り始め、夕暮れの名残がほんのり空に溶けていく。
「……ちょっと冷えてきましたね」
紗英が小さく肩をすくめる。
その仕草がなんだか放っておけなくて、私は自然に自分のマフラーを外した。
「ほら」
「え、でも……」
「いいから」
マフラーを彼女の首に巻くと、近い距離でふわりと彼女の息が頬に触れた。
その瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。
駅に向かう途中、急に冷たい風が強く吹き、彼女が一歩こちらに寄ってきた。
ほとんど触れそうな距離。
「……紗英、今日はもう帰るの?」
「予定は、ありませんけど……」
駅へ向かう足を、私はふと止めた。
「じゃあさ、ちょっと寄り道しない?」
「寄り道……?」
首を傾げる彼女を促し、私は商店街の方へと歩き出す。
夕方の喧騒はすでに薄れ、店先の灯りが柔らかく路地を照らしている。
やがて、あの小さな雑貨屋の前に辿り着いた。
ショーウィンドウの中では、以前二人で眺めたガラスのペンダントが、今日も光を受けて揺れていた。
「……覚えてる?」
「ええ。贅沢品、って言ったやつですよね」
くすっと笑うその横顔が、ガラス越しの光に照らされる。
「まあ、あれからずっと気になってたんだ」
私は迷いなく店内へ入り、ケース越しにそれを指差した。
「これ、ください」
店員が包んでくれる間、紗英は少し居心地悪そうに足元を見ていた。
店を出て、私は紙袋を差し出す。
「はい」
「……え?」
「前に言ったでしょ。似合いそうだって。約束だったからね」
そう言って彼女の手に袋を押し込むと、紗英は驚いたまま視線を上げた。
ガラスのペンダントは、街灯の下でさっきよりも柔らかく輝いている。
「……ほんとに、いいんですか」
「いいってば。むしろ付けてほしい」
紗英は少しだけ唇を噛み、そして静かにうなずいた。
首元にそれを掛けると、透明なガラスの中に街の明かりが閉じ込められたようにきらめく。
「……すごく、あったかいです」
「ガラスなのに?」
「そうじゃなくて……」
彼女はそこで言葉を切り、小さく笑った。
その笑顔を見て、私は心の中で思う。
——これが、彼女をつなぎ止めるもう一つの“鎖”になればいい。
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