手の届く距離で

 次の日の朝、雨は上がっていた。

 校門をくぐった瞬間、夏の湿った空気がまとわりついて、息苦しいくらいだった。

 それでも私は、昨日よりずっと軽い足取りで校舎へ向かっていた。

 

 理由は——まあ、自分でもわかっている。

 あの会長の、完璧じゃない一面を知ったからだ。

 弱さを見せた彼女を思い出すと、胸の奥がじんわり温かくなる。


 教室に入ると、席に腰掛けるなり隣の女子が話しかけてきた。

「昨日、またサボったでしょ?」

「別にいいだろ、授業聞いたって変わらないし」

 適当に返す。

 でも、心の中では別のことを考えていた。

——今日はちゃんと授業、出てみようかな。


 別に真面目になるつもりなんてなかった。

 けれど、彼女が必死で学びながら家計を支えていることを知ってしまった今、

 自分だけだらけているのが、妙に後ろめたく感じる。


 二時間目が終わり、廊下を歩いていると、ちょうど紗英とすれ違った。

「あ……おはようございます、莉音さん」

「お、おう」

 昨日の雨の日のことが一気に蘇って、思わず目を逸らす。

 向こうはいつも通り涼しい笑みを浮かべていて、そのギャップに余計心臓が騒がしくなる。


 彼女は小さな紙袋を抱えていた。

「それ……?」

「昼食用のお弁当です。妹が作ってくれたんですよ」

「妹が?」

「ええ。最近、家事を手伝ってくれるようになって」

 その声色はやわらかく、ほんの少し誇らしげだった。


 昼休み。

 私は中庭で缶コーヒーを開け、ぼんやり空を見上げていた。

 すると、ベンチの向こうに紗英の姿を見つけた。

 ひとりで本を読んでいる。

 陽射しが髪に透けて、さらさらと風に揺れているのがやけに絵になっていた。


——こういうとき、何を話しかければいいんだろう。

 迷った末、昨日の礼を口実にして近づいた。


「……昨日、ありがとな」

「昨日……ああ、傘のことですか?」

「それもだけど……話してくれたことも」

 私が言い終わると、紗英は一瞬きょとんとした後、微笑んだ。

「……信じてくれると思ったからです」


 その一言で、胸の奥にずしんと重みが落ちた。

 信じられている。

 それは、私が今まで一度もちゃんと手に入れたことのないものだった。


 午後の授業が終わった後、私は何となく音楽室の前を通った。

 扉の隙間から、ピアノの音が漏れてくる。

 足が勝手に止まる。

 低く落ち着いた旋律。

 それは、昨日の帰り道で聞いた雨音と同じくらい、優しく胸に染み込んでくる。


 中を覗くと、紗英が椅子に座り、指先で鍵盤をなぞっていた。

 制服姿の背筋は真っすぐで、指の動きが水の流れのように滑らかだ。


——なんでだろう。

 あの完璧な姿が、昨日よりもずっと儚く見えた。


 気づけば放課後、校門を出たところで彼女を待っていた。

「……あれ? 莉音さん、まだいたんですか」

「ちょっと……一緒に帰ろうかと思って」

 自分でも不自然なくらい、言葉がぎこちない。

 彼女は少し驚いた後、微笑んだ。

「はい。では駅まで」


 駅までの道は、昨日よりも短く感じた。

 傘はない。

 代わりに、すれ違うたび肩が触れるくらいの距離で歩く。


「そういえば、明日は休みですよね」

「うん」

「もし時間があれば……音楽室、見に来ませんか?」

「……いいのか?」

「ええ、練習のついでですから」


 その瞬間、心の奥がふっと熱を帯びた。

 会長からの、はじめての誘いだった。


 家に帰っても、その言葉が頭から離れなかった。

——音楽室で、二人きり。

 今までの私なら、暇つぶしに面白がるだけだったはずだ。

 でも今は、それ以上の理由で、明日が待ち遠しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る