約束の休日

 休日の昼過ぎ。

 待ち合わせ場所に現れた紗英は、いつもの制服姿ではなく、淡い色のワンピースを着ていた。

 肩にかかる髪はいつもより柔らかく揺れて、表情もどこか穏やかだ。


「本当に来るとは思わなかった」

「……約束しましたから」

 そんなやり取りを交わしながら、私は駅前から少し離れた自宅マンションへ彼女を案内する。


 オートロックのエントランスを抜け、エレベーターで上階へ。

 カードキーをかざして部屋に入ると、紗英が小さく目を見開いた。

「……一人暮らし、なんですね」

「まあね。親と一緒だと自由きかないし」

「それにしては……広くて、きれいで……」

「セキュリティもしっかりしてるでしょ。ほら、座っていいよ。好きなとこに」


 そう言うと、紗英は部屋の中をゆっくり見回し、少し迷ったあと——

 ベッドの横に腰掛けた。

 視線を落としたまま、そっと手を伸ばして枕を抱きしめる。

 その仕草が妙に絵になって、私は口元が緩む。


「……これ、莉音さんの香水の匂いがします」

 ふと、紗英がそう呟いた。

 頬を染めながら枕に顔を寄せる。

「……好きなんです、この香り」


 胸の奥がくすぐられるような言葉だった。

 私はベッドの縁に腰掛け、わざと彼女の視線の高さまで顔を近づける。

「——じゃあ、枕じゃなくて私を抱きしめなよ」


 紗英の肩がびくりと震える。

 視線が合ったかと思えば、すぐに逸らして枕に顔をうずめた。

「……まだ、早いです」

 小さく震える声。耳まで真っ赤だ。


 私はその反応に、心の奥が妙に満たされるのを感じた。

「そっか。じゃあ……気が向いたらでいい」

 そう囁くと、彼女はますます枕を抱きしめ、香りを逃がさないように深くうずくまった。


 私は立ち上がり、キッチンから紅茶を淹れて戻ってくる。

 その間も紗英は、まるで守り神のように枕を抱きしめたままだ。


「お待たせ」

 テーブルにカップを置くと、ふわりとアールグレイの香りが広がった。

「ありがとうございます」

 ようやく顔を上げた紗英は、頬の赤みを隠そうとするように視線を落としたまま、カップを手に取る。


「どう? 甘くしてあるけど」

「……美味しいです」

 言葉は簡潔だが、指先がカップの縁をなぞる仕草が、落ち着きのなさを物語っている。


「ねぇ紗英」

「……はい?」

「『まだ早い』って言ってたけど、何が早いの?」

 わざと軽い調子で聞くと、彼女は息を詰まらせた。

「……そういうことを、簡単に聞かないでください」

「簡単にじゃないよ。知りたいから聞いてる」

 テーブル越しに身を乗り出すと、紗英は慌ててカップを置き、再び枕を抱きしめる。


「……やっぱり、この香り、落ち着きます」

「じゃあ、私が隣に座ったらもっと落ち着くかもね」

 そう言って、彼女のすぐ横に腰を下ろす。

 距離はほとんどゼロ。肩が触れるか触れないかの位置。


 紗英は枕越しに小さく息を呑み、視線を落としたまま動かない。

 沈黙が数秒続く。

 その間にも、私の香水の香りがきっと彼女を包み込んでいる。


「……莉音さんは、本当に意地悪です」

「そう?」

「はい」

 枕に顔を埋めながらも、声だけははっきりしていた。

 その素直さが可愛くて、私は軽く笑ってしまう。


「じゃあ、もう少しだけ意地悪してもいい?」

 返事はない。けれど、彼女の指先が枕を強く握る。

 それが、無言の承諾に思えた。


 私はゆっくりと手を伸ばし、彼女の髪に指を通す。

 さらさらとした感触。

 その瞬間、紗英の呼吸が小さく揺れる。


「……やっぱり、まだ早いです」

 そう言う声は、さっきよりも弱く、揺れていた。

 けれど、その枕を手放すことはなかった。


 私は紗英の髪からそっと手を離した。

 触れた瞬間の熱が、指先にまだ残っている。


「……じゃあ、今日はこのくらいで我慢する」

 冗談めかして言うと、紗英は少しだけ肩の力を抜いた。

 それでも枕は離さず、視線も合わせようとしない。


「助かります」

 短い言葉に安堵と、ほんの少しの残念さが混ざっているのを、私は聞き逃さなかった。


 私は立ち上がり、カップを片付けるふりをして距離を取る。

 その背中に、紗英の視線が刺さる気がした。

 振り返ると、彼女はまだベッドの端に座ったまま、私の香水の香りに包まれている。


「……ほんとに、変な人ですね」

「どっちが?」

「どっちも、です」

 そう言って、ようやく小さく笑った。


 玄関まで送るとき、私は何気なく近づき、彼女の肩に軽く触れる。

 その距離で、もう一度香りを感じさせるために。


「また来なよ」

「……考えておきます」

 その返事は、前よりもほんの少しだけ柔らかかった。


 ドアが閉まり、足音が遠ざかる。

 静まり返った部屋に、紗英が抱きしめていた枕の形が残っている。

 香水の香りと、彼女の温もりが混ざったその感触を確かめながら、私はゆっくりと深呼吸をした。


 ——次は、あの枕じゃなくて、私を抱きしめさせよう。

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