夜の香り、湯気の向こうで

 湯気の匂いが漂ってくる前に、まず目に入ったのは脱衣所の大きな鏡だった。

 天井の照明が柔らかく反射して、鏡越しに映る私と紗英の姿をうっすらと縁取っている。


「……本当に、一緒に入るんですか」

 紗英がタオルを胸に抱えたまま、小さくこちらを見上げる。

 私が口元だけで笑うと、その視線がますます落ち着かなくなるのがわかった。


「嫌?」

「……嫌じゃ、ないですけど」

「じゃあ決まり」


 私は先にブレザーを脱ぎ、椅子に掛ける。シャツのボタンを外す音が、脱衣所に静かに響く。

 紗英はその音に釣られて視線を上げ、けれどすぐに慌てて逸らした。

 その耳までほんのり赤い。


 彼女の指先がブラウスのボタンをひとつ外すたび、わずかに肩のラインが覗く。

 肌は白く、指先が触れたら沈んでしまいそうなほど柔らかそうだ。


「……見すぎです」

「見せてるくせに」

「そんなつもりじゃ……」

 照れた声が、タオルで覆った胸元からくぐもって聞こえる。


 靴下を脱ぎ終えたところで、私はふっと距離を詰め、紗英の髪に触れた。

 さらりと指を滑らせると、彼女はわずかに肩をすくめた。

「大丈夫、恥ずかしいのは最初だけ」

「……最初だけ、ですか」

「うん。あとは気持ちいいだけ」


 そう囁いて、私はタオルを手に取り、彼女の肩からそっと引き下ろした。

 その瞬間、紗英は小さく息を呑み、視線を床に落とす。

 けれど逃げることはしなかった。


 浴室のドアを開けると、白いタイルと曇り始めたガラスが目に入った。

 シャワーから流れるお湯の音が、静かに空間を満たしている。


「座って」

 私が椅子を示すと、紗英は少しぎこちなく腰を下ろした。

 背中にお湯をかけると、彼女の肩が小さく震える。

「熱くない?」

「……ちょうどいいです」


 シャンプーを手に取って泡立て、その泡を髪に乗せる。

 指の腹で頭皮をゆっくりとマッサージすると、彼女の呼吸が少しずつ深くなっていくのがわかった。

「……気持ちいい?」

「……はい」

 その声は、浴室の響きで少し甘く聞こえる。


 髪を洗い流す時、彼女の首筋にかかるお湯が滑って、鎖骨へと落ちていく。

 その様子に視線を奪われながら、私は自然と顔を近づけていた。


「……莉音さん、そんな近くで……」

「香り、好きなんでしょ」

 わざと囁くと、紗英は恥ずかしそうに目を閉じた。


 次に、私も向かい合う形で椅子に腰掛けると、紗英が恐る恐るシャワーを手に取った。

「……流しますね」

 お湯が肩から背中にかけて落ちる。

 その手つきは優しいのに、時折指先が素肌をなぞって、妙にくすぐったい。


 ボディソープを泡立ててくれる時も、彼女の手はためらいがちで、

 触れているのか、触れていないのか分からないくらいの力加減だった。

 だから、私は軽く手首を掴んで、もう少し強く、と促した。


「……莉音さんって、ずるい」

「またその言葉?」

「だって……距離を詰めるのが、早すぎます」

「でも、嫌じゃない」

「……嫌じゃないです」

 小さく笑って答えるその表情が、湯気越しに滲んで見えた。


 湯船に二人で浸かると、肩が自然に触れ合う。

 お湯の熱と、彼女の体温と、さっきまでの恥じらいが全部混ざって、

 空気が柔らかく、でもどこか張り詰めていた。


「こうして並んでると、恋人みたいだね」

「……みたいじゃなくて、ですよ」

 そう返す紗英の声は、湯気に溶けて低く響いた。


 私は腕を回して彼女の肩を引き寄せ、そのまま頬に唇を寄せる。

 軽いキスのはずだったのに、紗英がわずかに顔を傾けたせいで、唇同士が触れた。


 お湯の中で指先が触れ合い、彼女の手がそっと私の指を握る。

 その温かさが胸の奥にまで染み込んでいくようで、

 私は離れるのが惜しくなった。


 湯船から上がると、バスタオルで包みながら、

「……今日は、もう離さないから」

 と耳元で囁いた。


 紗英は顔を真っ赤にしながらも、私の腕を押し返すことはなかった。

 そのまま脱衣所の光に包まれて、濡れた髪から香りがふわりと立ち上る。


 夜は、まだこれからだった。

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