休日の旋律
休日の朝。
いつもなら昼過ぎまで布団の中でだらけている私が、今日は八時きっかりに目を覚ましていた。
カーテンを開けると、夏の光が差し込み、部屋の中が一気に明るくなる。
頭の奥で昨日の言葉が繰り返される。
——「音楽室、見に来ませんか?」
ただの好意的な誘いだって分かっている。
でも、胸の奥にあたたかい火種みたいなものが灯ってしまって、消すことができなかった。
学校に行く格好なんて久しぶりにちゃんと考えた。
休日だし制服じゃなくてもいいけれど、あまり気合いを入れすぎると「どうしたの?」と勘ぐられる。
無地の白Tにデニム、薄手のパーカー——それだけなのに、鏡の前で何度も髪をいじってしまう。
結局、前髪を少しだけ巻き、メイクもいつもより控えめにした。
駅から学校まで歩く間、蝉の声がやけに大きく耳に届く。
こんな日にわざわざ学校に来るなんて、自分らしくない。
けれど、足取りは意外と軽い。
校舎に入ると、休日特有の静けさが広がっていた。
人影がほとんどなく、足音だけが廊下に反響する。
音楽室の扉の前に立ち、軽くノックした。
「どうぞ」
中から聞こえた柔らかな声に、胸が小さく跳ねる。
扉を開けると、紗英がピアノの前に座っていた。
白いブラウスにロングスカート。制服よりもずっと落ち着いた雰囲気で、けれどどこか親しみやすい。
「来てくれて、嬉しいです」
「暇だっただけ」
そう言いながらも、視線は彼女の手元に吸い寄せられる。
細くしなやかな指が鍵盤の上で踊っていた。
「今、練習中?」
「ええ。あと一週間で演奏会があるので」
「へえ……それ、学校の?」
「いいえ、外部の仕事です」
彼女は言葉を濁さなかった。
それが、昨日までなら決して触れなかった領域だと気づき、少し胸が締めつけられる。
「座って聞いていてください」
促されて、窓際の椅子に腰掛けた。
次の瞬間、柔らかくも芯のある音が部屋いっぱいに広がった。
最初は穏やかで、徐々に力強さを増していく旋律。
まるで彼女自身を見ているみたいだと思った。
完璧に見えて、その奥には必死で支えるための力がある。
そんなことを考えていると、不意に音が止んだ。
「どうでしたか?」
「……すげぇ。なんか、映画の中にいるみたいだった」
自分でも笑えるくらい素直な感想が出てしまい、紗英はくすっと笑った。
「莉音さんは、楽器はされないんですか?」
「中学のとき、ちょっとギター触ったくらい。コード三つで飽きた」
「もったいないですね」
「向いてないんだよ、真面目に練習とか」
「それは、まだ夢中になれる曲に出会っていないだけです」
そう言って、彼女は鍵盤の横をぽんと叩いた。
「ここ、どうぞ」
「は?」
「試しに弾いてみませんか?」
「いやいや、私なんか……」
「大丈夫です。私が隣にいますから」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなる。
促されるままに隣の椅子に座ると、距離が近すぎて息が詰まりそうになった。
香水じゃない、ほんのり甘い石けんの匂いがする。
「では、この鍵盤を——」
彼女が私の手を取った。
冷たくも温かい、不思議な感触。
指先を導かれるまま押すと、ぽーんと高い音が響く。
「ほら、きれいな音でしょう?」
「……うん」
ただの一音なのに、隣で彼女が微笑むだけで特別な響きに思えた。
何度か一緒に音を鳴らしているうちに、ふと気づく。
彼女の指先がほんの少し震えている。
演奏のときは完璧だったのに。
これは、近すぎる距離のせいか、それとも——。
一通り遊びのような練習が終わると、彼女はポットから紅茶を淹れてくれた。
「休日に学校でお茶なんて、ちょっと変ですよね」
「まあな。でも悪くない」
カップ越しに、彼女がふっと笑う。
その笑顔が、ピアノの音よりも胸に残った。
帰り道、蝉の声は相変わらずうるさかったが、不思議と耳障りじゃなかった。
彼女の横顔をちらりと盗み見る。
陽射しに照らされて、睫毛が金色に光っている。
——守りたい。
そんな言葉が頭に浮かんで、自分で驚く。
今まで誰かに対して、こんなふうに思ったことなんてなかった。
彼女が軽く会釈して駅の改札に入っていく。
私はしばらくその背中を見送った。
きっと、もう戻れないところまで来ている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます