香りの鎖

 背中越しに感じる鼓動が、私の心臓と同じリズムを刻んでいるようだった。

 ほんのわずかに身じろぎするたび、抱きしめた腕の中の温もりが確かめられる。


「……莉音さん」

「なに?」

「これ以上は……だめです」

 そう言いながらも、紗英は腕を解かない。

 むしろ、指先が少しだけ私の服をつかんでいる。


「口ではそう言ってるけど、身体は帰す気なさそう」

「……そういうの、ずるいです」

 小さくため息をつき、彼女はようやく腕をゆるめた。


 けれど、離れたのはほんの数センチ。

 視線を上げると、すぐそこに潤んだ瞳があった。

 呼吸が混ざり合いそうな距離。


「……もう帰りますか?」

「まだ。せっかく来たんだから、もう少し見てみたい」

「見ても……いいものなんて、ありませんよ」

「あると思うけどな」


 私は軽く微笑んで、控室の奥を見やる。

 鏡の前には、まだ手を通していない黒のドレス。

 その艶やかな布地に指先を滑らせると、紗英がそっと近づいてきた。


「それ……着てみますか?」

「私が?」

「……違います、私です」

 少し照れくさそうに言い直す。


 その提案は、思っていた以上に危うく響いた。

「じゃあ、着替えるところも見ていい?」

「——だめです」

 即答だったけれど、耳の赤さは隠せていない。


「着たところは見せてくれる?」

「……それくらいなら」


 紗英はドレスを抱えて、奥の更衣室へ消えていった。

 閉まる扉の向こうで、布が擦れる音や小さな息遣いが漏れ聞こえる。

 その間、私は胸の奥にじわじわと広がる期待を抑えることができなかった。


 やがて、扉が開く。

 そこに立っていたのは、昼間とはまるで別人のような紗英だった。

 艶のある黒が肌の白さを際立たせ、ゆるく巻かれた髪が肩に落ちる。


「……どうですか」

「反則級」

「また……そうやって」


 彼女は視線をそらしながら、そっと前髪を耳にかけた。

 私の視線が首筋をなぞるのを、きっと感じているはずだ。


「紗英」

「……はい」

「近くに来て」

 少し躊躇してから、彼女は足を一歩進める。

 そしてまた、その香りが私を包み込む。


「やっぱり……ずるいのは、私じゃなくてあなたでしょ」

 そう囁くと、紗英はほんの一瞬だけ笑みを見せ、再び距離を詰めた。


 彼女の指先が、そっと私の袖口に触れた。

 ただそれだけなのに、心臓が大きく跳ねる。


「……莉音さん」

「ん?」

「こういうの、あまり慣れてないんです」

「ふふ、知ってる」

 からかうように笑うと、紗英は唇をわずかに尖らせる。

 それでも視線は逸らさず、むしろ真っすぐに私を見ていた。


 私は手を伸ばし、彼女の頬を指先でなぞった。

 驚いたように瞬きをしながらも、その頬は私の手のひらにすっと寄り添う。


「……やっぱり、近くで見ると綺麗だね」

「……そういうの、反則です」

 囁く声が、わずかに掠れている。


 髪から香る甘い匂いと、肌越しの熱。

 私はもう片方の手で、彼女の腰をそっと引き寄せた。

 細いのに確かな温もりがあって、離す気になれない。


「……莉音さん」

 呼ばれた声は小さく震えていた。

 唇が何か言いたげに動くが、言葉にならない。


 耳元に顔を近づけ、「どうしたの?」と囁く。

 紗英の肩が小さく揺れ、ほんの一瞬ためらった後——私の首に腕が回された。


 その瞬間、距離が完全に消える。

 胸元に伝わる体温が、直接心臓を打つようだった。


「……もう少し、このままで」

「うん」

 短い返事をして、私はその背中を撫でた。


 肩口にうずめられた顔から、小さく安堵の息が漏れる。

 耳元で響くその音に、胸の奥がじわりと熱くなる。


 この温もりが、ずっと私のものだったらいいのに。

 そんな考えが、静かに心を満たしていった。

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